夕暮れの街を駆け抜ける影法師
祈るひと(16
 
 
 
夕暮れに向かう夏の街は、日差しの暑さが一段落した代わりに、昼に溜められた地熱がもやもやと湧き上がるような、足元から来る暑さを感じた。
その中を、わたしは履きなれた草履履きで歩く。薄水色の浴衣の袖を、歩に連れ何となく振るのは、気持ちが浮き立っているからだ。
知った慣れた道でもあり、滅多とない一人歩きであることも、気にならなかった。
耳に、まだ霧野中尉のくれた言葉が、しっかりと残り、それは繰り返すように、うろうろとしている。
胸が、その声に高鳴ってときめくのだ。頬が知らず火照り、振った袖先で、熱いそれをときに押さえた。
家の界隈までもうほんの少しばかりに来たとき、自転車でサイダーを売る男がそばを通った。荷台に積んだバケツに何本もの瓶を冷やし売って歩いている。
気紛れに一本求め、思いのほか冷えたそれを手に提げた。
家も近いのに、こんなものを一人で買ったのは、多分まだ家に入りたくないからだろう、との本音がある。夕暮れが迫り、薄暗いあの屋敷内にいたくないのだ。母にあれこれと話しかけられるのも、このときは面倒に思えた。
ふと、わたしの足は真っ直ぐ家に向かわず、通りを折れ、彷徨うように歩き、しばらくして石の塀が囲む神社へと向いた。界隈の男の子たちが遊ぶ場所だが、日暮れが近いのか、そのにぎやかな声がしなかった。蝉の声ばかりがする。
梢に遮られ、ほどよく冷えた境内を、わたしは砂利を踏みながら歩いた。掃除に出た人の姿があるが、すぐに消えた。小さな子供を連れた若い母親が一組、お参りをして帰っていく。
わたしは腰掛に置かれた岩に腰を下ろし、少しぬるまったサイダーを開けた。手を振って歩いたせいで、瓶から炭酸がわっとあふれそうになり、慌てて唇に当てた。
すぐにあらかた飲んでしまう。
足をぶらぶらとさせ、その動きで脛があらわになるが、気にならなかった。誰も見ていない。木々を通って風が吹き、葉の匂いのする心地よい風に、気分が落ち着いた。
しばらくぼんやりと、風に当たり、とりとめもないことを思い巡らす。
ぬっと、いきなり自分のすぐ隣りに、大きな影ができたことにぎょっとなり、わたしは手の瓶を取り落とした。
瓶を拾い上げ、足元に置き直したのは、山本屋の淳平さんだった。
どうして彼がこんなところにいるのか、まったくわからない。中尉からの告白に胸をときめかせた、楽しげな気分もどこかに消え、わたしは、無言でこちらを見つめる彼を、訝った。
「笑っていたでしょう? あの軍人」
「え」
「僕を、笑ったじゃないか」
その言葉に、わたしは、自分がここまで彼につけられていたのだと知った。
怒りを込めたその声に、わたしは返事をできなかった。彼と別れた後で、中尉がその様子を笑ったのは確かだ。何かがよほどおかしかったのか、肩を揺らして笑っていた。
多分、中尉には、堪らなく浅はかに感じる淳平さんの言葉が、面白かったのだろう。
「君も、笑っていただろう」
「え」
笑ってなどいない。あのときは、淳平さんを迷惑に思っただけだ。微笑みはしたかもしれないが、それは中尉のそばにいられることが嬉しかっただけ。
半袖のシャツから伸びた彼の腕が、握りしめたこぶしにより、細く白いなりにも筋肉が盛り上がる。それを見て、怖いと思った。離れなくてはいけないと思った。この人と、長く二人きりでいたことなどない。
「笑ってなんて、いないわ。あなたの誤解です」
「謝れば、許してやる。さあ、謝れ」
「何を…、馬鹿な」
立ち上がったわたしの両肩を、彼の腕がいきなり押さえた。その力に上げた腰が、荒く岩に落ちる。お尻の肉の薄いところをそれで打ち、鈍く痛んだ。
「生意気じゃないか、嫁になる分際で」
ここにきて、普段の遠慮も慎ましさも、忘れた。目の前のこの彼から離れたく、わたしはあなたとは結婚などしない、絶対しない、と声を荒げて告げた。
「どいて頂戴。人を呼びますよ」
毅然と言ったつもりだった。夕暮れとはいえ、闇夜ではない、人の通りもあるのだ。ここでわたしが大声で叫べば、彼はひどく困ることになる。
