肝心なときにどうにもならない僕の性分
祈るひと(15

 

 

 

霧野中尉が我が家を訪れたのは、父の死から十日以上も後のことになった。お盆を前の夏季休暇がいただけたらしい。

白いシャツに薄灰色の上下姿で、上着は袖を通さず、手に提げていた。軍服姿以外の彼を見るのはひどく新鮮で、わたしは、ちょっと久し振りになる彼に、もじもじとしながら仏前へ案内をした。

風を通した仏間は、午後の日盛りにも涼しい。母は、彼のお参りの後で、こちらへお茶を運ばせた。

「随分と静かですね」

中尉は煙草に火をつけながら、瞳をちょっと泳がせ、そんなことを言った。彼が知る我が家は、奥内とはいえ表の店の気配が絶えない、商家らしい騒がしさがあったはず。

父の死の後あらかた店を閉め、奉公人の多くを解雇してしまった今は、その頃に比べれば、変に静かで落ち着かないほどだ。

「ええ。文緒とも、気持ちが悪いくらいだって、いつも言っているんですよ」

母は彼の言葉に頷いた。

店を閉める経緯や、成田屋の暖簾を大番頭に分けてやる算段のこと、それらを彼へ話す母の口調は、これまでとほぼ変わらない、落ち着いたものだ。

細々した決め事や人に会うこともあり、静かな中のその雑事のざわめきは、母にはかえって、床に伏しているより薬になったのかもしれない。

「休暇には、これからご実家に?」

母の問いに、彼は煙草の煙がしみるのか、わずかに目を細めた。軽く首を振り、

「実家は無人です。箱根の母の様子を見がてら、妹の許へ厄介になります。紫が、避暑で今あちらに移っているので」

彼はこの後で、汽車に乗るといった。そうけろりと言うくせに、何の旅支度もない。「紫が手ぶらで」と言ったというが、本当に手ぶらで行く人はいないだろうに。

おかしいような、あきれたような気分で、わたしは彼を眺めた。

「何がおかしい?」

含み笑いをするわたしへ、小首を傾げるのだ。

母も「あら」とでも思ったのか、わたしと目が合えば、ちょっと笑う。おかしいのだろう。

不意に腰を上げ、女中を呼んだ。廊下から台所へ行く気配で、彼のため車内で使うお弁当でも作らせる心配りなのだろうと知れる。

母らしい優しさだと思った。わたしの中尉への恋を歓迎できない母の立場と、旅に出る彼へ振る舞う親切は、母の中に別種にきちんと存在する。

わたしであれば、どうであろう、と思う。おそらく、物事の負と加をいっしょくたにし、浮かんだ思いやりもうやむやにしてしまうだろう。

すぐに母は戻った。

「文緒が、霧野様に、と浴衣を縫ったんですよ。仕上げを見ましたけど、いい出来ですから、あちらで袖を通してやって下さいな」

母の言葉に、「あ」と、わたしは腰を上げた。電話で、今日の午後にやって来ると知らせがあって以来、会えるのが楽しみで、浴衣のことをすっかり忘れてしまっていた。

ばたばたと自室へ戻り、それらしく新しい風呂敷に包んだ藍の浴衣を胸に抱いた。

廊下を仏間へ戻りながら、ある考えに、うきうきと踊った気持ちが不意に萎えた。彼がこれを着れば、それを目するかもしれない妹御は、何か思うだろうか。不快に感じはしないだろうか。

彼女とは夜会で会った後に、茶会のお誘いがあった。母の風邪で失礼したが、その際、わたしは丁重なお礼と詫びの手紙を返したのに、無視したかのように何の返事もなかった。

忙しいだけなのだろうし、忘れていたのかもしれない。返事に返事を返すことを、愚かしいと思う性質なのかもしれない……。

けれども、わたしならきっと返すだろう。封書を短い葉書にでも代え、きっと返す。

何が気に入らないのだろうか……。

気にしないでおこうと、幾度も出しては引っ込めた濁った思いがまた、こんなとき顔を出す。

「構わない」

小さくつぶやいた。

いいのだ、たとえ彼女によく思われていなかろうが、気に入られていなかろうが。遠慮などしないで、わたしはわたしの思いのままで、彼に寄り添っていたい。

どこか虚勢の混じる心の声で、細かな不安を吹きやった。

 

