きりきり、音がする、眼の奥が疼いて、
祈るひと(19
 
 
 
「出て行け」と発した彼の声は、まるでわたしの頬を火箸で打つように、熱く痛く響いた。
「仕舞いだ」
声が返せなかった。怯えたようにその場に立ち竦み、視線ばかりを虚ろに辺りに散らせている。
不意に小さな足音が幾つも連なって聞こえ、それが中尉の教え子の子供たちのものであると気づいたときには、彼らは稽古場から下り、玄関のわたしの脇をすり抜けていく。
そのとき、わたしは先ほど中尉が言った「出て行け」とは、稽古の済んだ子供たちへ向けたもので、わたしへの言葉ではなかったのだ、とようやく知った。
幼いながらもかしこまった礼をし、子供らは道場を出て行く。
ほどなく中尉は、わたしの前にやってきた。手の竹刀を壁にもたれさせ置き、問う。
「どうしてここがわかった?」
わたしはそれに、ろくな返事をしなかった。こんなに近く彼がいることに、おかしなくらいにうろたえて、どぎまぎとしていた。久し振りに会う彼は、やや髪が伸び、夏の日焼けがやや引いたような様子だった。
相変わらず、瞳にその姿が移れば、わたしはじゅんと胸が焼けるようにときめいてしまう。
「一人で来たのか?」
わたしはそれに、おみつを、ここへ来るとき道を尋ねた交番の側に待たせてあると告げた。
「あんたには遠出だろう、ちゃんと帰れるのか?」
そんな、人をほんの幼児のように扱う。わたしは既に、いつ結婚してもおかしくのない歳であるのに、彼がそんなことを口にするのは、彼の目から見て、それほどに頼りなく幼いのだろうか。
来た早々に、一人であるのかだの、帰り道だのの心配をされることに、少々憮然となった。どんな気持ちで、わたしはこんなところにまで足を運んでいるのか、と。
やや恨みのこもった瞳を上げれば、彼はまるでお侍の仕草のように、袖から煙草の箱を出し、一本口にくわえた。
けれど、文句を言うはずの唇が強張ってしまうのは、彼はわたしがわざわざここへやって来たその理由を問わないからだ。
わかるのだろう、問いなどしなくても。
わかるのだ。わたしが何を言いたいのか。
瞬時、さっとわたしの頭に怒りがわいた。けれども、中尉がわたしのしたためた手紙を読みもせず突っ返してきたことへ、その仕打ちをなじってやりたい憤りは、ほんのわずか目の奥で熱く燃えただけで、すぐに冷めてしまう。
代わって胸にじわじわとわく、湿って冷たい悲しみが、怒りの種をすべて燃えかすにしてしまうのだ。
 
