死がふたりを別つまで、一緒に居るのも辛いのに、
祈るひと(12

 

 

 

霧野中尉を待つ間に、新しい熱い紅茶が供された。テーブルの紅茶椀に上る白い湯気を見つめていると、時を知らせる時計の大きな音がした。目をやれば、針は七時を指している。

ほしくもない紅茶を、砂糖も入れずにさじでくるくると回す。

小さなため息を幾つかもらすわたしに、声をかけた人があった。それは先ほど中尉と話していた、軍服姿の高橋という若い男性だった。細面の顔は真面目そうに整って、軍服の効果と相まって謹厳そうに見える。

「霧野はどこへ行ったのです?」

「さあ…、すぐ戻るようなことを言っていましたけど」

彼に用なのかと思った。けれども、男性はそれ以上の問いを重ねず、中尉がかけていた斜隣りの席に、ちょんと腰を下ろした。

わたしが問う前に、霧野中尉とは陸大の同期であると告げた。そこで、彼が胸に付けた、中尉と同じ勲章のような飾りに目が行く。紺のリボンが何かを刻んだ小さな銀板を縁取っているものだ。

陸大に入学が叶った者の証のようなものなのかもしれない。

「どちらのお嬢さんですか? あの霧野が、あなたみたいなお嬢さんを連れているので、驚きましたよ」

彼の言う「あの霧野」とは、わたしも知る、粗野な風でどこか昔の浪人を思わせる彼を指すのだろうと思った。それにちょっぴり笑みがこぼれた。

わたしは名を名乗り、中尉とは知り合いであると言った。

「日本橋の成田屋ですか、母が贔屓ですよ」

「ありがとうございます」

「あの大店のお嬢さんと、霧野がまた、どういう縁です? まさか許婚だとか…」

男性の声を遮って、絨毯を踏む柔らかな足音が耳に入った。振り返れば、後ろに霧野中尉の姿がある。妹御はおらず、一人だった。

「そんな訳があるか」

中尉は短くそう答えたのは、高橋さんの言いかけた言葉に対してのものだ。あっさりとした言い切りのその言葉に、わたしはひどく傷ついた。

「じゃあ、どんな知り合いだ? 親戚か何かか?」

「貴様もしつこいな。いいじゃないか、どんな知り合いだろうと」

中尉は煙草を唇の端にくわえ、つぶれた声を出した。その声は笑みを含んでいる。

「そりゃ気にもなる。こんなきれいなお嬢さんとどうやって知り合った? 教えろよ」

「前に宿舎が燃えたろ? それで、しばらく彼女の家に厄介になっていたんだ。それだけだ」

「だから、どうして、成田屋に厄介になることになるんだ?」

「くどいな、貴様も」

呆れた響きの声で返し、さりげなく彼はわたしを立つよう促した。どうやら帰るようだ。

中尉は、わたしの父が陸軍贔屓であり、義侠心から宿無しの彼を歓待してくれたのだ、と高橋さんへ手短に伝えた。

「ふうん。根拠が浅い気がするな。山崎の乙戦術論みたいに空疎だ」

「あはは、空疎で悪かったな。浅かったら、自分で埋めてくれ」

そのまま彼と別れ、広間を出た。

玄関の大扉を出れば、すっかり夜が始まっている。まだ冷たい春の空気が肩先から、首筋を撫ぜた。

辞去の挨拶のことが頭にあったが、彼が何も言わない以上、必要もないのだろう。わたしは黙ったままでいた。

先ほどの彼の断定的な言い切りが、まだわたしの気分を損ねていた。許婚かとの同僚の問いに、彼は「そんな訳があるか」と言い捨てた。

そんな言い方しなくてもいいのに。

ではなぜ、「惚れている」などと言ったのだろう。わたしだけだと、言うのだろう。

瓦斯灯が、夕暮れよりもまばゆく辺りを照らしていた。

彼がわたしの手を引いた。

「歩けるのだったら、家まで送る」

「え」

この邸から我が家まで、徒歩ではちょっとした距離がある。来たときと同じく、わたしはてっきりこれから人力車に乗り、彼とはここで別れるのだと思っていたのだ。

「そうしないか」

履物のことをちょっと考えた。新しい草履は、長歩きに適さないだろう。途中、痛んで歩けなくなるかもしれない。

「くたびれたら、おぶってやる」

「あんたなら、詰まった背嚢より軽い」、と彼は笑うのだ。

わたしはその涼やかな笑顔が堪らなく目に沁みて、ほんのりつないでいた手を自分から絡めた。

まだ怒っているのに。冷たい言葉でわたしを傷つけた彼を、やや恨んでいるのに。

 

