突きつけた覚悟の、ああ、なんて正直なあなた、
祈るひと(11
 
 
 
邸の庭を歩きながら、わたしは言葉を探していた。彼に掛けるべき言葉を。
けれども、頭はのぼせたようにぼんやりとし、何も浮かばないのだ。玉砂利敷きの庭の小道を歩き、歩きながら出ない言葉を探し、探しながら辺りへ視線を流している。
こんもりとした西洋樹の茂る庭は広く、その幹を埋めるように和種の低い花木がみっしりと植わり、白い花をつけているのが見える。完全に暮れ切れない中灯された瓦斯灯が、まだぼんやりと庭へ淡い光を投げていた。
人々は美しく整った庭を、じきの夜会の始まりまで、銘々勝手に散策している。
「あんたが、来ないのじゃないかとも思った」
霧野中尉の言葉はまるで、背の高い彼から、ぽつんと雨粒のように降ってきたように感じた。肩に、頬に、ぽつんと。
なぜ、そんなことを言うのだろう。あんな、ぶっきら棒で言葉足らずの便りを寄越しておいて。
わたしが来ることをためらうと不安であったなら、あの便りに書き添えてほしかった。もう一言でいい、あなたの言葉で。
ちょうど、池に渡された石の橋を渡るところだった。
わたしは彼へ瞳を上げながら、「馬鹿」と心の中でつぶやいた。来ない訳が、ないのに。
欄干に手を乗せ、ちょっとしたからかいとはにかみで、わたしはこんなことを口にした。
「…来なかったら、どうなさったの? 他に、女のあてがおあり?」
「ない訳でもない」
間髪入れずに返ってきた声に、わたしはすっかり言葉を失った。怒りと恥ずかしさで頬を膨らませながら、そのくせ、瞳には瞬時に熱い涙が浮かび上がるのだ。
「そちらになさればいいじゃない。文緒ではなく」
「そう怒るな、相手は五歳児だ。話にならんだろう」
「え」
「俺はいるとは、言ってない」
見上げれば、彼は涼しい顔でわたしを見ていた。唇の端にちょっと笑みを乗せながら。彼のからかいの意図がそこにくっきりと見える。上官の幼い息女に、彼はひどく気に入られているのだという。
わたしは履物の足で、彼の革靴の先をぎゅっと踏んづけてやった。
腹立ちで彼から背けた顔に、瞳の涙がほろりとこぼれ、頬を伝う。悔しさでにじませた涙が、少しときをずらし、遅れて今、安堵と拗ねにあふれ出すのだ。
帯に挟んだレースのハンカチを取り出し、急ぎ、瞳を押さえた。ハンカチを、また帯にねじ込むように仕舞う。
その仕草に、横に立つ彼の視線を感じた。いつの間にか、わたしたちは歩を止め、他愛なく池を覗く風をしている。
肩に垂らした髪を、彼の指が触れる気配がした。ちょんと指は髪を絡め、やや強く引かれた。
「下らんことで泣くな」
ひどい。
下らないことで泣くのは、不安だからだ。彼に関するほんの些細なことでも、気持ちが揺れる。波立ってしまう。それは彼と離れているからだ。
約束もなく、誓いもない。
彼の何気ない言葉、わたしを呼ぶ声、そして交わした口づけの余韻。それらを繰り返し胸に呼び起こし、あなたへのよすがにしているのに。
ひどい。
上目に睨みつけてやれば、わたしが欄干に置いた手に、彼が自分の指を重ねた。
「惚れてるのは、あんただけだ」
そのささやきは涙を生み、わたしの視界を再びにじませた。瞳を落とした池に泳ぐ色とりどりの鯉の姿が、このとき重なり虚ろに映る。
 
「ねえ霧野様、もう一度言って」
 
「言えるか」とつぶやくのが聞こえた。彼はそこで重ねた手を外し、わたしを置いて橋を先へ進む。置いていかれて、わたしは早足に彼の背を追った。上着の裾を、触れた指先でつまんだ。
「ねえ霧野様…」
ねだる声を遮ったのは、大きく案内を告げる男の声だった。庭に遊ぶ招待客を邸内へ招じ入れるものだった。
 
