瞳を閉じて、心を殺す
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頬を切るかのような痛い風が、辺りに吹きつける。闇を煌々とライトが照らし、降り積もり滑らかな雪の白に反射して、スキー場は昼とは違った別の明るさがゲレンデに満ちていた。
ゴンドラを降りた先のなだらかな箇所で、一人が座り込んだ。ブーツの具合を見るようで、ちょっと疲れたようでもある。腕を後ろ手にし、ボードに留めたままの足を、投げ出している。亮くんだ。
「疲れたのか?」
その彼に、ゴーグルをずらしてみーくんが尋ねた。それが潮か、河村さんも、どかりとそばに座り込んだ。ほっそりとした亮くんに比べ、空手の有段者でもある河村さんは、ごつい印象だ。ちょっと見、兄弟には見えない。
「みーくんも兄貴も、タフ過ぎるんだよ。僕は世界標準」
「お前は口ばっかだな」
もう一人、美馬くんは腰を反らすように伸びをし、みーくんの隣りに立った。
正月の二日、ナイタースキーも、午前三時を過ぎれば、人気も少なくなる。客を上へ運ぶゴンドラも、空が多い。
もう二度ほど往復して、帰ることを決めた。その短い休憩、ロッジ前の灰皿に煙草の灰を落としているみーくんに、河村さんが訊いた。亮くんはみーくんに熱い缶のココアをねだり、それを飲んでいる。
「なあ、篤子ちゃんに、クリスマスプレゼント、何あげた? あげたんだろ?」
みーくんは彼女に贈った、人気ゲーム機の名を言った。
「はあ? 初回で?」
その反応に、みーくんは煙草の灰が風向きで目に入ったのと合わせ、ちょっと渋い顔をした。「ほしいって言うから、しょうがないだろ」と返す。
河村さんは、自分は奥さんに、あるブランドのネックレスをねだられて買ってあげたと言う。
「十万もした」
「ふうん」
篤子ちゃんにゲーム機を贈ると、彼女は急にその週末会う約束をキャンセルしてきた。「生理痛がひどいの」と神妙な声で言われれば、もう何も言えない。その後は、数日後にもう年越しで、元旦に彼女と初詣に出かけた。
「ハムスターよりましだろ」
「他の候補はハムスターかよ」
河村さんは、初詣帰りに篤子ちゃんと顔を合わせている。恋の噂好きの奥さんからも、彼女のことをしっかり聞き入れているようだ。
「ハムスターなんかあげてたら、あの子、それに『みーくん』って名づけそうだな。「先生、どうしよう。『みーくん』が死んじゃった」とか。どうする? みーくん」
勝手なことを言い、笑っている。
(言ってろ)
みーくんは短くなった煙草を灰皿に捨て、亮くんが持て余し始めた甘ったるいココアを飲んでやった。さすがに甘過ぎて、美馬くんに譲った。
美馬くんは、空になったココアの缶をくず入れに放り、
「篤子ちゃん、先生に遠慮してるんじゃないですか?」
気を使って、高価な物をねだれなかったのじゃないか、と美馬くんは言う。
「それ。ほら、美馬くんはよく見てる」
元教え子の彼に上手いフォローをされ、みーくんは気を取り直した。河村さんに「篤子ちゃんは、そういう気を使うタイプ」と返す。
「まあ、ちょっと天然っぽい子だよな」
ぽつりと亮くんが、
「うん、それに馬鹿っぽい」
「亮」
みーくんの叱り声と、河村さんのげんこつががつんと亮くんのニット帽の頭を叩くのが、同時だった。
 
