命がけなんて、そんなに簡単に云って良い言葉じゃあないのだよ
祈るひと(10

 

 

 

それは、父母と連れ立って、これから銀座へ昼食に向かうところだった。

父の好む洋食を食べるのが、なぜだかわたしのスペイン風邪からの快気祝いとなったのだ。

風邪を引いて以来、街中へ出て行くのはこれが初めてのこと。

春めいた頃間というのに、着物の肩には薄桃色の毛糸の柔らかなショールが掛けられている。

ほんの少しの肌寒さがいけないと、家内の誰もが言い言いし、わたし自身も絹物のみでは心細く感じていた。せめての洒落っ気に、ショールの留めには手のひらほどの大きなこれも共編みのリボンが飾られている。

土間へ降りようと、揃えられた履物に足袋の足を差し入れたとき、不意に暖簾をくぐって現れた者があった。

それは、菜っ葉服様を着た年配の男だった。ごま塩頭に載った帽子を取り、手で揉みながら店内をきょろきょろしている。

一見にして、我が成田屋へのお客ではなさそうだった。出入りのご用聞きの衆であれば、裏口へ回るはず。

新入りで、勝手がわからないのだろうか。その割に男は、ちょっと堂々といった風に店の真ん中に立っている。

わたしは足を止め、思わず後ろに立つ母へ振り返った。母も男に気づき、小首を傾げている。

そこへ、父が遅れて奥内からやって来、すぐ手代の一人へ命じた。

「孝太、早くご用をうかがいなさい」

誰彼問わず、他人には柔らかな物言いをするのがこの界隈の旦那衆だ。父は優しい声音で、穏便に菜っ葉服のごま塩男を店先から裏口へ下げさせようとした。

「ご用の向きは何でしょう?」

「成田屋の、文緒お嬢さんというのを、出して下さらんか」

応対した孝太が、男の言葉にこちらを振り返った。前掛けで組んだ両手をもじもじさせている。

あの男に名指しされる理由が、ちっともわからない。意外な事態にわたしは驚き、母と目を合わせるばかり。

やはり父が先に出、孝太の傍らに立った。

父も大柄とはいえない人だけれども、恰幅がよく、さすがに呉服屋で着るものが洗練されているため風采がいい。その前に立つ菜っ葉服の男は、父より小柄で痩せており、ひどく見劣りして見えた。

どこぞの下男か、労働者であろう。

そう当たりをつけてみるが、父に対する態度がそれらしくないのだ。

痩せたその身をやや反らせ、まるで偉そうなほどである。この階級の人々にしてみれば、大店の旦那に接する、おどおどした様子がないのが珍しいと思った。

「娘の文緒に何のご用でしょう? わたしが代わって…」

父の声を遮り、男は顔の前で手を振った。「それじゃ、了解ならん」と。

「直にお手渡しするように、若から言いつかっておるんでな。父御でもこれは預けられん」

そう言い、男は自分の菜っ葉服のむねをぽんと叩いて見せた。更に父が「どなたからのお使いで?」と、柔らかく訊ねれば、男は反らせた身をまだ反らせ、ふん、と鼻息を荒くした。

「わしは霧野家に永らく仕える者じゃ。そのわしが言う若なら、嫡男の恭介様しかおらんじゃろうが」

あ。

この妙な男は、霧野家の使用人だ。

わたしは急いで履物に足を引っ掛け、父の側に立った。

そのわたしへ、男はじろりと視線を流した。上から下までじろじろと眺めるから、嫌になる。霧野中尉の関係者でなければ、そっぽを向いてやるところだ。

「ほう、あんたが文緒さんか」

「はい。霧野様は、わたしに何を?」

そこで男は、返事もせずわたしから父へ視線を移し、ちょこんと頭を下げた。父へ向かい、霧野中尉が我が家に世話になった礼を述べる。

「かたじけのうござった」

「いえいえ、こちらが霧野様には無理を言い、滞在を願った次第でして、なに、取り立て何もさせていただいておりません」

父の鷹揚な言葉を、男はふんふんと頷いて聞いた後で、「いやいや」とまた顔の前で手を振った。

「あの風来坊のような若が、数ヶ月もの長のご滞在じゃったんじゃ、よほど居心地がよかったんじゃろう」

「お茶を」と丁稚へ声を掛けた父の声を、男は遮り、

「いやいや、ご用の途中なんじゃ。気遣いはご無用」

風体に似合わない、時代錯誤な言葉を、男はほろりと使う。けれどもそれが、不思議と違和感を生まないのだ。

近くでは、皺が刻まれても引き締まった肌や鍛錬した身体がうかがえる。ずっと前にどこかで見た古い甲冑のような、またはそれから推す、古武士のような匂いを、菜っ葉服の影にほのかに嗅いだ。