着物に草履のわたしの歩調に合わせ、歩く速度はひどく緩やかなものになった。

紺色の夜空に、小さく瞬く星と月。街は、街灯やそこここからもれる照明の光で、昼の姿とはまた違ったように見えた。

何もかもが夜のせいでおぼろになり、またその夜を照らす灯りのせいで、芝居の中の世界のように、辺りが幻想的に感じられる。

劇場がはねた後か、人の姿が多い。興奮気味におかしげに話す観劇後の人々に混じり、わたしたちは指を絡めたままでいた。

さんざめきに紛れ、言葉を交わす。

「高橋は、何を言った?」

「別に…、お母上が我が家のご贔屓だって、ことくらい」

「他は?」

「もうないわ。だって、すぐに霧野様がいらしたから」

「ふうん」

中尉はちょっと不機嫌なようにそこで黙った。ちょうどさっきの高橋さんに似て、納得のいかないような顔をしている。

「隙だらけに、ぺらぺらと男と喋るな」

「ぺらぺらなんて…」

言葉にわたしは膨れて、そっぽを向いた。鎧戸を閉めた店の錆びた看板が目に入る。そこに並んだ飾り文字を見ながら、腹立ちに、彼とつないだ手を解いてやろうかと思った。

そのとき、不意に、指を硬く握られた。痛みに近いほどその力は強く、はっとなる。低い声で、彼は「軍人には、遊ぶ男が多い」と告げる。先ほどの、高橋という男性の至極真面目そうな顔を思い出してみる。

中尉の言葉は暗に、あの彼もそうであると言っている。あのような人でも女遊びをするのか、と変なところで感心してしまう。

「あんたは目に付く。気をつけろ」

わたしの気遣うその言葉の影に、絡めた指先に、わずかな彼の嫉妬を嗅いだ気がして、頬が緩んだ。こんなことで、わたしは頭にちょっと出した角を、易く引っ込めて仕舞うのだ。

「気をつけろ」という彼のわたしへの忠告を、これまでも幾度か聞いたことがあるのを思い出した。帝都を震撼させた強姦殺人魔の折りもそうだった。

そして、彼がまだ逗留していた時分、我が家の店先に極道者が現われたときは、彼は「出てくるな」とわたしを叱った。腕を伸ばしわたしをかばってくれた。

言い草や無頓着な素振りには、その都度腹が立ったが、あれは紛れもないわたしへの優しさだ。

霧野中尉は、いつもわたしを守ろうとしてくれる。

その事実にこんなとき気づくのだ。それはわたしを、彼の腕に包まれているかのような、満たされた気持ちにさせる。

「ええ」

短く返し、ねえ、とわたしは彼を見上げた。髪に隠れて、わたしの角度からは彼のこめかみに近い傷が、このとき見えなかった。

「霧野様も軍人だわ」

「俺は金がないからな」

笑いに紛らせる彼に、わたしは更に問う。「お金がなくなって、女の方からあなたに貢ぐかも」

父が、そのようなことを言っていたのを覚えていた。中尉くらいあれこれ持った男であれば、「玄人の女は放っておかんだろう」と。

「そんな知恵、どこで付けた?」

呆れた声が返ってきた。

「文緒だって、色々知っているわ」

「何を?」

それはまるで、猫の子にでも「ほら」と何か投げてやるような声音をしていて、くやしくなる。

「霧野様がおもてになるだろうくらい、わかります」

「あはは」

彼の前でやきもちを大っぴらに焼いて見せたようで、頬が熱い。わたしの方こそ、彼がときにするという遊女遊びを、ちくりと責めるつもりでいたのに。

「俺はあんただけでいい」

何を言われても、つんと拗ねて、しばらくは知らん振りをしてやるはずだった。けれども、彼が折りにわたしへ投げかける言葉には、膨れていた頬を、ふと指の背で撫ぜるような、そんな柔らかな甘さがあって、その声に、わたしは気持ちがしんなりと凪ぐのだ。

