蝉の声がうるさくて、君に見惚れていたことにする
祈るひと(14

 

 

 

霧野中尉の指が、わたしの頬にかかる髪を、耳へかきやった。くすぐったくも甘いその感覚に、気持ちがすっかり彼へと傾いでいくのを感じた。

馬鹿みたいに、このまま抱いてどこかへ連れ去ってほしいようにも思うのだ。

馬鹿みたいに。

やや離れた唇が再び重なった。彼のくれる口づけは、わたしがそれを知らずにいた頃、おぼろに描いていたものとは違い、つきんと胸を刺すように生々しい。

図々しいほどにあっけなく奪い、果実を噛むように、柔らかに貪る。幾日もその余韻を瞳に浮かばせるほどに。

かちり、と歯のぶつかる音。それはごく至近では、小鳥の足音に聞こえた。絡めた指が、いつしかじっとりと汗にぬれている。

そのとき、近くで小石を履物が踏みつけるような音が聞こえた。その音に、わたしは閉じていた瞳を開けた。とっさに、中尉の腕をやんわり押しのける。

彼も音に気づいたのか、背後を振り返った。

月明かりがぼんやりと照らす中、中庭へ通じる木戸の隅っこに白いものが目に入った。一瞬でそれが誰か女の足先だとわかり、それに続き蔦柄の袖も見て取れる。

「あ」

中尉のちょっと気まずげな声に、女が咳払いで返した。

「おしまいまで、お待ちしようかと思ったんですよ…。お構いなく。あ、あたしは今来たところですから、今」

その声に、おみつであると知れた。わたしは恥ずかしさで、思わず袖で顔を覆った。中尉を引き入れたのは、おみつだったのだ。思いのほか長く、戸締りの件で様子をうかがいに来たのだろう。

けれども、「今来た」というのは疑わしい。

「人前でできるか」

苦笑混じりに彼が言い、ちょっとだけ手を握る。

「じゃあな、…また今度」

「…うん……」

わたしはろくな返事も返せず、身を翻した彼の背を、見送った。

おみつに逢瀬が知られたことで、身体中が今更に火照った。よりによって、あんなところを。

硝子戸を開けたまま、どこか惚けた気分で涼んでいると、ほどなく戸締りを終えたおみつが、用もないだろうに戻ってきた。

声をひそめ、中尉を家の外まで見送ったと告げる。わたしはそれにも声を返さなかった。

「ふふ、霧野様は情熱的な方なんですねえ、文緒お嬢さん。熱烈な接吻でしたから。あたしまであてられて、何だかのぼせてしまいましたよ」

「おみつ」

「わかっていますって。あたしはお嬢さんのお味方ですから。誰にも言いやしませんって。特にお内儀さんには」

「もう…。早く下がりなさい」

わたしは、彼女のにやにやと緩んだ頬を見るのが堪らなくなり、ぷいと自室に引き上げた。

暗い中、一人になれば、今更に彼の腕の力が思い出された。口づけも、そのときの煙草の匂いも。離れた今、鮮やかに甦ってくる。胸がときめいて、高鳴っている。

眠られず、布団の上に横様に座る。割れた裾から出る膝頭を何となく指でなぞる。

「恭介様…」

帰らない呼びかけは、か細く、すぐに闇に溶けて消えた。

 

あの人が好き。

どうしても、好き……。

 

居間の時計が鳴った。夜十時を告げるもの。

その音に、母の様子をうかがいに行こうかと、腰を上げようとしたが、膝に力が入らない。

母の顔を、今、わたしはとても見られない。

時計の音は、いつもより長く続くかに思え、わたしは何とはなしに、目を閉じてそれをやり過ごした。

もう少し後で、手洗いのとき、母の部屋をのぞこう。言い訳めいたことを、一人思う。

 

あ。

 

彼の面影を辿りながら、どこからかふと浮かぶ心細さに、わたしは昂ぶりを冷やされた。

どこかでわたしは、知っていたはず。

考えていたはずだ。いつか母が諭したように、わたしの背負うものと彼を囲む環境の大きな差異に、わたしは気づいていた。

それを恋のきらめきに紛らせて、見ないようにそう過ごしてきた。耳に入ったそれへも、ただ自分の思いの正しさを振りかざし、聞こえない振りをし続けた。

父が、何とかしてくれるのではないか。一人娘に甘い父が、ねだれば中尉への思いを認め、彼との隔たりを埋めるよう、計らってくれるのではないか。そして、母も父に倣いいつかは折れ、わたしの我がままを許してくれるだろう……。