仏間の前で、声が聞こえた。言葉に、浴衣を持つ手がびくっと震えた。

「お母上は、まだお若いでしょうに…」

 

あ。

 

母と中尉は、彼の母上のことを話していた。

一瞬迷ったが、部屋に入った。普段になく、敷居を裸足のかかとが踏んだ。

母が、彼の帰り際ではなく、今わたしに浴衣を取りに中座させたのは、このことをひっそり持ち出す心積もりだったのではないか。

何となく、さっきとは違い、わたしは彼のすぐ隣りに座った。彼はそれに何も応ぜず、母が問うたのだろう答えを返していた。

妹御が家を出た後、母上のご様子が変わってしまわれたこと。転地療養がいいと聞き、妹御が久我子爵の計らいを得て、今の静養先に落ち着いたこと……。

わたしは彼の淡々とした声を傍で聞きながら、涙が浮かんだ。そのにじんだ瞳で母を睨んだ。まだ語尾を言い切らない彼の話を遮り、

「訊かなくたっていいでしょう」

声を荒げるわたしを、母が静かな声でいさめた。「文緒」と。

「調べたくせに、どうしてまた霧野様に訊いたりするの?」

「文緒」

「ひどいわ」

わたしは浴衣の風呂敷を抱きしめ、いやいやするように身を振った。それで涙が瞳をあふれ、頬を伝った。母の振る舞いが、いやらしく底意地の悪いものに思えてならなかった。

「お母さん、ひどいわ」

「文緒」

今度は彼の声だった。涙の頬を彼は指の背でちょんと叩き、

「当たり前だ。俺があんたの親父さんでも訊く」

「え」

笑みを含んだ母のため息が聞こえる。彼へ目を向ければ、ごく何気ない表情で、わたしを見ている。

「泣くな。下らんことで」

どこかで、いつか聞いた言葉だ。彼はときに、わたしの柔らかな真心を、あっけなくなぶる。まるで、ぴんと指先で弾いて見せるように。

ちっとも下らなくないのに。あなたのために涙が止まらないのに。

「その…、妹御の件で、お武家の、お家柄がお家柄だけに、ひどくご心痛になられたんでしょうね。深入りしたことをお聞きして、ごめんなさい。文緒が霧野様に夢中になっているようだから、こちらも詮索してしまって…」

母の詫びと下げた頭を、彼は軽く、「上げてください。単なる確認で、ごく尋常なことです」と受けた。

彼はわたしへ目を戻し、「隠していた訳じゃないが、言いたい話でもなかった」と、前置きをし、言葉をつなぐ。

「母親は、惚けてから長いんだ。まだ老人という歳でもないが、紫が今の境遇になってから急に…」

母の足が畳を擦る音が耳に入った。立ち上がり、廊下を出る。

「子供みたいなもんだ。一人じゃ何にもできん。今は、世話人が何人か付いて、日常を診てもらっている」

ほんのたまさかに、彼が打ち明けてくれるその身の上話には、わたしの言葉を失わせるものがあって、このときも、わたしは彼の言葉を頷きもせず聞き、ただ、意味もなく胡坐をかいた彼の膝に指を重ねた。

彼はわたしが置いた指に、煙草を挟む手を触れさせ、灰が長くなるまで黙ってそうしていた。

頬の涙が乾いていくのを感じた。浴衣の袖で、涙の残りを仕舞いながら、語らない彼の声を聞いたような気がする。

妹御は、自分を責めているだろう。

そして彼も、呵責を感じているのだろう。

わたしには、何も言う権利も、また義務もない。

母の戻る足音に、わたしは胸の風呂敷を解いた。彼にほんの少し柄を見せ、また仕舞う。母は手に、まだ新しい革の旅行かばんを提げていた。父のものだった記憶がある。

「この銘柄、お吸いになる?」

かばんの他に、母は腕に細長の箱を持っている。それは煙草だった。

「残ってしまって。このまま置いておくと駄目になるでしょう。あの人も霧野様に始末してもらったら、喜びますから」

「ありがとうございます」

貧乏ったれの彼が、煙草の銘柄など気にする訳がない。ふと、戦地で隆一が残した日記の一節を思い出した。

隆一は、駄目にしてしまったと言う上官の彼へ、自分の煙草を分けてやったという。父もまた、自分の死の後で、彼へ煙草を遺していった……。

それは単なる偶然なのだろうけれど、このときわたしは、そこに不思議なつながりの輪を感じていた。

そのつながりの輪のどの部分に、わたしは位置するのだろう。そんなことを思う。

母は、わたしの手から浴衣の包みを取り、それを煙草と一緒にかばんに詰めた。

そこへお常が弁当の包みを持ってやって来る。それも母はかばんへ詰めた。何も持たず手ぶらでやって来たくせに、彼にはこれでちょっとした旅支度が出来上がってしまっている。

