玩具箱のような楽しい日々と、この夢がどうか終わりませんように、
Impressions 8
 
 
 
彼と別れて、篤子ちゃんは一人で車を走らせている。
まだ整備に出した自分の車は帰ってこず、今度はディーラー手配の代車に乗っているのだ。やはり
2000CCクラスの彼女には大きな車だ。
信号が赤から青に変わり、彼女はゆっくりとブレーキから足を離した。
交差点をごくスローに横切っていく。燃費をよくするエコドライブを心がけているのではなく、彼女の発進の癖だった。それで、ときに苛立った後続車に、クラクションを鳴らされることもある。
音楽を聴きたいと思いついたが、借り物の車にはCD機能がなく、ラジオのみ。気が乗らず、結局あきらめた。
少し気持ちがどきどきと、高揚している。
ちょっと前まで、みーくんに抱きしめられていたことが、自然思い出され、知らず頬が熱くなるのだ。
(キスされちゃった)
自分から、風邪引きの彼が休むベッドにもぐり込んでいったくせに、特に篤子ちゃんは、彼に恋人らしいスキンシップを求めた訳ではない。
何となく、何となく、優しい彼に甘えたくなったのだ。
それは、お気に入りのぬいぐるみを引き寄せるのに似ているだろうし、大好きなペットに触れるような気持ちにも近いのかもしれない。
だから、彼が思いがけず強い力で彼女を抱きすくめたとき、ひどく驚いた。
(あ、先生…)
愕然とした。
勝手なもので、自分の彼氏となったみーくんのことを、彼女はどこかまるで聖人君子のように捉えている。
普段着のように
Yシャツが似合うのっぽの彼は、自分よりはるかに大人で、ものを知っている。こちらに焦れないし、落ち着いた声で話してくれる。
そして、元旦には彼女の父に、つきあっていることを挨拶もしてくれた。
おそらく、理不尽に何かを強要したり、彼女を自分勝手に従わせたりすることはない、と思う。そういう、いい意味で根っからの『正しい人』であると、篤子ちゃんは思っている。
なので、その彼が、自分を求めてきたことに、うろたえたのだ。もちろん、不快などではなかったし、強い力で包まれる感覚は、ぼうっと彼女の頭の芯を甘くときめかせた。
(先生も、こんなことするんだ)
と、おかしなことを納得していただけだ。
通りを抜けて、住宅街に入った。街灯に照らされた見慣れた家並みが目に入り、篤子ちゃんは、出掛ける際についでに用意した、冷凍庫のアイスクリームの出来を考えた。生クリームに卵と砂糖とジャムなどを加えたお手製で、もう固まっているだろうと思った。
お風呂上りに食べようと思う。
(お父さんも、食べるかな…)
 
父は今日の昼食時に、まったく不意に再婚話を持ち出した。その照れた様子に、自分はどんな表情を見せただろう。
驚いて、目を瞬いた。それから、お正月らしくおせち風にお重に詰めた食卓の、だし蜜で巻いた卵焼きを食べた。おいしく出来たはずだったのに、まるで味がしなかった。
それでも、自分は嫌な顔は決して見せなかったと思う。
(びっくりしただけ…)
当たり前な疑問を発し、どんな人であるとか幾つなのか、何の仕事をしている人なのか、それらに安心するべき答えが返って来、彼女はこくこくと何度も頷いた。
ごく自然に、篤子ちゃんは、長く独身生活を貫いてきた父に、今後そう遠くない未来迎える老後、寄り添ってくれるパートナーがあることを、素敵なことだと考える。
そんな人が現われたことも、父がそんな気持ちになったことも、娘として嬉しいことだと思った。
幼い頃亡くした母の思い出は、儚く淡い。それに、父親の相応しい人との再婚に無駄な反発を覚えるほど、自分は子供でもないと思うのだ。
ただ、どうして今なのだろうか、と思う。母親の存在は、彼女がもっともっと子供の頃や、または思春期にこそ必要だったであろうに。
その時期を既に過ぎ、自然、彼女は、父は再婚など考えてもいないのだろう、と思い込んでしまっていた。
(それほど、いい人なのかな)
近いうち、彼女に紹介するというその女性を、篤子ちゃんは嫌悪感もなく、漠然と受け入れている。また、そうしなくてはいけないとも思う。
ただ、驚いたのだ。
驚き過ぎて、意外過ぎて、困ってしまうくらい心中慌てていた。
(だからだろうか…)
自分に優しい、『聖人君子』のみーくんに甘えたくなったのだ。
あのスキーのコーチをしてくれた時のように、自分だけを見て「大丈夫、僕がいる」、「見ていてあげる、どこにも行かない」……、そんな風に、彼女のまるごとを受け止めてほしかったのだろうか。
 
