ここからいつか、外の世界に戻る日が来ても、
Impressions 4
 
 
 
白く明るい室内に、クリスマスツリーを見つけて、みーくんは、ああもうそんな時期になるんだな、と今更に感じている。
生木のツリーには、一つ一つ小さなビニールに入った可愛いクッキーが、リボンに結ばれて飾られてあった。
「すぐできるから、ちょっと座って待っていて、先生」
篤子ちゃんにはそう言われて、一旦はソファに座ったものの、手持ち無沙汰で、何となく彼はそのツリーの飾りに手を触れた。
「それ、昨日まではチョコレートのがあったんだけど、友達が持って行ったの。プレーンのしかないけど、よかったらどうぞ」
リビングにつながったキッチンから、こちらをのぞいて、彼女はそう言った。まるで、みーくんがチョコレートのクッキーがなくて、しょぼくれているのを慰めるかのような口調だった。
甘いものには興味はないけれど、そう勧められれば、もらわないでいるのも素っ気ないかとも思い、彼は一つを枝から外し、ダウンジャケットのポケットに入れた。
ほどなく、いい香りがし始め、ぱたぱたと食卓が整った。ダイニングのテーブルの籐のマットに載ったそれらの品々は、彼を驚かせるのに十分だった。
ロールキャベツに、ポテトサラダ、ほうれん草の胡麻和え、それに溶き卵としめじの味噌汁。そばには温かそうなご飯が艶々と茶碗に盛られている。
「どうぞ、食べて。冷めるから」
「ありがとう」
食べると、非常に旨い。
前に掛けて、少量の同じ献立を食べながら、篤子ちゃんはちょっと心配そうに彼を見ている。にわかに、よく知らない男を家に上げたことを警戒し出したのか。それとも味が不安なのだろうか。
「おいしいよ」
彼の言葉を聞くと、ほっとしたのか彼女はやや饒舌になった。今更恥ずかしさが込み上げてきたのかもしれない。
「ポテトサラダは、今朝作った分だったの。トマトソースのロールキャベツは先生、大丈夫? うちの父はホワイトソースの方がいいって言うの。でも、こっちも、おいしいと思うし…」
「おいしいよ、僕はこっちがいい」
ホワイトソースのロールキャベツというものが、みーくんには想像がつかない。
彼も、これまで恋人に手料理を振舞われたことくらいはある。でもそれはどんとハンバーグであるとか、どんとカレーであるとか、またどんとシチューであったりして、どこかお手軽な感じで、今とは違っていた。
つくづく器用な子だな、と思う。
話しながら、深過ぎないだろう程度に、みーくんは彼女のことを訊ねた。共通の話題などなく、それ以外なかったからだ。
ミッション系の短大の一年生であること、父親と二人暮らしであること、そのためか、ひどく料理が上手いこと。
てっきり彼は、彼女の母親がこのようにきれいに部屋を整えているものだとばかり思ったが、それは彼女の手によるものだということ。
初見から、きちんとした感じの子だとは思った。礼は言うし、我を張り過ぎない。そして今どきの、清潔感のある小さくて可愛らしい子だと思った。
二十歳前で、自分の父親を「父」と人前ですんなり口にできる人間は、そんなにいないだろう。彼の六つ下の妹などは、平気で「ママ」と使うのだ。そんなことにもみーくんは驚いている。
ひどくおいしくて、勧められるままご飯をお代わりした。久し振りにちゃんとしたものを口にした気がする。彼の普段の食生活などは、劣悪に近い惨憺たるありさまだ。
朝、ぎりぎりに部屋を出て、予備校に着くやじゃんけん(ときにはあみだくじ)で、コンビニにパシる役を決める。適当にそれで腹ごしらえし、昼食も同じか出前を頼み、夜はまた朝に同じか、遅い仕事帰りに外食で済ませてしまうことも多い。
独身の男はそんなものだろう、と取り立て侘しいとも思わないが、寂しくはある。
ぴゅーと木枯らし吹き荒れるのみーくんのお粗末な食生活事情に、篤子ちゃんは意図もせず、亜熱帯の甘い風を送ったことになる。
食事の後で、彼は篤子ちゃんを今日誘った目的を思い出した。元教え子の女の子から、誕生日にプレゼントをもらっていたのだ。そのお返しをしなければ、と思いつつ忙しさに忘れ、何を返せば軽くていいかも思いつかず、放っておいて二ヶ月になる。