わたしはそんな風に、彼とのこれからを曖昧に依存した視線で捉えていたのだ。自分さえ願い、思い続けていれば、彼との未来は叶うのだ、と。

けれど、父は亡い。母はそれを悲しみ、別人のように虚脱している。店は、家はどうなってしまうのか……。

何もかも、これまでとは違う。変わってしまうだろう。

母と二人、家を守り続けていかねばならない。商家の家付き娘という、わたしの生まれ持っての看板は、別な物に塗り変わってしまったのではないか。

父という大きな庇護を失ったことで、背負う看板は、より肌に密着するように、よりきつく縛られでもするような、やや息苦しいような心地がする。

それら変化を前に、自分のこれまで持っていた考えは、ひどく甘いものだと知る。現実味のない、他愛のないものに感じられるのだ。

そして、そのことに、こんなときに気づき、ふと不安になる。まるで、知らない場所にいきなり立たされたかのように、肌合いの違うまわりの様子に、心が震えた。

まだ腕に頬に、髪に唇に、彼の残した気配はこんなにも鮮やかで、生々しいのに。

 

 

重苦しいほどの暑さが数日続き、母が床を払ったのが、父の葬儀より五日ほど後のこと。

やはり寂しげで頼りなげな様子は変わらないものの、一時の憔悴のような影は、頬から随分薄らいだ。暑さに食は進まないようでも、父のない今、主としての気が張り、母なりにそれが力にも励みにもなるのかもしれない。

その母の決断で、店は閉めることになった。現在注文のある品についてのみ取り扱いをし、それが済めば、成田屋の暖簾は下ろすことになる。

張り紙をした表戸から入るのは、お客ではなく、取引先ばかりだ。大阪より荷を届けに来た染め物屋も、ひとしきり父の悔やみを述べた後には、母の決断を惜しみながらも褒めた。

「上方では、米の相場が、もうびっくりするぐらい上がりましたんや。町の様子も、なんやぴりぴりして物騒な感じだっせ。あれでは気の毒に、米にありつけん衆も、大勢おまっしゃろう。うちも、こりゃ下手したらじき商売に触るんやないかと、心配してまんね」

わたしは冷茶を運び、母の傍で染め物屋の話を聞いていた。

遠い大阪の気配によく理解が及ばないものの、日露戦争から好景気が続いたといわれるここ十年とは、また違った風が吹き始めるのではないかと、うっすらと感じた。

「難しいことですわねえ」

「旦那さんが亡うならはったお後は、すっぱりお辞めになって、大正解やと思いますわ。こんなことわしが言うのも口幅ったいですけども、こちらは大層な身上がおありやさかい、ご寮人さんも嬢さんも、お楽にしてはったらよろしいですがな」

染め物屋の言葉は、母に案外嬉しく響いたらしい。昼下がり、ビスケットをお茶うけにつまみながら、ちょっと微笑みながらもらした。

「お母さんは、楽をしたくて店を閉めたんじゃないのよ。お父さんの真似をして、無理をしたくなかったのよ。そんな才覚もないのに…、せっかく残してもらった家もお金も、減らすのは申し訳なくてね」

「どうするの? これから」

問いながらわかっていた。母には、これから先何かをしようという気などないことを。父の遺産を大事に切り崩しながら、未亡人として暮らす以外、念頭になさそうだ。

それはきっと正しくて、無理のない、母らしい選択だ。わたしに文句などない。わたしがそれに従い、母の傍で生きるのは一人娘として自明のことだった。

母は問いに答えず、代わりに隣町の米問屋の山本屋の名を出すから、てっきり染め物屋の言った米相場の話だと思った。

「あのお家は、唸るほど資産があるって、お父さんが言っていたじゃない。どんなに相場が上がっても、きっと家族の人たちは大丈夫よ」

「淳平さんがね、来月にも大阪を引き払って帰ってくるらしいのよ。お勤めの新聞社が、東京にも支社をつくるとかで」

「ふうん」

「縁談の件、そろそろいいお返事しない? 滅多とないお話よ。うちはもう店も閉めて、お父さんの跡取りは要らないのだから、お勤めの人でも構わないでしょ。奥さんが言うには月給は少ないらしいけど、構うことないわ。淳平さんのお小遣いにしてもらえばいいじゃない」

「嫌」

淳平さんにはいい思い出がない。霧野中尉の存在がなくても、あの淳平さんと夫婦になるなど、考えたくもない。妻が風邪に洟をかんだとしても、思いやりなく毛嫌いし、ふいっとそっぽを向く人だ。

「お断りしてって、言ってあったじゃない」

「中で一番いいお話だから、もったいないでしょう」

母はわたしの不機嫌に構わず、指を折って他の縁談の数を数えている。「議員の息子さんに、帝大の先生、○×屋の御曹司、銀行家の次男に、そうそう、珍しいのに、外遊帰りのお医者さまもあったわ」と。