 
一月中頃、篤子ちゃんは選択した授業分、テストをたくさん抱えた。
試験にテキストを持ち込めるもの、持ち込み不可のもの、そして試験自体をレポート提出や課題に代えるものもある。
たとえば必修の英語などは課題提出で、数枚の英語で書かれた何かの論文を訳し、要約し、数問の問いに答えて提出することになっていた。
他のテスト準備もあり、篤子ちゃんは、担当の先生が時間をくれ、早くに出されていたその課題の存在を、すっかりうっかり失念していた。
課題提出は、二日後だ。
慌てて友達に探りを入れると、「採点厳しいらしいよ。人のを写してばれたら、単位落しちゃうんだって」など恐ろしいことを言う。
(どうしよう)
済ませたらしい菫や友人に借りるのは、簡単だ。けれども、丸写しがばれたら、自分だけでなく友達にも迷惑がかかる。
後二日で出来るかな、とびっしり並んだ紙面の英文を眺め、気持ちが重くなるのだ。彼女の英語成績はそれほどひどくないけれど、決して得意でもない。
(徹夜かな…)
そんなとき、天啓のようにナイスな思いつきが浮かんだ。愛するみーくんにお願いすればいいことに。
ウイークデイで、会う予定ではなかったけれど、善は急げ。彼女は学校からメールを送った。
『先生に会いたい』
どれほどか後に、甘い承諾の返信が届き、するすると今夜会う約束を取り付けた。
父には「試験勉強の準備で遅くなる」と電話しておく。嘘をついてはいない。一旦帰り、手抜かりなく、松花堂弁当風に仕立てた夕飯を用意してきた。
みーくんらの予備校は、授業自体は九時頃には終わる。それから残務があれば残るし、なければ切り上げて帰る。篤子ちゃんは九時ちょっと前に、予備校にやって来た。
職員室の、ノートパソコンの上に書類や彼女には見るのも目が痛い数学のテキストが、乱雑に詰まれたみーくんのデスクの椅子に掛けて待った。長椅子は、空きの本城さんがくーくー眠っていたからだ。
亮くんが、酔拳の真似だと、ちょっかいをかけてくるのを避けながら待った。
「わ、篤子ちゃん、いつ来たの?」
亮くんの酔拳に起こされ、本城さんは目をぱちぱちして彼女の存在に驚いている。篤子ちゃんは、大柄な彼の姿に、友人の菫が「熊みたいで、ちょっと可愛い」とコメントしていたことを思い出した。確かに、そんな雰囲気がある。