同じ年頃の篤子ちゃんならば、重さのないいいお返しの品を考えてくれそうだと思ったのだ。しかし、ここに至ってようやく今目的を思い出す彼も、彼女の繰り出すびっくりの連続に、かなり動顛していたのだろう。
食器を下げ、コーヒーを淹れてくれながら、彼女はプレゼントに何をもらったのかを訊いた。
CDだよ」
洋楽のコンピレーションアルバムだった。みーくんはそれを予備校のデスクの引き出しに入れたまま、セロファンも解いていない。
「放っておいたらいけないの?」
篤子ちゃんは既に敬語を忘れている。みーくんは気づいたが、そんなこと、どうでもよくなっている。
「…教え子だった子に、もらいっ放しっていうのも、ちょっとまずいかなと思って」
「ああ」
みーくんが言外ににじませたニュアンスに、彼女は敏く気づき、それなら消えるものが軽くてお返しにちょうどいい、と言う。
「お菓子なんかどう? クッキーとか焼き菓子なら、日ももつし、誰がもらっても、そんなに迷惑じゃないんじゃないかな」
そして、『○○』のがおいしくていいと思う、と店名まで教えてくれた。聞いた店名と住所を覚え、それをいつ買いに行こうかと、ちょっと予定を繰っていると、篤子ちゃんが、
「そのお店、確か日曜はお休みだから、わたしが買っておきましょうか? それを先生の予備校に持って行ってあげる」
「でも、それじゃ、篤子ちゃんが面倒じゃない?」
「ううん。わたしもあそこのマドレーヌが食べたくなったから、ちょうどいいの」
簡単に請合ってくれた。
それは、普段忙しい彼の手間を多いに省いてくれるし、何より、もう一度彼女に会えることになる。
「じゃあ、悪いけど、頼めるかな」
「うん」
もうちょっとだけ話して、礼を言って二時半にはみーくんは彼女の家を出た。
車に戻ると彼は煙草をくわえ、火を点けた。実家のある花滝温泉に向かいながら、考えるのはさっき別れた篤子ちゃんのことばかりだ。
信号待ちの間に、ハンドルに置いたままの手に、煙草の灰がどんどん長くなる。アクセルを踏み出すと、振動にぽとりと膝に長過ぎた灰が落ちた。
大して重さのなかった彼女の存在が、手料理を通して、ちょっとの間に生々しく異性として入り込み、そして自分の中で、気づけばひどく大きくなっているのを感じずにはいられないのだ。
そんな抗いようのない不思議な感覚に、ややのまれたように、ぼんやりとしてしまう。
みーくんにだって、自覚はある。
自分が既に三十一になっていること。篤子ちゃんはその十二も年下で、まだ学生であること。彼女にはきっと、歳のつり合う亮のような者が似合うのだろうと、当たり前に悟ってはいる。
二年近く前に別れた直近の彼女は、彼の三つ年下だった。二人の間で結婚話が進むにつれ、あれこれ揉めて結局別れたが、その元彼女のように、三つ、もうちょっと贅沢をいえば四つ、それ程度下の女の子が、自分には似合いなのだと、思ってもきたし、思ってもいる。一回りも違うなど、論外だと。
(でもな…)
彼は瞳に触れかかる前髪を、指でかきやった。
篤子ちゃんの可愛い面影が目に鮮やかで、忘れ難いことにも気づいている。実をいえば、小柄でほっそりとした様子も可愛くて好みなのだ。
おそらく、恋の始まりで、自分は好きになりかけている。
急に前の車が速度を緩め、それにつれ、みーくんもブレーキを使った。弾みで、母親に頼まれたリアシートの蒸しミルク饅頭が、床にどさどさと転がった気配がしたが、振り返りもしなかった。
どうであれ、とみーくんは考えた。
(僕が勝手にあれこれ悩んでも、しょうがない)
篤子ちゃんが受け入れてくれなければ、いくらみーくんが恋焦がれようが、恋病もうが、それでちょんで、アウトなのだ。
(けど…)
単なる自然な親切心や、これまでの行きがかり、彼への礼の意味なのだろうが、彼女の行為は、しっかり底に好意がにじんでいるように思えるのだ。自惚れだろうか。
(とりあえず、嫌われてはいないだろう)
そう思い直すと、気持ちが和み、おかしなくらいに嬉しくなった。また近いうち会える事実があることも、気持ちを上向かせた。
 