 
結局スキー場を後にしたのは朝方だった。
昼過ぎまで実家で寝て、起きたとき、寝覚めにざらっとした嫌な感覚があった。悪寒がするような気もする。
どうも風邪の引き初めっぽい。熱もあるようだ。
(ナイター、やり過ぎたな)
明日から仕事で、予備校では大事な時期の受験生を預かっている。講師の自分が風邪を引いている場合じゃない。
近所の内科医院に出かけ、そこで休診日だが、頼んで注射を打ってもらって来た。懇意で、そんな無理は効く。みーくんはインフルエンザの予防接種も、毎年ここで打ってもらっている。
その後で、マンションへ帰ってきた。注射の効き目か、睡眠不足もたたって、眠気がさす。ヒーターばかりを強め、そのままソファーで着替えもせずに横になった。
ほんの少しのつもりが、随分熟睡していたらしく、カーテンからの光が乏しくなっている。目が覚めたのは、テーブルに放った携帯が鳴ったせいだ。
それは篤子ちゃんからで、彼はすぐに通話ボタンを押した。
話しながら、喉がちくちくと痛い。
『先生、声が変…』
敏感に気づく彼女に、「ちょっと風邪引いたみたい」と言う。
『大丈夫?』
「うん、注射も打ってきたし、寝てれば治るよ」
『ふうん…』
しばしの沈黙の後で、篤子ちゃんは『行ったら、邪魔?』と訊いた。
軽く咳き込んで、みーくんは、
「篤子ちゃんに、感染すかもしれないし…」
『ちょっとだけ、駄目? …心配だから』
そんな風に言われたら、まず断れない。会いたいのは事実で、言葉の嬉しさに、返事の前に笑みがもれた。
「じゃあ、いいよ」と応じると、彼女は少ししたら家を出るから、と電話が切れた。
篤子ちゃんが部屋に来たのは、それから四十分ほどたってからだった。ハイウエストのすとんとした膝上のワンピースを着ている。手に紙袋を提げていて、
「食べてないでしょう? ご飯、作って持ってきたの」
「ありがとう」
何もないキッチンを考慮して、彼女は小さな小鍋に料理を用意してきたようだった。それを直に、コンロにかけた。他、何か詰まったホウロウのタッパーがあった。
「電子レンジもない」と、篤子ちゃんはおかしがるが、以前電子レンジくらいはあった。前の彼女が爆発させて壊してしまって以来、特に必要もないので買っていない。
食欲もないが、「食べて」とテーブルに並ぶと、箸が動く。風邪の体調を考えて軽い物を作ってくれている。中華粥に、野菜の煮浸し。
やっぱりおいしいあっさりとしたそれらを食べながら、みーくんは彼女の存在と自分にくれる優しさに、しみじみと嬉しくなる。
食事の後で、篤子ちゃんがぺたりと向かいのみーくんの額に手を置いた。
「熱がある。先生、寝なくちゃ」
熱があることは、既に電話で告げていた。なのに、にわかに篤子ちゃんは慌てる。聞き損ねていたのか。
少々頭がぼんやりとするが、彼女がいるのにくーくー寝ているのも、何だかな、とみーくんは思う。
強く乞われ、みーくんはソファに置きざりしたスウェットに着替えるのに、ジーンズのベルトに手を掛けた。外すバックルの音がして、
「あ」
と篤子ちゃんの小さな声がした。顔を彼から背けている。
(こんなこと、恥ずかしいのかな)
と、みーくんは頬が緩むくらいに可愛く思った。彼の妹などは、平気で用があれば風呂場でも、入り込んできたものだ。「お兄さん、わたしの脱色クリームなかった?」とか言いながら。
唯一の男のみーくんが下着だけでうろうろするなど当たり前で、小早川の家の者は誰もそれに頓着しなかった。
着替え終え、
「篤子ちゃん、僕が寝たら、暇じゃない? 帰る?」
「…うん、洗い物してから、ねえ、先生、少しこの辺り片づけてもいい?」
それが済めば、帰る、と彼女はいう。
自分が寝てしまっている間に、部屋から彼女の姿が消えるだろうことに、みーくんはちょっと寂しく思った。
そんな色が顔に出たのか、篤子ちゃんは敏くにこりと笑って、
「先生の様子を見てから帰るから」
と言ってくれた。
 