ほどなく、みーくんが戻ってきた。
仕事を終えた彼に、「お弁当作ってきたの」と告げると、嬉しそうに笑った。予備校を後にして、みーくんのマンションに向かう。
「今日、会えると思わなかった」
そんなことをほんのり照れながら口にする彼の横顔に、篤子ちゃんはにこにこと笑みを送る。
額にかかる前髪の具合や、シフトレバーをチェンジするときの慣れた手首の仕草。駐車スペースに停めるときは、軽く腕を篤子ちゃんの側のヘッドレストに当て、背後を見る様子。それらは、彼女にちょっとまぶしく映り、彼のそばにあることが嬉しいのだ。
やはり物が乱雑に積まれたダイニングテーブルに、お弁当箱を広げると、みーくんはやや眠そうな目を見開いた。
照り焼きハンバーグや白和え、きんぴらに、だし巻き卵、具のちょんと飛び出したおにぎりが幾つか。
「篤子ちゃんって、すごいな…」
感心しきりに、みーくんは嬉しそうに「旨い」と言いながら箸を進める。それを眺めているだけで、篤子ちゃんは楽しい。ほろりと彼は自分の妹が、料理をするのを見たことがないと口にした。
「あ、カップ麺くらいは、あるかな」
「ふうん」
「篤子ちゃんと、結婚できたらいいな」
不意に出てきた『結婚』の言葉に、彼女は内心でびくりとする。軽い告白は、押し付けるものがなく、篤子ちゃんは笑みでそれを受け止めた。
彼女が反応したのは、彼の『結婚』ではなく、にわかにわいて出た父の『結婚』話を思い出してのことだ。
食事の後で、彼女はそろそろと本題を持ち出した。みーくんは、ダイニングの椅子に片膝を立てておいしそうに煙草を吸っている。
寛いでいた彼が、彼女の出した数枚の課題用紙を目にするや、はっきりと眉をしかめた。
篤子ちゃんは、その表情に、呆気にとられてしまう。自分にそんな硬い顔を見せる『先生』を、彼女は知らない。
空いた指でテーブルの課題用紙をとんとんと叩き、彼は「よくないよ」と言った。声はいつものように、落ち着いて優しい。
「教えてほしいなら、いくらでも協力する。でも、これじゃあ、…僕に丸投げじゃないか。駄目だよ、試験にならない」
少しも手をつけていない、とみーくんは苦言を言う。そんな彼に呆然としながら、その口調に、
(やっぱり、『先生』なんだ)
と今頃そんなことを感じている。
「自分でやらなきゃ、勉強の意味がないよ。教えてあげるから、ほら、今から始めよう」
そう言い、彼は篤子ちゃんの声も待たずに課題用紙を引き寄せた。ざっと目を通しているのだろう。
「それで、今日、僕に会いたかったんだ…」
軽い咳払いの後で、みーくんはぽろりと、まるでひとり言のようにつぶやいた。
その声に、意外であった課題を出してからの彼の表情や言葉が合わさり、篤子ちゃんは言いようなく、腹立ちを覚えた。
彼の言い分は、誰が聞いても正しいと捉えるだろう。彼女だって、正論だと思う。いつもそんな風に生徒に接しているのだろうと、想像もつく。
けれども、その隙のない容赦ない正論を、自分にそのまま当てはめてしまう彼が、嫌だった。
(でも、ちょっとくらい、特別にしてくれてもいいじゃない)
思わず手が伸び、みーくんの指の課題用紙を抜き取った。「もういい」と応え、その用紙をバックにしまった。お弁当箱を入れた紙袋も一緒に手にすると、立ち上がった。
これ以上彼と一緒にいたら、ふくれ上がったぶくぶくとした怒りで、泣き出してしまいそうだった。もう、涙が目の端ににじんでいる。
すたすたとリビングを抜け、廊下へ出るドアノブに手を掛けた。その篤子ちゃんの手を、背後から後を追ったみーくんがつかんだ。
「怒ったの? ねえ、篤子ちゃん」
応えなかった。応えられなかった。
涙がにじんであふれ、ぽろぽろと頬に伝った。
いつだって、自分に絶対優しいと思っていた彼の冷たくも取れる態度に、悲しくもなった。ほのかに、拒絶されたかのような、嫌な後味が尾を引くのだ。
勝手な理屈だと、頭のどこかで思う。
(わたしのこと、好きなら、ちょっと贔屓してくれたって、いいじゃない)
しゅんと鼻をすすると、彼女の涙の気配に慌てたのか、彼は「ごめん」と言った。泣きながらドアノブを捻り、開けようとする彼女の身体を封じるように、彼は後ろから抱きしめた。
「ごめん」
きついことを言った、と謝った。「ごめん、怒ってる? ねえ、篤子ちゃん? ねえ」
宥めるように問う彼の声に、彼女はしくしくと涙で応えた。気の毒にみーくんは、彼女の涙にすっかり慌てうろたえてしまう。ただ、怒らせたまま彼女を帰したくないのだろう。
「先生、ひどい」
ひどいのは彼女の方だろうが、それに彼は「ごめんね、僕がいけなかった」と応じる。
「ちょっとくらい、先生の特別にしてほしかったのに…」と、涙声でなじられると、もういけない。胸に抱いた彼女の可愛らしさが、じわじわとわき上がってきたのか、みーくんはあっさり翻意し、
「ね、僕が解いてあげる。ね、それでいい? それで、許してくれる?」
それでも篤子ちゃんは返事をしなかった。涙でぬれた顔をハンカチで拭おうと、バックを探るのだ。そのハンカチを挟んだ手を、彼が捕らえた。
彼女の手を彼の大きな手はハンカチごと握り、彼女を振り向かせた。その自分の指で彼女の頬の涙を拭ってあげる。
「ごめん、泣かせてごめん。ねえ、僕のこと、嫌いになった?」
優しい仕草と、みーくんの困惑し切った声が問えば、篤子ちゃんの苛立ちも和んでしまう。元々、怒りを長く胸に留めて置けない性質だ。
(もういいかな…)
篤子ちゃんは渋々とした様子で顔を上げ、涙の残るぬれた瞳でくりんと彼を見上げた。
「もう、意地悪しないでね」
 
