輝く月に、夢見るいつか、叶わぬ幻
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早朝からのスキーの帰りは、ハンドルを握るみーくんも、その隣りの助手席の本城さんも眠たげで、欠伸がしょっちゅうもれた。
縦も横も大きい本城さんが、茶色のタートルネックに首を埋めるようにしていると、まるで大きな熊のぬいぐるみのようだ。
篤子ちゃんとその友達の菫ちゃんを送り、これからみーくんの実家へ向かうところだった。デジタル時計が午後五時を指している。
とっぷりと暮れた街中を走る。眠気もあり、前方の車のライトが目にしむようにまぶしい。
眠気覚ましに飲んだ缶コーヒーが、ちっとも効いてこない。昨夜は不意の残業で、今朝は六時起きで、女の子を迎えに行った。それでも運転くらいは支障なくこなせるのは、スキー場では教えるばかりで、自分自身がほとんど滑ることがなかったからだろうか。
「聡、もう着いてるかな。昼くらいにメールがあった」
大欠伸の後で本城さんが言う。聡というのは彼らの高校時代からの友人で、今は県外で医師となっている。普段忙しい彼が、たまの固まった休みに、地元へ帰ってくると連絡を寄越してきたのは、先週だ。
「せっかくの休暇に、こっち帰ってくるくらいだから、あいつ、彼女と別れたみたいだな、みーくん」
「どうだろう」
「別れたって、明日の昼メシを賭けてもいい」
本城さんは、何でも賭けるのが好きだ。
「じゃあ、お前が聡に訊けよ」
「いや、僕よりみーくんの方が、当たりがソフトだ」
聡のガラスのハートをいたわってやらないとまずいだろう、と本城さんは言う。
実家に着くと、うっすら雪の残る砂利敷きの駐車スペースに、見覚えのある車が止まっていた。果たして、茶の間にはこたつに入って寝転んでいる友人の姿があった。聡こと柏木さんだ。今夜はみーくんも本城さんもこちらに泊まり、飲むことになっている。
柏木さんは二人が現われた気配に、むっくりと起き上がった。こたつの上の眼鏡をかけて、「さっきまで絹子小母さんいたんだけどな」と言う。絹子小母さんとは、みーくんの母親で、小早川家の家業の旅館『花のや』の女将である。
仕切りのガラス戸の向こうへちょっと首を捻って、
「寿司だって、出前取ってくれた」
「へえ」
本城さんが、さっそく台所へ入り、ダイニングテーブルの上の寿司桶を覗き込んだ。勝手に食べている。その彼にみーくんが、「ビール持ってきて」と声をかけた。
「河村は?」
「ああ、少し遅くなるかもって。ゆりちゃんの実家の用があるんだって」
「ふうん」
ツーポイントの眼鏡をかけている柏木さんのいくらか痩せた横顔に、みーくんは、若干の違和感がある。ずっとコンタクト派の彼が、眼鏡をかける姿など、長いつき合いでほとんど知らないからだ。珍しくて、訊けば「先月使い捨ての奴が、切れたから」という。
(聡らしくないな)
と、口にはしないが、みーくんは思った。先月切れたコンタクトを買いもせず、慣れない眼鏡で間に合わせるのは、自分などより身の回りに几帳面なところのある彼らしくないのだ。
しばらくして、近所の河村さんが、やって来た。ちなみにピンクのピンで前髪を全開にしていた亮くんの兄上である。奥さんのゆりさんが持たせたらしい手土産を持っている。
ビールを飲みながら、「早く彼女の件を聡に訊け」と言いたいのだろう、ときに粘っこい目でみーくんを見る本城さんを、みーくんは知らん振りで避けた。ものには、タイミングがある。
(もうちょっと待てよ)
というつもりで、隣りの本城さんをそっと小突いた。あれこれ人の恋愛事情を探る趣味が、みーくんにはない。
「女の子と行ったんだろ、今日のスキー。何それ、どんなつながり?」
河村さんの問いに、本城さんが答えた。「ちょっとどろどろ。実はジュニアといい感じの女友達を、みーくんが横恋慕して…」
勝手に話をドラマ仕立てにしている。みーくんは眠たげな目を瞬いただけで、それに応じなかった。事実とは違うが、そう間違ってもいないからだ。

