意地らしい科白で片付けた
祈るひと(13

 

 

 

成田文緒から霧野恭介へ

 

『とうとう桜の花が満開になりましたね。霧野様のいらっしゃるところからでは、どうでしょう。美しい木々が見えまして? 男の方はそんなこと、気にもなさらないでしょうか。
先日のあの夜会の折り、父の申し出をお断りになって、あなたが泊まらずにお帰りになってしまい、ちょっと心配いたしました。
幾ら丈夫な軍人さんの足でも、往復の、しかも往きはわたしを背負って歩かれたでしょう。随分とくたびれられたのではないかと、案じておりました。
いかがです? 
こんなことをわざわざ手紙に記して訊いてくるなんて、馬鹿な奴だとお笑いになりますか? けれども、本当に気がかりだったのですもの。
お返事はよろしいけれど、お暇ができて、もしいただけるのでしたら、ぜひこのことをお答えになって下さいませ。何のために文緒が差し上げたお手紙が、わからなくなるでしょう?
これでも大変な勇気を奮って、これを書いているのですから。軍の施設宛てにお手紙を届けるなんて、これまでのわたしには、思いも寄らない冒険ですわ。

 

先日おっしゃっていらした、近く東北の方へいらっしゃるとのお話、もう少し後なら良いのに、と思います。
そうしたら、こちらで霧野様が見逃された桜を、春の遅いあちらでは、追いかけて見ることができるのではないかしら。
だとしたら、いいのですけれど。

 

どうぞご自愛を下さいませ。

 

追伸 あのお話は、多分流れそうです。だって、わたしが首を縦に振らないのですから。

 

文緒』

 

 

 

霧野恭介から成田文緒へ

 

『手紙をありがとう。楽しく拝見しました。
語尾に「?」を置く文章は、僕の目に新鮮で、まるであなたがほんの傍で話しているように感じます。
あれは、女学校で習うのですか。それとも翻訳物の小説の影響でしょうか。妹の紫がそのような文字を書いていたことを、何となく覚えています。
桜は、省庁や官舎のあちこちにも林のようになって立っています。こうもあれば、嫌でも目に入るつもりが、いつ咲き、いつ散ったのか、まったく定かではありません。
あなたの手紙に気がつけば、確かに既に花はなく、若葉が茂っていますね。まったく呆れた朴念仁に感じられるでしょうか。

 

残念ながら、東北行きは伸びそうです。あちらの桜が夏まで保ってくれれば別ですが。見逃した桜をまた見ることは、叶わないでしょう。

 

お元気で

 

追伸 書き忘れるところでした。足は平気でした。あなたが軽いから。

 

恭介』

 

 

 

成田文緒から霧野恭介へ

 

『お手紙いただけて、嬉しいです。
先のお手紙を投函するときは、多分お返事は届かないものと、あきらめておりましたから、余計に。
嬉しくって、またお手紙を書いてしまいました。
お忙しいのでしょうし、お返事はお気になさらないで下さいませね。ちっとも期待しておりませんから。これは、文緒のひとり言だと思って下さればよろしいの。
もし、迷惑でしたら、おっしゃって下さい。もう止しますから。

 

もうじき、夏がやってきますね。まだ五月ですから、ちょっと気が早いでしょうけど、呉服屋の店先は季節を先どるから、もう夏物をお客さまにはお見せしています。

 

ねえ、霧野様、
女はおかしな文章を書くと、お笑いになるでしょうね。きっと女学校の流行が今も残っているのですわ。けれども、妹御も同じような文を書かれたと知って、ちょっと安堵しております。
このお手紙を差し上げるのは、お会いできない埋め合わせのような、そんな勝手なひとり言のつもりです。
でも、そのひとり言に、あなたへの恨み言もちょっと含んでいますわ。
前の手紙で縁談の件をお知らせしたのに、あなたからは何のご意見もいただけませんでした。随分がっかりいたしました。
何か一言でも良いのに。おっしゃっていただけたのだったら、どんなにか良かっただろうって、今も思います。
恨めしいことを言うと、お笑いになりますか? 馬鹿になさる?
忘れられているようで、寂しくなるのです。
ごめんなさい、お忙しい霧野様にこんな女々しいこと申し上げて。どうぞお気になさらないで。

 

このお手紙、破って書き直そうと何度も思いました。けれども、偽らない、文緒の本音ですもの。あなたに知っていていただきたいのです。
そんなことで霧野様は、わたしを嫌いになったりなさらないでしょう? たとえ呆れても、そうでしょう?
この手紙、お読みになったら、絶対に捨てて下さいませね。ふと思い出されて、またいつか読み返されたりしたら、わたし、どこかに逃げたくなりますから。

 

追伸 紫さまからお茶会のお誘いを受けました。けれど、母が風邪を引いていて、お断りしてしまいました。霧野様がお会いなさったとき、わたしがお詫びしていたことを、お伝えしていただければ嬉しいです。

 

文緒』

 

 

 

霧野恭介から成田文緒へ

 