 
昼休み、簡単な食事の後、予備校の職員室で、みーくんは数枚の英語課題に取り組んでいた。言わずもがな、篤子ちゃんのためである。
不得意ではない。学生時代は論文もよく読んだ。けれども英語から離れた頭には、驚くほど語彙が抜けているものだ。
「みーくん、何してんの?」
ふとかかった本城さんの声に、みーくんは傍らの電子辞書をかざし、「辞書、借りてる」と応じた。
ひょいっと肩越しに手元をのぞき込む。そこに英文の羅列を見つけ、不審なのか、「何? それ」と問う。みーくんは数学担当だ。
みーくんは返事すら億劫になる。
答えは、応接セットの方で出前のうどんを食べる同僚が代わってくれた。「可愛い篤子ちゃんの試験課題」
からかうような声に、みーくんは、ため息が出る。
「ええ?」
大仰に驚いてみせる英語講師の本城さんに、いっそ丸投げしてやろうかとも、思いつく。彼にはこの程度の英文は造作ないだろう。夕食を奢ると言えば、確実に乗ってくれる。
そう口に出そうとしたところで、ぽんと本城さんがみーくんの肩を叩いた。叩きながら笑い、
「おいおい、秀才も形無しだな。女の子の代わりに試験課題解いてやるなんて。世が世なら、切腹もんだ」
どんな時代だ。
本城さんのせりふに、みーくんは丸投げ案を飲み込んだ。やれない訳じゃない。
「まあ、篤子ちゃんに頼まれれば、断れないだろ、みーくんは。即OKに、僕は千円」

「あ、僕も」
「即OK? それは、教育者の端くれとして、恥ずかしいだろう。ははは、見つかったら厚生労働省に摘発される、公衆わいせつ罪で」
摘発はされない。公衆わいせつ罪も該当しない。
同僚らのにまにましたからかいを背に、みーくんは新しい煙草をくわえ火を点けた。
「黙れ」
腕の時計で時間を確認し、もう三十分で、片づけようと、意識を英文に傾けた。



          

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