確か、霧野中尉の家は、徳川期の直参旗本であると聞いた。ならば世が世なら当主は「殿さま」で、素晴らしい名家だ。嫡男の彼が「若」であっても、おかしくなどない。

であれば、粗末ななりをしていても、このごま塩男も、歴とした元士族の出なのであろうか。

大正の現在であっても、いにしえの士族の出自を尊ぶ風は濃い。我が家の父だってそうだ。士族の出を誇りにしている。何より、中尉が属する軍部の偉い方々は、ほぼ皆が士族の出でもある。

「若」と呼ばれる中尉を、わたしは知らない。新たに眺める彼のある素顔に、わたしはやや慄然とし、胸が震え、また驚きで呆然とする。

そこで初めて、男はわたしに胸から取り出した封筒を渡した。それは厚く硬い封筒で、表書きにはさらりと流した書体で「霧野恭介様」とある。そこへ横線を二本引き消してあるのだ。

どうして彼は、自分に宛てられた手紙を渡すよう、わたしへ使いを出すのだろう。封筒だけ使い回したのだろうか。

雑な男の人ならやりかねない。無頓着でふてぶてしくて、貧乏ったれの霧野中尉ならもっとやりかねない。

わたしは手の封筒を持て余した。焦れた。

すぐに中を見てみたい。何が入っているのか。何を彼はわたしへ渡そうとしたのか。早くそれを知りたくて、このまま出掛けられない。手に提げた小さな巾着の中になど仕舞えもできず、袂や帯の間にも隠しておけないのだ。

「では御免」

と、菜っ葉服の男がどこか揚々と帰ったのを潮に、

「ちょっと待って、忘れ物をしたの」

わたしは母へ声をかけ、奥内へ駆け戻った。

手紙を見るための、見え透いた言い訳。

「まあ、これ文緒…」

「待ってやりなさい」

背中に父と母の呆れた笑い声が届いたが、構わない。早く彼の手紙の封を切りたいのだ。

わたしは真っ直ぐに廊下を走り、自室に飛び込んだ。襖をぴたりと閉じ、そのせいで、部屋は昼なお薄暗い。ちょっと乱れた息を整えながら、手の手紙の封を解いた。

上等な質の封筒の中には、厚手の葉書ほどの大きさの白い紙が入っている。それは、印刷の硬い字体で記された夜会の招待状であった。まず頭に、『久我子爵家 夜会』と、記されている。

「あ」

これは、彼への招待状なのだろう。

そういえば、彼から「夜会に興味はあるか?」と問われたことがあった。わたしがよければ、「連れになってくれ」と。

あれはスペイン風邪の治りかけ、まだ熱の下がりきらない中のことで、それにあまりにも彼に不似合いな言葉に、ふいっとあれきり、わたしはその件を失念してしまっていた。

その言葉の後に続いた、抱擁と、そして初めての口づけ。あまりに甘やかな記憶が、それをのんでしまったのかもしれない。

つまんだ招待状の裏を見れば、そこに彼の字でこうあった。

『一時間前に、迎えが行く

会場で待つ   

恭介』

短く、素っ気ない文字の列。

けれどもそれは、間違いなく彼が自らペンをとり記した、わたしへ向けられたものだ。わたしだけに。

ひどく胸が躍った。高鳴りがやまない。頬が熱くなるのがすぐ知れる。

 

恋文でもないのに。

 

わたしはひたすらにその文字を目で辿り、指をなぞらせるのだ。そんなことで、あのふんわりと抱いてもらった抱擁と、そして交わした熱い口づけを甦らせている。

彼が綴った文字から、その指に触れるように、焦がれている。

 

恋文でもないのに。

 

忘れられないから。

 

 

人力車が差し回されたのは、日が長い春先、まだ夕暮れとも呼べない頃だった。

わたしは車夫の手を借り、その高みの座に上った。そのとき、割れた裾から入る風が、やや冷たくふくらはぎをなぜた。

女学校時代に、具合の悪くなった級友らは、皆、これで帰宅したものだ。

わたしは父の躾から、その贅沢は許されていなかった。だから具合が悪く早退の折りも、いつもと変わらずおみつが迎えに現れ、その級友との差にふくれっ面をしたのを覚えている。

そして、機嫌を斜めにしたわたしを、宥めて迎えてくれたのが、いつも隆一だった。

懐かしい、思い出。

帰らない、過去。

それは、柔らかくわたしの心を揺さぶる。けれど見送りを受け、威勢のいい掛け声とともに車夫が車を進ませ、頬をなぶる冷たい風に、それはふわりと流れて消えてしまうのだ。

 