散々心配をしただろうに、父が亡い後で、悩みも多いだろうに。心の奥では望まない彼へ向ける、わたしのための母の惜しまない優しさが嬉しかった。

 

 

夕暮れにも早い時刻、彼を停車場まで送ると、わたしも家を出た。

道にはゆらりと陽炎がたゆたう、暑い午後だ。雨でも降ってくれないかと、日傘をずらし空を仰ぐが、真っ青な空には雲一つない。

「ごめんなさい、母がお母上のことを持ち出したりして…。気を悪くなさらない?」

「いや」

彼は、短く答えた。ちりんちりんとベルを鳴らし、背後から自転車がやって来る。彼は、勢いのついたそれからわたしの手を引き、かばってくれた。

行き過ぎる自転車の後姿に、微かな見覚えを感じたため、「ありがとう」を言いそびれてしまった。

「おふくろさん、あんたが俺に夢中になっているって、心配してたな」

「え」

母がそんなことを言った気がするが、よく覚えていない。彼の声がからかうようなおかしがっている響きを含んでいて、わたしは恥ずかしさにそっぽを向いた。

嫌な人、面白がって。

「娘に近寄る男がいれば、大抵の親は心配する。娘が男にのぼせていれば尚更だ。幾度か調べるくらいはする」

のぼせている、のくだりに文句を言いかけたが、彼の言葉の語尾にそれを引っ込めた。彼は、「幾度か調べる」と口にした。

「一度ではないの?」

「屋敷に知らない男を居候させるんだ、そりゃ調べるだろう。あんたの親父さんは、義侠心もあれば親切だが、決して抜けていない。娘のそばに寄せる男の下調べくらい当たり前にやる」

彼はそこで、小石をぽんと蹴った。素足に涼しげな下駄履きで、鼻緒が新しく美しいのは最前、これも母が父の新品を差し出したからだ。

彼はそれを、小兵衛という、いつか我が家に来たあの霧野家の爺やから耳にしたのだと言う。

そんなすぐ彼に知られるような、身辺調査をするなんて、とわたしは父も母もちょっとだけ憎く感じた。

「知られても構わないんだ。それで、俺にやましいことがあれば出て行くだろうと、見越していたんだろう、親父さんは」

「いやらしいわ」

「いやらしくない。用心だ。誰だって、たとえば家を買うときは、下見くらいするだろう? それと同じだ」

彼はわたしの額を、指の背でぽんと叩いた。

「男の係累に異常があると知れば、どんな親でも腰が引ける。何もかも、あんたが可愛いからだ。馬鹿みたいに膨れて、恨んだりするな。罰が当たるぞ」

あまりな言葉にちょっと絶句した。

「文緒は馬鹿ですもの。霧野様みたいに学がないのですから。馬鹿でしょうがないでしょう?」

「そういうのを、馬鹿というんだ」

「まあ」

膨れて、何か言い返してやろうとしたとき、前から自転車がこちらにやって来るのが見えた。それは、先ほど行き過ぎた自転車の人物だった。その後姿に、わたしは見覚えがあるのを感じたが、今はっきり顔を見て、山本屋の淳平さんと気づいた。