「ご両親も知った仲だし、あんただって妹の聡子ちゃんと仲良しでしょ。そんな膨れるほど悪いお話じゃないわよ。親戚づき合いもきっと楽よ」

「嫌」

知っているくせに。

わたしが誰を胸に置いているのか。誰に焦がれているか、誰との将来を思い描いているのか、母は間違いなく知っているのに。

わたしは知らん顔で、開け放した襖から庭を眺めた。その横を向いた頬に、母の声がつぶてのようにぶつかってくる。

「霧野様は駄目よ」

「どうして駄目なの? 淳平さんと同じお勤めの人よ。今陸大に入っていらっしゃるの、きっとご立派に出世なさるわ。大将とか、中将とか、閣下と呼ばれるような人になるわ」

「駄目よ」

いつになく母の声は硬く、わたしはその声に、何か含んだものがあるのでは、と瞳を母の顔へ戻した。

母は、皿の上で固いビスケットを割り割り、話し出した。以前父が彼との縁組を本気で言い始めた際、身辺や家柄を正式に人を使い調べてもらったのだという。

「何があるの?」

「霧野様のお母上、箱根に療養していらっしゃるって、いつか我が家にいらしたときおっしゃっていたでしょう。覚えている? あんた」

「ええ」

母の話がどこへ向かうのか検討もつかず、ビスケットを割るその指に触れた。母の指はビスケットの油脂でぬるりとしていた。

瞳を皿へ落としていた母が、不意にわたしを見た。「ごめんね」と小さく言う。

「霧野様のお母上ね、精神に触るご病気なのだって。もう何年も。これでは、もう話の進めようがないでしょう? お父さんもちょっと渋い顔をしていたわ」

わたしは意外な事実に言葉を失った。母の指を離し、自分の唇へ持っていく。

お母上のご病気は、婦人特有のものか結核なのではないかと、勝手に思い込んでいた。そういった病を抱えた人の多くが、転地療養をするからだ。

どうしよう。

ふと泣き出しそうになった。次彼に会うとき、わたしはどんな顔ができるだろう。痛ましくて、いきなり泣き出してしまうかもしれない。

けれど、どうして泣いてはいけないのか。泣いてもいいではないか。指を絡めてあげればいい。文緒は一緒だと、離れないと、言葉でなく伝えればいいではないか……。

「何がいけないの? 不幸なご病気に罹られただけの話よ。何が…」

首を振りながらのわたしの抗弁を、母はやんわりとした厳しさで封じる。

「あんたはよくても、子供はどうなるの? そのまた子供は?」

軍人さんが気に入らなくっても、お金がなくたっても、たとえご出世もしなくなって構わない。幾らでもお世話して差し上げられる。文緒がそれほど思い焦がれた方なら、お母さんも認めてあげたい。

「でも…」

それ以上を言いよどむ母の顔から目を背け、わたしは涙ににじんでいく瞳をさまよわせた。鴨居に載せた父の写真が目に入る。涙にぼやけ、変に歪んで見えた。

 

変えられない。

 

母の涙にも、父のためらいにも。

もう、ぎりぎりの淵まで、わたしの思いは泳いできてしまっている。あの人以外は、駄目なのだ。要らないのだ。

わたしは浴衣の袖で涙を拭い、立ち上がった。母には、刺繍をすると告げ、居間を出た。

中庭に、花の少なくなる夏の今も、遅咲きの野薔薇が幾輪か見える。松の木しか我が家にないのに、蝉の声がしゃわしゃわと届き、耳に騒がしい。

自室に戻り、道具箱から針を持つ。緑の小鳥を仕上げていきながら、一心に思うのは、やはり彼のことだ。

母の告白は、確かに衝撃だった。まったく不意うちに、目の前でぱちんと指を鳴らされたような気がした。

けれども、思いが辿るのは、別のこと。

いつかの夜会の晩、帰りにわたしをおぶってくれた彼が言った言葉が、こんなとき胸に甦る。たくさん交わした会話の中で、とりわけ印象に残ったのだろう。おそらく間違わず、一字一句それをわたしは覚えている。

あれは、資産家の息子との縁談が持ち上がっていることを、甘えた気持ちで彼へ告げたときだった。

「止めておけ」と、あっさりとそれを彼は一蹴し、こんな言葉をくれた。

『自分の食い扶持の心配をしないで済む人間は、どこかで脆い』と、彼は言い切った。

彼はきっと、それとは真逆に生きてきたはず。それが言外にうかがえる言葉だった。

今立つ位置と、そのちょっと先をぶれずに見つめながら、出来ることをいつも考え、甘えずに、依存せず、自分の力で歩いてきたのだ。

それは、中尉の妹御もわたしには同じに思える。誰のために、何が今出来るかを考え、そのために容赦なく自分を捨て去れる人なのだろう。

こんなところにも、兄妹の相似を見つけた。

そんな二人をまぶしいと思い、その二人の生き方を、わたしはこのとき、しっくりと心に受け入れたような気がする。翻っての、自分の幼さ弱さが思い知らされ、至らなさが、汗のようにふき出してくるのだ。

 

ためらってばかりではいけない。

すがってばかりいてはいけない。

 

彼らの大人として完成した強さに、自分にないものへの憧れと、またそれへの微かな妬みのようなものさえ胸にふっと浮き立つ。

 

好きなだけでは、いけないと思った。

それだけでは、きっと彼に届かない。




          


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