それに返しはなく、風に乗って、彼の使う物だろうオーデ・コロンの匂いがふわりと飛んできた。汗に混じるその匂いは、きつくはなかったが、わたしには胸の悪くなるような不快さがあった。
再び立ち上がったわたしの、今度は手首を彼はつかんだ。恐怖を覚え、悲鳴を上げるその口を、片方の手のひらが押さえた。
「笑ったな、僕を…、あの男と一緒に」
激しく首を振り抗うが、痣になるだろうくらいに、かかる力は強かった。それに攻しようと、わたしは彼の指の腹を思い切り噛んだ。それに指が離れ、身を振りほどこうとしたとき、頬を打たれた。
思いがけない仕打ちに、口の中が切れた。出来事に、呆然ともなる。
「僕の嫁になる女のくせに」
淳平さんは、まだそんなことを言いながら、わたしを地面に引き倒した。背を強く地面が打った。
また口を手で塞がれ、声が出ない。身動きをとろうにも、身体にのしかかる彼の重さに、自由が利かないのだ。
自分が何をされようとしているのか、はっきりとわかる。恐ろしさと悔しさ、怒りが交じり合い、それが涙になってあふれ出た。
もう一度、彼の指を食いちぎるかの勢いで噛んだ。それに一時手は離れたが、両の頬を力任せに張られた。再び封じるように、打った手のひらが口を覆うのだ。
「僕のものになれば、結婚しないなど、そんなわがままは言えっこないんだからな。お願いしますと、もらって下さいと、君の方から頼むことになるんだからな」
浴衣の胸がはだかれ、下着がのぞくのが自分にも知れた。こんな人に操を、と思うと死んでしまいたくなる。
わたしは必至に手のひらで、地面に転がる物を探った。石があればいい。それで彼の背でも、顔でも、頭でも殴ってやるつもりだった。
小さく尖った石を手がつかんだとき、砂利を踏む足音が聞こえた。それはこちらに足早にやって来る。
助かった、と思うのと同時に、男の足が、淳平さんの脇腹を蹴り飛ばすのが目に入った。「ぐあっ」といううめき声がして、彼がわたしを離れ、地面を転がる。わたしは自由になった。
不意の攻撃に、あんな乱暴を働こうとした人であるのに、淳平さんは、きょとんとした顔で辺りを見ている。ふっと魔が抜けたような、まるで正気に戻ったような、ちょっとだけ虚脱した風な顔をしているのだ。
「何してやがんだ、馬鹿野郎」
男は淳平さんの目の高さに屈み、シャツの胸をぐらをつかんだ。
「名前は? ついでに住所も言え」
突然のことに、淳平さんは抗いもせず、もじもじとした声で姓名を名乗った。
「あの米問屋の山本屋か、…へえ、そりゃ大したお財閥様だ。ふうん、おい、いい時計してるじゃねえか」
「あの、家には…」
今頃うろたえた声を出しなどしている。
馬鹿な人。本名を言うことなんてないのに。男の様子はどう見ても官憲の人間じゃない。容易く淳平さんの腕から時計を外させ、それを手のひらに載せて重さを量ってなどいる。
「言いやしねえよ」
口止め料としてか、当たり前のように、男は時計を自分のポケットへ移した。
わたしは浴衣を直し、すぐに立ち上がった。この場を去りたかった。もう少しも、淳平さんの傍にいたくなどない。
助けてくれた男に、頭を下げ、その人体をよく確かめもせずに、小走りに境内を出ようとした。
「成田屋の、お嬢さんじゃないか?」
「え」
声にわたしは立ち止まった。やり取りに、近所の人様子ではないと、ほっとしていたのだ。我が家のお客筋の人であろうか。初めてそのとき、男の顔を見た。
それが誰であるか、一瞬わからなかった。きれいに撫でつけた髪の頭には帽子が載り、夏らしい涼しげな麻の上下の背広を着ている。精悍な顔は、二枚目といって間違いがない。
記憶が、今の彼の姿に結びつくのに、鍵が必要だった。男の「いつかは、うちの者が、店に迷惑を掛けたな」がその鍵になった。
「あ」
いつぞや、まだ霧野中尉が我が家に滞在していた頃、店に極道者がやって来たことがあった。彼らは中尉に易く追っ払われ、その数日した後で、この彼が新たに店に現われたのだ。意外にも、中尉とは旧友であったことがわかり、わたしは拍子抜けのような気がしたのを覚えている。