 
約束通り、篤子ちゃんは三日後の平日、みーくんの予備校へ寄ってくれた。
それはちょうど、彼がこの日最後の授業を終えて職員室へ戻ってきたところで、電話番に置いてある亮くんが、ポッキー菓子をつまみながら、ぶっすりとした様子でみーくんにあらぬ方を顎で示した。相変わらず、裄丈の合わないみーくんのスーツを借用している。
「みーくんに用だって」
部屋の隅のくたびれた応接セットに、ちんまりと篤子ちゃんが掛けていた。グレーのふんわりしたミニスカートから、タイツをはいたブーツの足がのぞいている。
普段は疲れたみーくんら講師連が、空いた時間寝転んだり、眠ったりする黒の長椅子が、今はそこだけひどく華やいで見えた。
仕事じまいの同僚らが、ちらちらこちらをうかがっている。元教え子だろうか、でも見覚えがないな、若い女の子がみーくんに何の用かな、とでも、面白く勘繰っているのだろう。
手間の礼にと、この後でみーくんは彼女を食事に誘った。意外なことに、空腹なのか、喜色を浮かべ、あっさりと彼女は誘いに乗ってくれた。父親が不在で、一人ではご飯を食べるのが面倒だったらしい。
「大阪風のお好み焼きが食べたい」と言う。時間さえあれば、大阪にだって連れて行ってあげたいと思った。
亮くんが『お好み焼き』に、物欲しげな顔を見せたが、誘っても、珍しく彼は首を振った。みーくんと篤子ちゃんの間に、遠慮しないとまずいかな、と思わせる何かを、敏感にも嗅ぎ取ったのかもしれない。
篤子ちゃんお薦めのお好み焼き店に入った。
彼女は、料理上手なくせに、お好み焼きを返すのが下手で、返しに失敗し、鉄板に生地を散らせてしまった。
「ごめんなさい」
「いいよ、いいよ」
へらを受け取り、今度は彼が返してあげた。手の大きさや力の作用か、上手くいった。きれいに整形できたお好み焼きに、にこにこと嬉しそうにしている。
そんな彼女を見ていて、みーくんはどうしてもちょっと頬が緩むのだ。ちくりと胸が痛むほど、彼女を可愛いと思った。
食べながら、とんとんと話がまとまり、みーくんは今度の休みのボードに、彼女とその友達一人を一緒に連れて行くことになった。
「初心者なの」という彼女に、彼は二年前始めたばかりの自分のボードの腕前を思い、軽い咳払いの後で、スキーの方がいいよ、と薦めた。
「ボードは転んだとき負担が、女の子には大きいと思うよ。スキーなら、僕が教えてあげる」
「ふうん」
もっともらしいみーくんの言葉は、嘘でもなく彼の持論だけれども、もちろん自分がスキー巧者なのを考慮に入れてのものだ。
篤子ちゃんは、割り箸の先を唇に当てながら、
「…先生が教えてくれるんなら、じゃあスキーにしようかな…。でも、高校のスキー旅行で一度行ったきりで、初心者なの。迷惑かな…先生?」
どうしてだか恥ずかしそうに声をひそめる彼女が、何だかおかしくて、みーくんはちょっと笑った。
「大丈夫、すぐ上手くなるよ」
「ならなかったら? 上手な人はすぐそうやって言う」
「大丈夫、上手くなるまで一緒にいてあげるよ。もし上達しなかったら、僕のせいだ。篤子ちゃんのせいじゃなくて」
どんなときでも彼の言葉は落ち着いて響き、優しい。



          

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