 
軽い食事が供され、その後、室内楽の演奏会に移った。女学校時代には学校の催しと友人の屋敷での小ぶりな会の経験で、その雰囲気は知っているつもりだった。
しかし、重厚な洋館の広間で催されるそれは、別格だった。広く取られた演奏席には十五人もの演奏者があった。中に数人異人の姿もある。
広間を照らす照明は、百貨店にあるような華やかな照明のもっと多くの光の粒を集めている。
白い麻布のかかった丸いテーブルが、点々と、お客に合わせて配置されており、わたしたちはその部屋の端の席に着いていた。
お客の数は三十人ほどであろうか。皆が盛装をし、また霧野中尉のような軍服姿もちらほら見られた。遥か上官に当たるのか、中の恰幅のいい年配の一人の前で、彼が硬い敬礼をしたのが印象的だった。謹厳なその様子は、わたしが初めて目にする彼でもある。
レコードでも聴いたことのない曲が、数曲演奏された。銘々煙草をふかし、または供されたワインを口に運ぶ人々。婦人は、食後の紅茶とケーキを優雅に楽しんでいる。
初めての経験に緊張しつつ、別世界の状況は、わたしをぎこちなくもうっとりとさせた。
中尉は小さな欠伸をもらしていたと思ったが、演奏が始まれば、目を閉じ聴き入っている風であった。腐っても帝大出。西洋音楽の素養もあるのだわ、と感心していると、曲の半ばにも行かずに、猫のようないびきかき出したから呆れてしまった。
拍手で演奏が終われば、ようやく彼も目を開けた。首をぐるぐる回している。
散会かと思えば、人々が席を自由に移り、歓談し始めた。一人、これも軍服の若い男性が、中尉に気づき、こちらへやって来た。胸に彼と同じような小ぶりの勲章があった。似た部署にいる証なのか。
同じ階級らしく、雑な話し方だ。中尉が「高橋」と呼ぶ男性は、ちらりとわたしへ視線を流した。誰なのか、気になるのだろう。中尉は敢えてか、忘れてか、わたしをその男性へ紹介しなかった。
煙草をくわえる彼へ、男性が「このお嬢さんは?」と訊ねた。今気づいたが、夫妻らしい落ち着いた感の組み合わせはよく目に入る。けれども、わたしたちのような中途半端な取り合わせは、この場にいないように見える。
現に高橋という男性も、彼と同じ軍服組であるが、一人で出席しているようだった。
わたしのことを紹介する気がないのか、中尉は「知り合いだ」とはぐらかし、話題をすり変えてしまう。
わたしは温くなった紅茶碗を指でいじりながら、ちょっとだけ居心地悪く、それが終わるのを待った。
不意に、ふわりと小さな風が身近で起こった。その風は軽い花の香りをしていた。その匂いに中尉から目を離す。白い襟元の立ったブラウスにスカート姿の女性が、わたしたちのテーブルのほんの側に立っていた。
あ。
急いだのか、女性は少しだけ息を乱している。
身体の線に沿った絹地のブラウスに、こちらは臙脂の華やかなロングスカートを纏っていた。裾が床に擦れるほどにそれは長く、彼女の小さな足の動きで波のようにふわりと揺れる。
小さくて、白い端麗なその顔に、わたしは見覚えがあった。この人は、中尉の妹御だ。
たっぷりとした黒髪を艶々と夜会巻きに結い上げている。その頭をちょっと傾げた。兄の話が済むのを行儀よく待っているのだ。ふと、わたしと瞳が合った。
「ご機嫌よう」
微かな笑みだけで、すぐに彼女の頬は強張ってしまう。視線はすぐに兄の中尉へと戻って行く。わたしは言葉を返せず、会釈の機会も逃し、もじもじと瞳を伏せた。
高橋という男性が去れば、彼女は中尉の肩に、気安げにぽんと手のひらを置いた。
「寝ていらしたでしょう、お兄さま。見えていましてよ」
先ほどとは打って変わり、彼女の表情は和らいで見えた。紛れもない兄への親愛の情がにじんでいる。
「紫」
中尉は、わたしが彼女の顔を知っているとは知らない。こっそりと彼の持つ妹御の写真を盗み見たことを、彼は知らない。
簡単に「妹の紫だ。ここの、…女主だ」と、告げる。彼の言葉に、わたしの他愛ない誤解が解けていく。わたしはこの夜会を、彼が将来ある将校の身であるから受けたのだと、勝手に思い込んでいた。
けれども、違う。彼が招待を受けたのは、この妹御の兄上だからだ。その絡みで、わたしを伴うことになったのではないか。そうであれば、先ほどの高橋さんに女の連れがなく、彼にある理由もわかる。
彼の紹介に、紫さんはわたしへまた薄い笑みを流しただけで、すぐに彼の腕を引いた。
「御前が「恭介を呼べ」って、お待ちかねよ。早くいらして。そうしないと、ややこしいから。お客連とは、誰とももう話したくないの」
客を憚って、彼の耳元へひっそりとささやく。
わたしへは何の断りもなかった。最後に、軽いやはり目礼のような、会釈のような、そんな曖昧な視線が向けられただけ。単なる淡い興味の一瞥なだけかもしれない。
「わかった」
硝子の灰皿へ彼が吸いかけの煙草を押しつぶし、立ち上がった。テーブルの上の帽子を頭に乗せる。
「少し、待っていてくれ」
「…ええ」
そのまま、妹御に腕を引かれるまま、彼は背を向けた。
演奏会が終わり、広間から開け放された扉からは、玄関の広々とした敷石が見えた。白く光る大理石のその敷石からすぐに、螺旋に伸びる朱の絨毯を敷きつめた階段が見える。そこを、二人が登っていく。
背の高い彼に似て、彼女の姿もすらりと伸び、しなやかだ。洋装が、流行の女優であるかのように板につき、よく似合っている。普段も何気なく、身に着けているのが知れる。
麗人だと思った。この華麗な洋館の主人に相応しい。
そして、面差しが何とはなしに、中尉にやはりよく似ている。
一人っ子であるわたしは、きょうだいといものをよく知らない。友人に、兄や姉、弟妹があるのを、わたしはこれまで羨ましいと感じたこともない。両親の愛情を独占していたし、また、甘い兄に代わるような隆一の存在があったためかもしれない。
けれど間近に今、二人を眺め、親子とはまた非なる血の相似とは、このように美しいものだと、初めて知った。互いだけの、命に刻まれた絆の証でもある。それは奪われることもなく、また消しようのない確かなもの。
密な二人への疎外感から少しだけ妬け、またこちらに背を向け、わたしの知らない階段の先を上がっていく彼へ、胸へぶくぶくと湧くつまらなさと共に、一人放っておかれる寂しさを感じていた。
 
彼が遠くへ行ってしまうような、
誰かに奪われてしまうような、
 
やり場のない、捨てようのない。けれど身勝手な匂いのするその感情を、わたしは持て余し、頬杖をついてやり過ごすのだ。



          


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