いつもそう。

 

繁華街を過ぎれば、人気が少なくなった。火の用心を呼びかける自転車のお爺さんと擦れ違った。ふらふらと肩を組み歩く、酔っ払いの勤め人をやり過ごす。

「妹御は、きれいな方ね」

会話が途切れ、わたしは彼の妹御のことを持ち出した。中尉は「そうか?」とつぶやき、思い出したように、

「あれは、あんたのことを「市松人形みたい」だって言っていたな」

「え」

小学校時分は、男の子によく『市松人形』、『イチマツ』と、はやし立てられたものだ

のち、それが顔立ちを褒めたからかいだと気づきはしたが、どうしてか、わたし自身あの人形が好きでなく、指をさされて言われるのが堪らなく嫌だった。

泣いて帰っては、隆一に慰められた過去を思い出す。

今でもあの人形は好きになれない。どうしてだろう。自分にちょっと似ているからかもしれない。

そんな市松人形に似ていると、紫さんが口にしたことが、今晩の彼女のわたしへの態度と重なり、ほのかに不快だった。独り決めであるが、もしかしたら、わたしは彼女によく思われていないのかもしれない。

「そう」

ふと、中尉が我が家に使いに訪れたあの爺やのことを話し出した。あの人が、先ほどの邸で、紫さんに仕えていることを。

「あの爺やさん、霧野様のことを、「若」って呼んでいたわ」

「紫は『お姫(ひい)さん』て呼ばれてる」と彼はちょっと笑う。

「また時代錯誤なことを言っていたろう? 『霧野家三千石』だの、偉そうに吹いてなかったか?」

ううん、と首を振りながら、そうか、霧野様のお家は徳川の世には、三千石の大旗本であったのだろう、とぼんやり思った。世が世なら大身の殿様の彼は、気楽に軍靴の先で小石を蹴ったりしている。

大分歩いて、足先が痛み出してきていた。それで歩が、彼のゆっくりと運ぶものより遅れた。

「小兵衛(爺やの名)はあれで、北辰一刀流の師範だ。今も紫の世話の傍ら、小石川の道場で稽古をつけてる」

「ふうん」

あのときわたしが小兵衛という爺やの佇まいに感じた、古武士然とした雰囲気は、決して間違いではなかったのだ。

「霧野様も、爺やさんに習って剣術をされたの?」

「ああ。筋が悪いの、癖が悪いのと、さんざんしごかれた」

「ふうん」

足先の痛みを紛らせるため、彼の手を引き、これまで訊きかねていた問いを発した。

彼がどうして、帝大を出ながら軍人になったりしたのか、それがわたしには謎だったのだ。軍人を志すなら、最初っから士官学校へ進めばよい。士官学校はお国の勇士を育成する学び舎であるから、学費はかからないと聞いた。

「気が変わったんだ」

中尉はそれを答えにした。それは事実だろう、けれどその気が変わった理由を、わたしは知りたいのだ。答えにならない。

不服そうな顔をしたのだろう。彼は小さく笑った。

「あんたも学校で習ったろう。鎖国を解いてから、この国が幾つも外国との戦いを経てきていることを」

「え」

「怖いことを言うが、これからもきっとある。それは避けられん。避けようと思えば、列強の言うなりになるか、また幕府時代のように国を閉ざすしかない。けれど、時代錯誤にそうもいかん」

「え」

「そして戦争を含めた国策は皆、上の人間が考えて決めることだ。国の大事は上の人間が決めて、下の者がその命に従う。逆らえん。ご一新だの言っても、徳川の世と何も変わらん。それで迷惑を蒙るのは、俺たちのような下っ端だがな」