「川島だ」
と男は名乗った。そういう名だったような気もするが、よく覚えていない。
ともかくも、わたしは改めて彼に頭を下げた。
「大丈夫か?」
「…ええ……」
そこへ、「何かありましたか?」と、今頃になって社殿の方からこちらをうかがうのんきな声が届いた。間の抜けたそれが、少しだけ恨めしい。川島さんが、偶然やって来てくれたからよいようなものの、そうでなかったら、と恐ろしさに怖気がふるう。
人の声に、淳平さんは駆け出していった。去り際、わずかにこちらを見、「忘れてくれ」などと、言う。
なんていやらしい、身勝手で、呆れた人だろう。誰が、忘れてなどやるものか。
「送ってやる」
わたしは返事も覚束ない。
歩き出してほどなく、川島さんが、自分の上着をわたしの肩に羽織らせてくれた。浴衣に破れたような傷はない。大丈夫だと言うと、
「背中が土だらけだ。着ておけばいい」
気づかなかった。組み敷かれたとき、直に背が地面にこすれたのだ。相当汚れてしまっているはず。髪も乱れているのだろう。
耳にこぼれた髪筋を撫でつけるようにかきやり、自然腕を抱いた。寒い訳でもない。けれども、震えが止まらないのだ。
それは境内を出、日の光の明るい往来に出てひどくなった。
足がもつれ、わたしはしゃがみ込んだ。一歩ももう歩けないような、この場から逃げ出したいような、恐ろしさから脱した安堵と、また髪を乱し、着物を汚して帰る惨めさに堪らなくなったのだ。
「おい…、お嬢さん、あんた大丈夫か?」
「あんた」という、雑な呼びかけに、霧野中尉を思い出す。中尉の「あんた」はそれだけの言い切りだが、川島さんのには、「お嬢さん」が付いているだけ、まだ上等だと思った。
今、霧野中尉がそばにいてくれたらよかった。どんなにか、よかったろう。彼の胸に縋って、恐ろしかったと、怖かったと、甘えて泣きじゃくりたいのだ。
「被ってな」
川島さんは、わたしの肩の麻の上着を取り、今度は乱れた髪の上からふわりと羽織らせた。何をするつもりかと思う前に、彼はわたしの前に背を向けて屈んだ。
おぶってくれるのだ。いつかの中尉のように。
どうしようもなく、わたしは言葉もかけずに、中尉によく似た背格好のその背に身を預けた。
「誰もわからないさ。俺が、ちょっとした荷物でも背負っているように見える。気にするな」
その言葉の優しさに、あっけなく涙があふれ出す。
「うちの組が、この辺りのシマの祭礼を取り仕切ることになった」
その用で、出かけてきていたという。
涙の気配を敢えてか、問わず、川島さんは、代わりに別なことを話した。彼があの時間、あの神社にいた訳を語るその言葉を、わたしは理解したが、すぐに流れていくように消えた。中尉から聞き覚えていた、彼が極道まがいのことをしているという事実を思い出すが、真に極道であれば、危難の婦女子を救いなどしないのではないか。
ちょっと奇術のように、どさくさに紛れ淳平さんの腕から豪華な銀時計を奪い取ってしまったのを目にしたが、それすらも気になりはしなかった。淳平さんに斟酌などできない。
ただ、川島さんが居合わせてくれた偶然を、ありがたいと思うばかりだ。
知らない背に、頬を当てながら、止まらない涙に暮れていた。
涙の中で、大きな安堵にもたれ、わたしは歩の揺れ、背のほのかな熱、珍しい高みに、それにどこか通う、いつかの夜会の夜の中尉の背を思い出していたのだ。それは、今もわたしの中で、彼とのときめくようなきらきらとした思い出の一つだ。
そして、今日の、誓いの約束を口にしてくれた彼の白いシャツの背を、わたしは、瞳の奥に思い浮かべていた。
それで、こんなとき、別な人の背にありながら、欲しい彼を、このとき感じられる気がしたから。



          


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