ねえ、ひとりでも大丈夫よ。私は、大丈夫、
Impressions 6
 
 
 
みーくんが、篤子ちゃんの背に回った腕を緩め解いた。身をちょっと屈め、その顔をのぞき込んだ。
具合も、機嫌もどちらも悪そうな彼女が心配なのだ。「送ろうか?」とまた訊いた。
彼女は、両の指を頬に当て、恥ずかしそうに首を振る。大丈夫だと返した。吐き気も一時の波を越えたのか、おとなしくなったらしい。
「でも…、一人じゃ」
みーくんはこのまま別れてしまうのが、名残惜しいのだ。今夜、珍しいくらいのタイミングのよさで彼女と出会えた。そして、どっちとも取れるような、自分への曖昧な好意を見せていた彼女の気持ちが、気がつけば、自分のほんの心のそばにまで寄り添っていてくれた。
時間を置けば、今の奇跡のような出来事は、あっさり彼女の中で幻にでもなりそうで、このままにしたくなかった。
「車もあるし…」
「どこに? じゃあ、停めたところまで送るから」
みーくんの声に、篤子ちゃんは「え」と顔を上げた。「これ、わたしの」と、さっきまでその影にしゃがみ込んでいたグレーメタルのワゴンを指した。
「え」
どう見ても排気量の2000CC以上のありそうな車に、無意識に彼は車と、篤子ちゃんを見比べた。小さな彼女は、てっきりコンパクトカーに乗っているものだと思い込んでいたのだ。彼女の友人の菫ちゃんだって、そうだった。
失礼かもしれないが、運転できるのかとやや危ぶんでもいる。
「お父さんの」
篤子ちゃんはちょっと硬い声で言う。自分の車は整備に出しているのだという。バックからキーを出し、電子音を立てロックを解いた。どうしてだか、むっつりとしている。
すぐにでも車に乗り込んでしまいそうな彼女に、気が急いたためか、みーくんは、小さな咳の後で訊いた。せめて、次のつながりがほしい。
「後で、電話していい?」
ドアを開け、その内側に入り込んだ彼女は、ガラス窓越しにじろりと彼上目遣いで見た。
「先生、あの人は?」
「え」
彼女に問われ、ようやくみーくんは、先ほど一緒に歩いていた女性の存在を思い出した。女性は、友人の河村さんの奥さんのゆりさんで、彼女の友達数人とこれから食事に行くところだった。もちろんメンバーには本城さんもいれば、休暇中の眼鏡のドクター柏木さんもいる。
どことなく何となく沈んで見える柏木さんの気晴らしのために、誰かが言い出して設けたものだ。
ざっと簡単にそれらを端折って説明し、「亮の義姉さんになるんだよ、ゆりちゃんは」と付け加えた。
「ふうん」
ちなみにゆりちゃんには、篤子ちゃんを追う際に、先に予約の店に行ってもらっている。せいぜいにまにまとした笑顔を返されたのが、何とも照れ臭いが、後でからかわれるのはこの際、どうでもいい。
「だから、何でもないんだ」
みーくんは、ここでちょっと胸の何かを振り絞るようにつぶやいた。
「篤子ちゃんのことが、忘れられない」
知っているだろうに、篤子ちゃんは彼の告白に「あ」だか「わ」だか口にし、指を唇の前に広げて見せた。その仕草は、一番最初、新幹線で彼が隣りの彼女にビールを差し出したときと同じようで、みーくんはちょっとおかしかった。そして、自分がそんなことを覚えていることも。
(縁があったんだろうな)
普段「縁」など意識しない彼も、度重なって再会し、そしてこんなにも目の前の彼女の反応に意識を傾けている。どうであって、ほのかに意識せずにはいられない。
友人らに散々「止めておけ」と忠告され、一時は翻意もした。けれども、彼女の姿を見たら、どうしても手放せないような気がして、放って置けないのだ。
「…うん」
肯定のような、同調のような。
短い返事の後に、篤子ちゃんは、瞳をくりんとすくい上げるようにし、
「浮気しない? 先生。大人っぽくて、きれいな人に…」
その問いに、みーくんは頬が緩んだ。「しない」と答え、「大事にする、篤子ちゃんを」とつないだ。
はにかんでいるのに、ちょっと逡巡するような仕草も見せ、篤子ちゃんは、こくりと頷いてくれた。
のちほど電話する約束をして、どこか危なっかしく蛇行する彼女の車がカーブに消えるまで、みーくんはぼんやりと立ちつくしていた。
嬉しかった。
彼は篤子ちゃんに思いが届いたことを、多分人生の中で一番嬉しかったことのように感じた。例えば、大学に受かったときなどよりも、院を出て、予備校を始める資金を母親から上手く調達できたときなどよりも。
(読めなかったからかな)
とみーくんは思う。
これまでの経験もそれによる予断も、楽観も、十二歳年下の篤子ちゃんの前では無意味で、見通しが立たなかった。だからその不安から気持ちが、無難へぶれかけたのだ。
不安や、あきらめが多かった分、反動に喜びがやたらと大きいのだ。
(よかった…)
しみじみ、まるで幸せのゴールのように、今の彼はのんきに思うけれども、これはまだまだほんの序章に過ぎない。
始まったばかり。
 