だから、と彼は言う。

「帝大出だの法律家だのと言ったところで、上がそうと決めれば徴兵に遭う。何の訓練もなければ、学士様でも一兵卒扱いだ。更に、軍隊というところは、下の人間ほど死に易くできてる。…それで、こっちに宗旨変えだ」

相槌も忘れ、わたしは彼の言葉を聞いていた。痛む足は耐え難いものになっていたが、どうでもいいと思った。

「早く上に行けば行くほど、それだけ死に難くなる」

およそ軍人らしからぬ、合理的で保身に勝った、利己的な言葉だが、戦地を体験した軍人の彼だからこその、重みをそこに感じた。嫌な匂いはしなかった。

こんな人であるから、一兵卒でしかなかった隆一の遺品を我が家に届けてくれたのではないか。死にたくない思いも、その美々しさの裏の恐ろしい空虚さも、知り抜いた人だから……。

「つまらん話だな、すまん」

不意に彼が歩を止めた。痛みにややも引きずりがちな足に気づいたのか、わたしの足元に屈んだ。

「早く言え、血がにじんでる。痛んだのだろう?」

目をやれば、街灯に足袋の先が白く浮かんでいた。指の又の部分が赤く染まっている。気づかなかった、こんなにまでなっていたなんて。

「ほら、乗れ」

前に屈んだ彼の背に、わたしはおずおずと手を伸ばし、ゆっくりと身を預けた。背負われて、背の高い彼と視界が重なる。中尉はこんな風に外の景色を見ていたのだ、とおかしな感心をした。

未経験の高みと、背の温もり。頬を寄せた肩と髪の匂い。

足の痛みなどどうでもよかった。

今、このときが嬉しかった。

「霧野様は、出世なさるの? 大将や中将といったお偉いお役に就くの?」

「さあな、わからん。でも、気分はいいだろうな。せいぜいが五十人を指揮する現場の中尉と何万の大軍を動かす将官じゃあ、天地ほどの差がある」

声は楽しげな響きを持っていた。そこに野心の匂いは不思議としない。合理的であろうと利己的な理由であろうと、この人は軍人であることが、おそらく適っているのだろう。

そんな風に思えた。たとえば教師であるとか、医者であるとか、新聞記者であるとか……、軍人以外の職に就いた彼を、わたしも想像などできない。

「でも、お偉くなるのでしょう? 文緒はそう思います」

「何だ、あんたは偉いのが好きなのか?」

そうではない。

女の勘というと、彼はきっと笑うだろう。根拠のないそれを馬鹿にするかもしれない。けれど、おそらくこのまま立身を重ねていくだろう彼の一番そばに、変わらずにわたしはありたいのだ。

それだけ。

軍服の肩に頬を押し付け、言葉を返さないわたしへ、彼が顔を向けた。

「偉い男が好きなら、他を当たれ」

「嫌」

霧野様でないと、嫌。

 

「じゃあ、偉くなる。少し…、待ってくれ」

 

彼の言葉に、胸が震え、涙が瞳ににじんだ。「今の俺には、坂の上の雲をつかむみたいな話だ。気長に待ってくれ」と、言葉尻が笑っている。

彼が待てと言うのなら、幾らでも待つ、祈るように、わたしは待つだろう。

そして、たとえ偉くなんてならなくたって、ちっとも構わないのだ。

しゅんと鼻を小さくすすり、甘えた気分で、わたしは今縁談が持ち上がっていることを打ち明けた。

彼に一蹴してもらいたいから。

「山本屋っていう、近所のお米問屋で、大変な資産家だって辺りじゃ有名なの。そこの息子さんで…」

「止めておけ」

ぴしゃりとしたその声に、頬が緩む。

「自分の食い扶持の心配をしないで済む人間は、どこかで脆い。甘ったれたぼんぼんは止めておけ」

その言葉の別の意味は、鮮やかに耳に届いた。まるで「俺にしておけ」と、その声は告げているように聞こえた。

涙でぼやけた瞳が、悠々と夜の通りを横切る、野良猫の姿を捉える。

わたしは彼の背に、頷いて答えた。

「うん…」

 

霧野様でないと、嫌。文緒は嫌。




          


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