『母上はお元気ですか? 風邪を引かれたとのこと、案じています。
返事が遅くなり、申し訳ない。
東北行きがその理由の一つですが、それだけではあなたは納得してくれないでしょう。
忙しさの他、別の大きなものは、やはり僕が手紙下手ということでしょう。決して雄弁でもない僕が、手紙の上でだけ能弁になったりしたら、あなたはきっと気味が悪いでしょうし。

 

あなたの手紙は、破ったりせずに何度も読み返しています。届いた以上、これはもう僕の物だから、扱いは自由なはずでしょう。

 

縁談は、あなたの選択すべきことです。それについて、あの夜会の帰り、僕は意見を言ったつもりでいます。それ以上を強いる権利も、意志も、僕にはありません。
けれども、あなたが誰を選ぶかを、僕は知っている気がする。なので、敢えて手紙に書くことをしないだけです。

 

お元気で

 

追伸 紫のことは何も気にしないで下さい。

 

恭介』

 

 

 

成田文緒から霧野恭介へ

 

『暑くなってきましたね。
急のことで、こんな手紙を書いて気を落ち着かせています。いつもそうですが、普段以上に筆が乱れることをお許し下さいませ。
けれど、霧野様は、きっと許して下さるだろうと、どこかで甘えた気持ちでおります。
新聞のでご覧になったかもしれませんが、二日前に父が亡くなりました。
脳卒中との先生のお診立てで、特に苦しむこともない最期でした。五十六歳でした。
父より十七歳も若い母も、このときばかりは急に老け込んで見え、十もそれ以上も歳をとってしまったよう。その様子が痛々しくてなりません。
病気は、風邪を引くくらいの元気な父でしたので、信じられない思いで、今はただ呆然としています。
悲しみもまだ淡くて、辛さもまだ感じません。わかりません。
人が死ぬと、あんなにあれこれあるのですね、ちっとも知りませんでした。
会ったこともない親戚や人が来て、お通夜が済めば、葬儀の相談が続き(ご近所の寂光寺で五日に行います)、常に表に人があり、いつもと違って奥内もにぎやかなはずなのに、ざわざわとした潮が引いたり満ちたりしているみたいに聞こえます。
わたしは母につききりです。
もう少し後になれば、きっと悲しくなったり、辛くなったりするのでしょうね。

 

父は霧野様をとっても気に入っておりましたから、お手が空いたとき、よければお線香を上げにいらして下さい。いつでもいいので。
父もきっと喜びますわ。お願いします。
気長にお待ちしております。

 

追伸 八月に入ったというのに、庭の芍薬が、まだ咲いています。狂い咲きでしょうか。形のいいきれいな葉を見ましたので、もいできました。ご本の栞にでもして下さいな。

 

文緒』

 

 

 

目を閉じても日中の騒がしさが、耳に残っている。

お寺の伽藍のお線香の匂いが、夜になって湯を使った後もまだこの肌に染み付いたようにも感じる。

葬儀が済むと、父の死から昨日までの騒がしさが嘘のように静まった。家内はしんと暗く静かで、外のどこかを歩く野良猫のほっそりとした鳴き声までが、襖を通り、わたしの部屋に入り込んでくる。

父の死以来、ずっと寝られないでいた母が、昼の疲れも出たのか、ようやくうとうとと眠りに入り、わたしが肩を貸し、女中に布団を延べさせたのへ横にならせた。一時間ほど前のことだ。

薄暗くした照明の下の母の顔は、蒼白く澄んでいた。けれど目の縁ばかりが墨をにじませたようにうっすらと黒い。わたしは、そこに父の死の影を見た。

幼児のように、母は敷かれた布団に身を横たえたまま。何の言葉もなかった。

若く洒落たところのある、優しい、手まめな母を、わたしは大層偉いものだと思い思いして育った。今もそれは変わらない。

大店と呼ばれる商家の奥内を切り盛りし、娘を育て、影ながら使用人を采配する。父という、大きな存在に寄り添って生き続けてきた、これまでの母のすべて。

「店を閉めましょう。お父さんがいないのに、どうしようもならない…。もう嫌…」。

その母が父を失い、投げ出すように言いたくなる気持ちは、娘のわたしにもわからないでもない。

呉服商の成田屋は、父でもっていたのだ。どんなにわたしの目に偉かろうが、母は従属していたに過ぎない。

嫌な想像だが、寄り添い支える主の消えたことで、母の持つ落ち着いた輝きまでも、すっかり衰えてしまった気がしてしまうのだ。

それはいつ甦るのだろう。

わたしに悲しみが淡くまだ鈍いのは、この母のお陰だ。悲嘆に暮れる母を気遣うことで気が紛れ、だからこそ、これからを模索することへ気が向く。気持ちが悲しみばかりに沈まないでいられるのだ。