行き過ぎてから、間がない。戻ってきたのだろうか。

淳平さんは自転車に乗ったまま、わたしの前で止まった。彼は父の葬儀に顔を出してくれたように覚えている。

開襟シャツからのぞく胸元も、腕も冬のように白い。中尉のやや焼けた肌に見慣れているせいか、すごく奇異に見えた。手首には、舶来物らしい銀の豪華な時計があった。

淳平さんは、父への悔やみの言葉をくれた後、中尉に顔を向けた。「ああ」という、ちょっとどこか侮る声を出し、

「成田屋の居候だった軍人さんですね。妹から聞いて、僕も知っていますよ」

中尉は返す言葉も思いつかないのか、わたしを見た。「この方の妹さんと、幼馴染で仲がいいの」

「ひどいな文緒さん、許婚じゃあないですか、僕たちは」

呆れた声を出すから、わたしの方が呆れてしまった。この人は、わたしにした紳士的ではない振る舞いを覚えていないのだろうか。

最前、中尉は親を恨むなと叱ったが、縁談の返事をずるずると引き延ばした母が、やっぱりちょっと恨めしい。

ここできっぱり断りを言ってやろうと思ったが、さすがに彼の面子もあろうと堪えた。縁談の返事は仲人を通すものと、うるさいしきたりがある。

その代わり、「急ぎますから」と中尉の腕を取り、引いて見せた。

歩を進めかけたとき、また、淳平さんの意気込んだ声がした。

それは霧野中尉へのものだった。

「軍人さん。今度、僕は、従軍記者に志願しようと決めているんですよ。危険な任務ですが、これも国民に真実を報道する、記者としての責務だと心得ているんで」

「止めた方がいい」

彼はかばんを提げた方の手を上げ、ちょっと頭をかいた。かきながら、

「知った記者が、シナの戦地で死にましたよ。水が合わなかったらしくて。医者も不足してるから、ひどい苦しみようでした。衛生の絡みで、遺体はその場で骨にされましたね」

言い終わると、彼はわたしの背を押して歩を促した。

淳平さんと別れ、しばらく行ったところで、中尉に訊いた。「本当の話?」と。彼へ含みを持った、淳平さんの毒気を抜くつもりで口にした、作り話に聞こえたのだ。

「事実だ」

と告げるから、わたしはまた言葉を失ってしまう。

「あれか? 縁談の相手っていうのは」

「…母がまだきちんとお断りしていなかったの。それだけ」

彼はそこで、なぜかおかしそうに笑った。何がおかしいのか訊ねても、肩を揺らして笑うばかりだ。

しまいに、

「俺の方が、まだマシだな。親父さんもそう言うだろう」

「うん…」

はにかみながら、わたしは頷いた。なるほど淳平さんは、きれいに髪も整え、手首には豪奢な腕時計もあった。身なりに十分構った、人の目を引く裕福で洗練された青年に間違いない。

けれども、

わたしは、となりの中尉を、日傘の影から見上げてみる。父のお下がりのかばんに、その下駄。洗ったなりをそのままにしたようなさらりと無造作な髪、日に焼けた腕、わたしへ斜に落とす瞳の加減、そのそばにあるいつかの傷痕……、

ひととき、目が離せないほどに、彼のすべてが、わたしにはまばゆく凛々しく映るのだ。

「ずるい」

ふとつぶやいた言葉。それに、彼が視線を向けた。

「あ?」

嫌な反問。

けれども、それに頬を膨らませる気が起こらない。少しよろけた振りで、彼へ身を傾げて見せた。

 

ほどなく、「ここまででいい」と告げた。停車場までまだ一キロほどもあるのに、と返せば、

「送れないから」

と言う。

午後の暑い盛りが過ぎ、人の出が増えている。そばのミルクホールも混雑しているようだ。

別れ際、わたしの目を真っ直ぐに見て彼が言った。

「すぐにもらってやれない。待たせることになる、それでもいいか?」

突然の言葉に、わたしはまた声を失ってしまう。

こんな人の多い往来で、こんな大事なことを、別れの間際に言うなんて。

ぶつけたい文句は幾つも見つかる。けれども、言葉の嬉しさに心が跳ね、わたしを彼への思いで、いっぱいにしてしまうのだ。

「待つわ」

それに彼はちょっと頷いただけ。ほのかに笑みに緩んだ唇が、「わかった」とわずかに動くのが読めた。

「じゃあな」

と素っ気なく、あっけなく、彼はそれで背を向ける。

わたしは白いシャツの彼の背が、通りの角を折れて見えなくなるまで、見送った。何気なく、指を置いたパーラーの鉄の看板が、太陽の熱に焼けるように熱く、それで指を焼いた。

痛む指を冷たい唇に触れさせ、消えた彼の背を、まだわたしは見送り続けている。




          


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