 
その年のクリスマスイブは、水曜日だった。クリスマスは木曜日になる。
その前の祝日に、篤子ちゃんは、つき合い出してまだ日の浅い彼からクリスマスプレゼントを贈ってもらった。
「何でもほしい物言って。遠慮しなくていいから」
みーくんはそう言ってくれたくせに、彼女がいざ、人気のゲーム機がほしいと告げると、一瞬固まり、ちょっと困ったように笑った。
別種の物をねだられると考えていたようだ。
「…ほら、指輪とか、ネックレスとかは?」
来年は二十歳を迎えると、既に父からは品のいいパールのネックレスとピアスをクリスマスにと、早々プレゼントしてもらっていたし、篤子ちゃんは指輪もネックレスもそんなに興味がない。
ピアスは開けたが、お気に入りを幾つも持っている。敢えて特別そそられないのに、彼からのプレゼントにほしいとは思わなかったのだ。
けれどもみーくんの様子に、値が張り過ぎたのかと考え直し、
「じゃあ、ハムスターは?」
とちょっと申し訳なさそうに訊き返した。「先生の名前をつける」という。
「そんな、来年死んじゃうかもしれない生き物は止めよう」と彼は苦笑し、ほしいのなら、とすんなり折れてくれ、初め彼女が口にした念願の白いゲーム機を、ソフトと一緒に買ってくれた。
その後で、ちょっとドライブして、ご飯を食べて、送ってもらって別れた。それが初めてのデートになった。
年の差があり、篤子ちゃん自身わずかに怖じけたけれど、思ったほど緊張もしないし、彼は優しい。一緒にいて、気持ちがいい。
にわかできた篤子ちゃんの彼の存在に、フリーの友人は、おめでとうと口にしつつも、「大丈夫? すごい年上だけど…」などとちょっぴり不安がるのだ。
みーくんも感じたものだが、偶然の出会いの重なり過ぎる彼に、彼女も「縁」を感じていた。その色合いはちょっと異なるが、いい意味のあるものだと捉えている。
歩くとき、のっぽで少し眠たげな瞳の彼を、隣りで篤子ちゃんはいつも見上げて見ている。何か喋るときも、気を引くときも、何の意味もないときも。
すると、彼は彼女へ首を傾げるようにしてくれるのだ。またはすんなりとした背をやや曲げ、見下ろすのではなく、彼女に合わせてくれる。
それに気づいたとき、篤子ちゃんは嬉しく、そして何とはなしに、気持ちの深い部分で、感じていた。
(この人で、間違いないんじゃないかな)
言ってあげればみーくんは、その思いにひどく感激しただろう。彼女のほしがるゲームのソフトを何枚もプレゼントしたに違いない。
けれども、それを彼女は口にしなかった。恥ずかしいのと、まだ早いと思うのと、特別なときに言う方が何だか有り難味が出るような気がして、胸にしまっておいた。


翌日のイブは、みーくんは仕事だったけれど、その終わった頃に待ち合わせた。
(大したことは何にもできないけれど)
と、せめてクリスマスのケーキくらい手作りしたものを食べてもらいたかった。以前友人の笙子と試作したロールケーキを、今度はフルーツをクリームに混ぜて作ってみた。白の生地に苺の赤とブルーベリーの青味が映えて、ぐんとクリスマスっぽくなる。
ちょこっと味見したけれど、我ながらよく出来たと自信があった。
その日、篤子ちゃんは初めて彼の部屋に入った。ファミリー向けの分譲マンションは、すっきりとした家具がそろう。家の持ち物だというそこに、彼は一人で住んでいた。
「先生、前に結婚していたの?」

半分真面目に訊いてみた。年齢的に、そんな過去があってもおかしくはない人なのだ。自分のようなずっと年下を彼女に選ぶ訳も、「その過去ゆえでは?」などと、二時間サスペンスドラマ風に勘繰ってもみた。「あやしい」と。
そんな疑問が出るような雰囲気ではあった。ガラストップの洒落たダイニングテーブルであるとか、壁の家具も誂えたようにぴったりときている。興味で見せてもらったほかの部屋も、ちゃんとそれらしい家具が備わっている。
「まさか、違うよ」
みーくんはテーブルの灰皿やら本やら新聞やらを、隅にどかしながら笑う。男性の一人暮らしらしく、あちこち散かり、やはり雑然としている。リビングのソファなどは脱いだ衣服置き場になっているようだ。
脱いだコートもスーツの上着も、やっぱりそこへ放っている。
「ごめん、これでも朝、片づけたんだけど」
「ううん」
元はこの部屋が、マンションを分譲する際のモデルルームになっており、だから家具付きで、その上展示した分価格も安価だったという。薦める知人があって、彼の家がそれを購入した。
二年前ほどまで人に貸していたけれど、その人も引越し、空いた部屋に自分が住むことになったのだと、彼は言った。
「冬は特に、通勤に楽だし」

「そう。ふうん…」
スペースのできたテーブルに向かい合って座る。
二人の真ん中のケーキに、篤子ちゃんは別に持ってきた蝋燭を立てた。
「あ、どうしよう。三十一本も蝋燭がない…」
彼の部屋での、初めての二人きりのこんな時間に、やはり緊張しているのか、篤子ちゃんが誕生日でもないのというのに、妙な不満を出した。
「そんなに要らないよ」
五本のカラフルな蝋燭に、火が灯った。可愛いケーキの上で可憐な揺れる炎に、照明がまぶしく邪魔をする。
不意にみーくんが、明かりを落とした。テーブルの小さなクリスマスが、蝋燭の明かりにふんわり闇に浮かんだ。すぐに崩してしまうのが惜しいその光景に、ちょっと魅入って、瞳が合って、微笑み合う。
「ありがとう」
冷えたガラスの上で、指が触れた。それがすぐに重なって絡んだ。新聞、雑誌、一杯の灰皿。そんなテーブルの雑多なもの越しに、彼が篤子ちゃんへ身を乗り出して華奢な顎にほんの軽く長い指が置かれる。
不意の口づけに、篤子ちゃんはきゅんとときめいて驚いて、そしてはにかんだ。
結局瞳を閉じ、そのままでいた。



          

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