河村さんはさすがに長いつき合いで、その説明の冗談交じりのややこしい部分をスルーして、改めてみーくんに訊く。
「亮の友達なの? じゃ、若いんだ。幾つ?」
「ん…、十九」
「え」
「マジで? それ行くの?」
みーくんはみんなの反応に、歯切れが悪くなる。こたつからジーンズの足を出し、ソックスを脱いだ。それから台所へ立ち、日本酒の瓶を提げてきた。そうやって、本城さんがあれこれ篤子ちゃんとの関係を話す間、やり過ごした。
「可愛い子だよ、いい子だし。友達の方も可愛い。菫ちゃんはちょっと雰囲気があれに似てる。あれ、ノートに人の名前書くと殺せる…、あのマンガの『L』に」
それはひどい。ただ黒目がちで、恥ずかしがり屋でうつむきやすいだけだ。
「みーくんが、篤子ちゃんを気に入ってるのは、わかる。可愛い子だしな。上手くいけばいいと、僕も思う。しんにゅうとして…経営パートナーとして」
ぷっと柏木さんが、本城さんの話にふき出したのは、親友を「しんにゅう」と言い間違えた件だ。
「みーくんが好きなら、いいだろ、別に。いい子だって、お前も言ったじゃないか」
寿司をつまみながら、河村さんがとりなした。それに、本城さんは、「お前は、既婚者だからそう言えるんだよ」と返した。
「例えば、篤子ちゃんと上手くいきました。つきあうことになりました。それで二年程度でけりがつけばいいよ、それならいい…」
人の恋愛沙汰を、「けり」などと、トラブルのように言う。そして、
「間違って、五〜六年も続いてみろよ。それで、そのときになって、篤子ちゃんが、「やっぱり別れましょう」なんて言い出したらどうする。こっちは三十六にもなってる。みーくんにとっちゃ、まったく悲劇、惨劇で、立ち直れないって、次に行けない」
だから、お勧めは決して出来ない、と彼は言うのだ。
本城さんの言葉は、みーくんだってよく納得がいく。言い難いことを敢えて口にしたのは、単に不釣合いな歳の差を面白がっているだけではないのにも、気づく。芯から自分を心配してくれているのだろう。
だから、腹も立たない。
河村さんはちょっと唸り、「本城にしては建設的な意見だよな」と口にしたが。やはり、「でも、みーくんが好きなら、それでいいんじゃないか」と自説を曲げない。
そこで、柏木さんが口を開いた。前向きな印象のある彼のことだから、みーくんは自然、河村さんに和するような肯定の言葉を彼がくれると思った。
けれども、彼は眼鏡の奥の目を指で掻きながら、「止めた方がいいと思う。本城の言う通りだよ。それに、年下の子に無理して合わせてやるなんて、みーくんらしくない」
と告げた。
「え」
その言葉こそ、柏木さんらしくないことに、みーくんは虚をつかれた。本城さんの読み通り、夏頃にいたはずの彼女とは、決着が着いてしまったのだろう。
(それで、わだかまってるのかな…)
本城さんは賛同を得て、得意そうだ。「何年後かに不法投棄されるくらいなら、何もリスクを負うことないよ。篤子ちゃんのことはちょっと、時間を置いて、な、そのうち自然に冷めていくのを待った方がいい」
『桃鉄』の貧乏神を真似て、篤子ちゃんのことは、ひとまず「ほいちょするのねん」とつぶやいた。それがおかしくてみんな笑った。
「お前な、不法投棄って何だよ…」
もっともな意見に、みーくんは返す言葉に力がこもらない。本城さんの言葉には一理も二理も、三理も、もっとある。そう思うから、何となく胸が寂しく痛みつつも、少し彼女のことは置いておいた方がいいのだろうと、気持ちがそちらへ傾いだ。
ちょっと頭を冷やすべきだと、みーくんも思う。
今なら、何とでもなりそうだった。
(多分…まだ…)
 
 
笙子の家を出てから、篤子ちゃんは胸がむかむかとするのを感じた。笙子のお願いで、クリスマスに彼女が彼氏に贈りたいというケーキを教え、出来上がったそのロールケーキを、大きいのを夕飯代わりに二人で一本食べてきたのだった。
(中のバタークリーム、おいしいけどちょっと濃厚だったかな…)
フルーツを刻んだものを混ぜ、食感を軽くするようにお勧めした方がいい、と思った。
(それとも、単にわたしたちの食べ過ぎ?)
篤子ちゃんは、どこかへろへろした足取りで、コンビニに入った。冷たい水でもお茶でも買おうと思ったのだ。習慣で、ペットボトルを手にした後で、マガジンラックへ足が向いた。目当てのファッション誌の最新号が出ているが、きっと鞠菜辺りが買っているだろうから、と借りることにして顔を上げた。
ふと、コンビニのロゴマークの入ったガラス窓に、そこにちょうど、見知った黒いコートのひょろりとのっぽな姿が通るのが映った。
(あ、先生)
今、仕事帰りなのだろうか。またしても起こった出会いのすごい偶然に、篤子ちゃんは嬉しくなった。先日のスキーのお礼も言わないといけない。
急いで会計を済ますと、バックにペットボトルを入れ、店を出た。
走って追いかけ、その黒いコートの背中をつかんだのと、彼が振り返るのが、ほとんど同時だった。
「先生」
「篤子ちゃん…」
いきなりの彼女の登場に、いつも眠たげな瞳をそれでもみーくんは見開いて見せた。
「そこのコンビニで見かけたから…」
後を追いかけてきたの、とつなぐ間に、本当に不意に、近くで女性の声がした。
「ねえ小早川さん、誰?」
顔を向けると、みーくんの隣りには背の高いすらりとした女性がいるのだ。丈の長いトレンチ風のコートに、すっきりとジーンズに包んだ脚がのぞく。ルーズにまとめ上げた髪も大人っぽくて、「あ」と篤子ちゃんはたじろいだ。
どうして気づかなかったのだろうか。みーくんの背中しか見えていなかった。