どうしたらいいのだろう。

いつ、母はこれまでの母に戻ってくれるのだろう。

そのために、わたしに何ができるのだろう。

何が……。

寝返りを打つ。

心細さに、知らず、涙がにじむ。ほろりと頬を伝った涙が、浴衣の袖の朝顔に吸い取られていった。

また猫の鳴く声。

そうだ、猫などを一匹二匹飼うのも、気が紛れ、母にいいかもしれない……。

そんなことをぼんやりと思ったとき、こんと硝子戸を叩く音がした。一瞬雨の音に聞こえた。けれども雨音に似ず、その音は不定期に、こん、こんと五度ほど固まって続いた。

それは夜陰、誰かがおとないを求めて、ひっそりと叩いているかのような音だった。

 

まさか。

 

「でも……」

わたしは床を出て、襖を開けた。

この中庭へ出る戸は、他の戸とは違い雨戸を拵えていない。奥内のこの中庭へ入るには、表の戸からではないと入れないのだ。表戸から倉庫を通り、やっとここへ着く。それは家内の者のみが知る、近道でもある。

「あ」

襖の向こう、半間の廊下の向こうに、硝子窓越しにやはり彼の姿があった。

わたしは急いで錠を開け、硝子戸を引いた。音は気にならなかった。気づかれてもいい。どのみち、彼は奉公人の誰かに表戸を開けてもらい、ここに入ってきているのだ。どうでもいい。

生温い夏の夜の風、それが開けた硝子戸から吹き込み、洗い髪をなぜた。

「文緒」

彼の声、そしてその腕に抱きしめられるとき、わたしは先ほど浴衣の朝顔に吸わせた涙がぶり返すのを感じた。熱いそれは、ほとばしるように瞳をこぼれ、頬をぬらしていく。

懐かしいほどの彼の腕の感覚の愛しさに、膝が崩れそうになるのだ。

「霧野様…」

「すまん、葬儀に間に合わなくて。親父さんには、随分世話になったのに…」

わたしは彼の胸の中で顔を振った。

いい。

こうして会えたのだから、いい。

深夜に近いだろうに、いまだ軍服姿の彼は、さっきまでお偉方の会合のお供を命ぜられていたのだという。

「終わったのが今だ。抜け出してきた」

こめかみから頬に汗が流れている。走ってきたのだろうか。

「大丈夫か?」

「…さあ。わたしは、まだ、ぼんやりとしていて……。母が、ちょっと体調を崩してしまったの…」

「大丈夫か?」

「ええ、時間が経てば、母も…」

「あんたの方だ」

彼は腕を解き、わたしの涙にぬれた頬を両の手で挟んだ。彼が影になり、面差しがよく見えない。文緒の好きな、あの中尉の涼しい顔立ちが見えない。

わたしは彼の顔が見たくて、肩に置いた手を外し、頬に手を置いた。そうすれば、指でこめかみ辺りのあの傷痕や、顔の輪郭が辿れるから。見えなくても。

汗の伝う額からこめかみを、浴衣の袖で拭ってあげる。

先ほど自分の涙を吸わせた朝顔の袖。押し殺した不安の涙の後には、駆けてきてくれた彼の汗を拭うことが、可憐なその花に似つかわしい気がした。

「霧野様に会えたから、大丈夫」

「でも、泣いているじゃないか」

瞬きのたびに、まだ涙が瞳をあふれ出す。けれど、これはあなたに会えたことで引き出されたもの。悲しみばかりの涙ではない。

「何にもできなくて、すまん…」

「ううん、来て下さったのだから…。ねえ、また別の日に来て下さる? 時間が開いても構わないから……。お線香はそのときに。母にも会ってもらいたいから…」

彼の顎に、わたしはこつんと自分から額を押し当てた。

「ああ、それは約束する」

また彼はわたしにささやいた「大丈夫か?」と。

大丈夫なのか、そうでないのか、自分にもわからない。もしかしたら、わたしは怖いのかもしれない、逃げなのかもしれない。父の死にまともに向き合うことが。

大丈夫ではないと告げたら、中尉はわたしをもっと長く抱いていてくれるのだろうか、「惚れている」と、もう一度言ってくれるのだろうか。「文緒だけだ」と。

彼の腕の中で、心はうろうろと彼への思いをねだっている。

自分を親不孝だと思った。

父を失った心の痛手やその悲しみに浸る母のことは、このとき頭にない。今、わたしはただの女として彼の腕にあるのだ。

自分を残酷だと思った。

彼への恋は、一途に傾き、わたしをこの刹那に溺れさせる。

「考えられない、今は霧野様のことしか…。ひどいでしょう? 嫌らしいでしょう?」

彼の腕がまたわたしを包んだ。そのきつい腕の力に、胸が押され、一瞬息ができなかった。「ひどくなんかない」とかすれた声が耳に届く。

 

「それでいい。俺も、あんたしか見えてない」

 

抱きしめられたまま、口づけを受けた。

父の死から三日目。わたしはその父に愛しんで育まれた屋敷の中で、葬儀の晩に彼の抱擁を受けている。父の死に、悲しみに我を忘れた母が眠るその傍で。

疚しさが、ないとは言えない。ちくんと疼くような痛みが胸に残る。

けれども、

けれども、重なる唇の熱と、深くなる口づけの甘さに、わたしは夢へ浸り、逃げるように瞳を閉じるのだ。

うたかたの闇、何もかも忘れ、彼だけを求めて。




          


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