思い出は、決して今を越えられない。

 

纏う、新しい染めの友禅の振袖には、紫の地に春らしい桜が散って柄が描かれている。

髪は、この日は頭頂部で部分を結い、他は垂らし髪にした。肩からこぼれた髪が、背の帯の当たりにまでしっとりと流れ、最近切り揃えたばかりの毛先がそこで扇のように美しく広がる。その様を姿見で何度も見、気に入ってもいたのだ。

霧野中尉にこの髪を見てもらいたい。

そして、いつものように、指に絡めてほしいのだ。

もう「乱れる」と、わがままに膨れたりしないから。乱れてもいいのだ、あなたの指になら。

商家の建ち並ぶ古い界隈を抜ければ、ビルヂングが林立する街が見えてきた。雑踏の中には、早々と日傘を持つはいからな洋装姿の人々も多い。とりわけ、女性の盛装した姿に目を惹かれる。

少しだけ怖じけた気分になってくる。

今日の着物は、我が家の抱えの作家による京から届いた新作の着物だ。着られる人を選ぶ贅沢な品で、着付けに加わったおみつなどは、「しつけの糸も、そりゃあ怖々取りましたよ。あたしどもには、もう目の玉が飛び出るお値段なんですもの」と、ささやいた。

母の見立てだけあって、小柄なわたしに、濃い地のそれはよく似合っていると、自画自賛にも思う。装ったわたしは、盛りに向かう娘らしく、愛らしいはず。きれいなはず。

けれど、不安なのだ。場違いではないのか。洋装の方がよかったのか……、とこの期に来て装いの悩みは止め処もない。

母に借りた右の中指の大粒の真珠の指輪に触れながら、詮無くそんなことを考え続けている。

と、人力車が速度を緩めた。

紀尾井町までは結構な距離なのに、もう着いたのか。今度は装いの悩みに変わって、別な不安が胸に込み上げた。

車は制服の門番が両側に厳しく立つ鉄の門扉をくぐる。濃茶の屋根を葺いた、白い外観の洋館が目の前に大きく迫る。更に、これから向かう車寄せの辺りは、喧騒が感じられた。

空になり帰る人力車と、次々にすれ違う。車を降りた人々の賑わいだ話し声が、わたしに耳に生々しく届いた。

順番が来て、もじもじとそれでも車夫の手を借りて車を降りた。入り口扉に向かう人々が、そこには群れていた。軍服姿もちらちら目に入る。洋装した婦人が少ないことに安堵もするが、車夫が車を返し、去ってしまうと、ひどく心細く感じる。

寂しくて、指先を唇に運んだとき、敷石に立つ、背の高い霧野中尉の姿が目に入った。帽子を片手に、人待ち顔に、左右に顔を向け、誰かを探している。ときに手袋の手を、口許にやる仕草を見せた。

見慣れた目にもまぶしいほどに、すっきりと凛々しくその姿は映えた。

普段は浪人者のようなのに。

ずるいくらい、今彼は、将校として端然であり、そして瞳を離せないほど颯爽としている。

ずるい。

わたしは声も出せず、待った。

彼が見つけてくれるのを、待った。

それは、ほんのわずかな時間。きっと、幾らか瞬きするほどの間のはず。

かっちりとした軍服の胸に、何だろう、目新しい小ぶりな勲章を垂らしてある。朱の肩章の房が、首の動きに揺れる。

ふと、目が合った。

離れた距離の先で、彼が何か言った。それはわたしの名であったのかもしれない。そこにいろ、という声だったのかもしれない。

ほどなく彼が人を縫い、わたしの側まで来た。不安が安堵に瞬時に変わる。耳にざわざわとぎごちなく入ったざわめきは、このとき、何でもない背景音に混じり、溶けた。

彼に会う、それだけで、嬉しい。この日が素敵な特別の色を帯びる。その色は、じゅんと流れて、わたしに胸に染み入り、ときめきの色に心を染め上げていくのだ。

うっとりと、柔らかく。

「ひどく目立つな、あんた」

 

「え」

 

「すぐわかった」

その彼の声を聞き、ひっそりと、わたしは指を彼の革の手袋の手に指を触れさせた。軽く指先で握れば、長い指が、わたしの少しだけ強張った指を固く包んだ。

空はやや暮れ始め、きらきらとした照明が庭に灯され始める。微かに始まり出したそれら宵に、わたしたちは紛れるようにほんのり寄り添い、そして指を絡めた。

 

このまま、離さないでほしい。




          


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