ベッドに入ると、みーくんは疲れもあって、思いの他早く眠ってしまった。
まぶたを閉じ、弛緩した耳に、入る小さな物音。寝室のドアの向こうに、微かに篤子ちゃんの気配を感じることに、気持ちがひどく落ち着くのだ。
何か、彼女にしてあげたいと思った。忙しい身で、あまり時間の融通は利かないが、受験シーズンがひと段落すれば、暇もできる。
好きなところに、どこでも連れて行ってあげたいと思った……。以前、今度どこか行きたいところはないかと、訊いたことがあった。それに彼女は、ちょっと考え、やはり少しおかしなことを返してきたのを思い出す。
『熊牧場に行きたい』
(そこでもいいよ)
 
うとうと夢が切れては現れ、また消えた。
不意に腕に触れる何かで目が覚めた。
(え)
自分の右腕に、確かに触れる何かがある。正確にいうと、腕を柔らかく抱きしめられている。
寝覚めにぎょっとして、みーくんは右へ首を向けた。暗がりに、自分の肩の向こう、布団から黒い髪がのぞいていた。
そこでしゃっきり目が覚めた。「…篤子ちゃん?」と、声をかけると、彼女が抱く自分の右腕に、ぎゅっと力が入る。
(いつ入り込んだんだろう)
みーくんは、ちょっとどきどきしながら、それでも紳士に振舞った。
「風邪、感染るよ…」
「…わたし、風邪引かないの」
布団の中からする彼女の声は、恥ずかしげにそしてくぐもって聞こえる。「風邪なんか、もう十年ほども引いていない」という。
みーくんは首をよじり、ベッドヘッドの目覚まし時計を見た。午後七時を過ぎている。気づけば、身体も少し楽になったようだ。
「送ろうか?」
「…ううん、自分で帰れるから」
まるで「帰りたくない」と告げるかのように、再びぎゅっと腕が彼女の胸に押し当てられた。
華奢な身体つきのそこだけふんわりと柔らかな二つの感触が、ちょうどみーくんの肘に当るのだ。
「先生」
気紛れな甘えなのか、訴えたいものがあるのか。
これまでにない、彼女の積極的で女らしく可愛い仕草に、みーくんは熱気もあり、ちょっと有頂天になるのだ。
抱かれていた腕を解くと、その腕を彼女の首に回し抱き寄せた。篤子ちゃんは、抗わない。ぴたりと寄り添った彼女の身体を、やや離し、自分が上になり肘をつきそして唇を重ねた。
抵抗のない彼女の優しい身体に、キスのまま彼は少し触れた。髪をなぜ、頬をなぞり、肩に触れ、腕を通る。
自然、舌が篤子ちゃんの唇を割った。
愛撫の始まりで、ほどなく彼の指が胸をなぞると、ちょっとだけ、けれどはっきりと彼女は身を硬くした。びくっと腰を引くように、きゅっと身体がほのかに萎縮した。
感じて、みーくんはそれ以上を止めた。
抱きしめるように戻り、「ごめん」とささやいた。それに、彼女は恥ずかしそうに彼の胸に顔を押し当てた。
「ううん…」
早晩、身体へ進むだろう関係だけれども、まだ早い。
みーくんはもう一度「ごめんね」とささやいた。
(どうかしていた)
もっと時間をかけてあげたかった。できる限り、彼女の望むような風にしてあげたい。
それは、自分の当たり前の優しさで、義務であると彼は思う。
とにかく、こんな風に彼女が自ら寄り添っていてくれることが、彼にはほのぼのとそれだけで嬉しい。
(ちょっとこの先、長くなるかもしれないけれど…)
それでも、篤子ちゃんのためなら、構わないと思うのだ。
 
「先生が、好き」
 
篤子ちゃんのはにかんだ甘い声に、みーくんは、下がりつつあった熱がぐんとぶり返すのを感じた。



          

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