「ごめんなさい」
ぱっと彼女はコートを離した。美人の女性は歳も背もとても彼とは似合いの雰囲気であり、自分がとんだ間抜けなお邪魔虫に思えた。
(わたし、馬鹿みたい)
そのまま篤子ちゃんは、回れ右をして、駆け出した。「篤子ちゃん」とみーくんの呼び声がかかったが、止まらずに、振り返りもしなかった。
駆けて、自分の車を停めた公園の駐車場に着いた。笙子の家に行くときは、いつもここに車を停める。一番近くてただだからだ。置き去りの車が数台あるだけで、人気がない。
急に走ったので、気分が悪くなった。まだ未消化のロールケーキが胃の中で暴れ、食道へせり上がってくる感じがする。
(気持ちが悪い)
しばらく、車のそばでしゃがみ込んだままでいた。公園のトイレでいっそ吐こうとも思ったが、夜更けで怖くてそれに汚いし、すぐに止まった。このままちょっとじっとしていよう、と。買ったミネラルウォーターを一口飲んだとき、声がした。アスファルトを走る靴音も続いた。
「篤子ちゃん」
その声はみーくんのもので、自分を呼んでいる。追いかけてきてくれたのだ。
ほどなく彼は、車のそばでしゃがみ込む篤子ちゃんを見つけた。その様子が怪訝なのか、すぐそばに来ると、「大丈夫? 具合悪いの?」と真剣な声で訊いた。
気分は確かに悪い。けれど、それはロールケーキを欲張って夕食代わりに食べ過ぎたせいで、そして意外なみーくんの女性連れの姿を目撃したせいでもあった。
どちらも美的でないので、篤子ちゃんは黙ったままでいた。
立ち上がり、「大丈夫」と小声で返した。
「…送ってあげようか?」
「いい」
篤子ちゃんはすぐに首を振った。きっと、これからみーくんは、あのさっきの美人とご飯でも食べに行くのだろう。
これまで優しいお兄さんであった彼に、特別な彼女がいるのか、そうでないのかさえ、自分は知らない。
向けられる優しさと親切に、いつしかすっかり自惚れていたことを、篤子ちゃんは自覚した。好かれていると、思っていたのだ。
そんなことに、今頃恥ずかしさで頬が熱くなった。
(わたし、先生のことが、好きみたい)
頬を赤く染めながらも、篤子ちゃんはむっつりと黙ったままでいる。自分の勘違いも、それから思わせぶりな振る舞いを見せたみーくんの優しさにも。
それらの意味が今頃、あんな馬鹿みたいな出来事であっさり明らかになったことが、ちょっと惨めで、恥ずかしい。そして何のつもりか、こんなところまで追いかけて来る彼の方向違いの思いやりにも、篤子ちゃんは腹が立った。
「ごめん…」
みーくんはそう言った。
謝る必要などないと、彼女は思った。彼だってそれは思うのだろうが、もう一度繰り返すのだ。
「ごめん」
日本人にとっての「すみません」ように、「ごめん」という言葉も、言葉面の意味だけでなく、深く広がり、ときになかなか万能な働きを見せる。
彼にも、もう篤子ちゃんの心のうちを感じ取ったに違いない。だから、繰り返すのだ、「ごめん」と。

みーくんは黙って、心なしか自分を軽く咎める瞳を向ける篤子ちゃんの手を取って、握った。
それは二人にとって、初めての行為で(スキーのコーチを除外して)、彼女はどきりとすると共に、自分のこれまでの彼についての想像が正しかったことを知った。そもそも、元教え子の好意がにじむプレゼントには、言外のニュアンスを込めてやんわりと距離を置く人だった。
先生の優しさは、思わせぶりなんかじゃない、と。
一瞬、篤子ちゃんを嬉しさの涙と吐き気と、先ほどからの羞恥が混じりあって襲った。
表情を泣き出しそうに歪めた彼女に、みーくんの腕が伸びた。すっぽりと、けれどもどこかぎごちなく抱きしめられ、煙草の匂いのするシャツを頬に感じながら、篤子ちゃんは必死に堪えた。
涙はともかく、嘔吐だけは、奥歯をきつく噛んで耐えた。



          

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