敢えて、わたしの手紙を返してきた。
 
唇を噛みしめながら彼を見やるわたしの瞳には、もう涙がにじんでいる。瞬きのたびにそれは頬を伝い、ぬらしていく。
「どうして…?」
彼はそのわたしを伏せがちな目で見ているだけ。くわえた煙草の灰が長くなり、ぽとりとそれが土間に落ちるまで。
「忘れてくれ、俺のことは。…すまん」
彼は唇の煙草を指に移し、言葉を補った。某中将閣下の息女との縁談が決まりそうなのだ、と。
「だから、あんたとのことは、終わりにしたい」
だから、送った手紙も読みもせず返してやったのだ、と。
わたしは言葉の衝撃と重さに、頭の中がましろくなり、瞬時にそれに、何の感情も浮かばない。
彼は、軽くわたしの肩を表へ押しやった。
「早く帰れ。ぼやぼやしていると暮れるぞ」
よろけた身が土間を踏み、何も考えもせず、ふらりと外へ出た。門から玄関の飛び石の上で、肩越しに彼へ振り返る。
その辺の下駄を突っかけ、彼もわたしの背後に立った。顎を往来へ指し、出るよう促す。
わたしはただ彼を瞳に映し、その指が挟んだ煙草が、ふと足元に落ちるのを目に留めた。粗く彼の下駄先が火種を踏み潰した。何となく、その捨てられた煙草を、自分のようだと、ようやくもやの薄れかけた頭がそう思う。
門の側に、当たり前に乱暴に煙草の吸殻を捨ててしまう中尉の粗雑さ。わたしの育ちからは信じられない行為が捨てて置けず、気になってわたしは屈み、彼が先を踏み潰した吸殻を指でつまんだ。
何気なく手のひらに包んだそれは、火の粉を残しており、じゅっとわたしの肌を焼いた。
「あ」
「何してる。そんなもの捨てて置け」
叱責のような声が降り、手が雑につかまれた。広げられた手のひらには赤くなっていた。小さなやけど。大したことではない。
「馬鹿、吸殻など拾うな」
わたしは手早く、もう火の消えた吸殻を懐紙に包んで帯の中に仕舞った。
いつものわたしらしい、その仕草が、止まってしまったような感情を働かせたのか、わたしは彼へ向き直り、言葉を発していた。
「嘘だったの?」
夏のあの日、彼を停車場まで送った、夕暮れにはまだ時間のあるあの暑い日。彼はわたしへ将来の約束の言葉をくれたのだ。「すぐにもらってやれない。待たせることになる、それでもいいか?」と。
わたしはそれに、ごく自然に、何のためらいもなく「待つわ」と頷いた。それ以外の返事を、わたしは探せなかった。
それから、どれほど月日が過ぎたというのか。ほんの二月ほど。けれども、その長くない隔たりの間に彼は、わたしを拒絶し、「忘れてくれ」などと言う。
何を、どう忘れればいいのか。
約束したわたしではなく、名誉な縁談を選んだ彼の打算を恨むより、簡単に忘れろと、無理な要求を投げつけるその言葉こそ憎らしい。
胸の中で大きく宿り過ぎ、半身のようにまで感じる彼を、一体どう忘れてしまえばよいというのか。
突き放された拒絶の後で、わたしはまだ虚ろに、信じ難い気持ちで彼を見上げている。
乳房を突くほどのときめきも、熱い恋も、抱擁も、口づけも、将来の約束も……。
幾つもの初めてをくれた、彼を。
「嘘じゃない。でも、終わったことだ」
ふっと影ができた。低く滑空していく烏の翼が、頭の上に影を作ったのだ。普段なら、それを気味悪く思い腕を抱くのに、今はそれも感じない。先のやけどと同じく、ありきたりな痛みも不快さも、このとき感じられなかった。
ただ、彼の拒絶が、わたしを拒むその言葉が、目の前も心も、暗く重く、いたたまれないほどの切なさで迫ってくるだけ。
「終わったこと」と彼は言う。腰に手を置き、邪魔な猫の扱いにでも困っているように、やや目を細めて。
彼には、終わったのだろうか。
流行の風邪の熱のようにあっさりと冷めて、平気な顔をして、わたしに別れを告げている。
冷たい秋の風が、頬を撫ぜたのと同時に、彼の声が聞こえた。「筒井の手帳、あれを覚えているか?」と、彼は言った。
自然落ちそうになる瞳を、わたしは彼へ上げた。瞳が合えば、ついっと無造作に彼は逸らす。前栽の伸びた枝でも見ながらか、妙なことを言う。
「筒井の手帳」、とは隆一の形見を指す。戦地で逸したそれを、隆一の上官であった彼が、親切で我が家に届けてくれたものだ。それが縁で、彼は我が家にしばらく滞在もし、その最中、わたしたちは恋に落ちた。
「何であんな物を、わざわざ俺が届けたか、わかるか?」
それは親切心に他ならないではないか。それ以外に何の理由があるというのか。
彼の瞳はわたしへ戻り、今は外さずにそのままある。
「シナで、あいつとは結構話をした。奉公先が大店の成田屋だとも、婚約者だったあんたのことも…、あれこれ聞いた」
「だから、届けに行ったんだ」と、彼はつないだ。
「え」
「宿舎も焼けて、金もない。三日も食わずにいた。窮して、そこで思いついた。筒井の手帳を届ければ、成田屋なら幾らか金になるんじゃないか、とな。あんたの親父さんの陸軍贔屓も、筒井から聞いて知っていたしな」
親切心や仏心なんかじゃない、と彼は言う。思いつくまで、手帳を成田屋に届けることすら、考えもしなかった、と。
「俺は、そんな男だ」
利己的で、打算もし、無駄なことはしない。
不意に、川島さんの言葉が、この中尉を前にして思い出された。「無駄なことはしない奴」だと、彼も言っていたではないか。
けれども、それで、中尉を軽蔑したりはできなかった。まぶたの裏には、我が家に初めて訪れた彼が、まるで餓鬼のようにがつがつとした健啖振りを示していたのが甦る。今、彼の打ち明け話と合わせれば、よほど窮していたのだろうと、心情がくめる。彼の抱える過去や背景も併せ、気の毒だったとも思う。
嫌いになど、なれない。
聞きながら、頭のどこかでふと引っかかるものを感じたが、それを深く追わず、わたしは彼の言葉に首を振った。
「霧野様は、戦地に行かれた軍人でしょう。銃後のわたしたちが何かして差し上げるのは、おかしくないわ」
彼はそれに返事をしなかった。持て余すかのようにちょっと嘆息し、またほどなく言葉をつないだ。
「一つ、教えてやる。あんたの親父さんの口癖だった、「士族出の」という奴だが、あれは…、嘘だ。士族でも何でもない。大枚で買ったそうだ、どこぞの士籍を」
「え」
彼はそれを、隆一から聞いたと言った。隆一は、父のことを「仁者と言ってもいい人だが、妙な名誉欲が強いところが生臭い」と嗤い、打ち明けていたのだという。
それにわたしは、頬を殴られでもしたような驚きを受けた。士族出が嘘であった、などはどうでもいい。興味もない。
父が士籍を買うまでして偽り、士族という身分に執着したこと。そして、それを知る隆一が、遠い戦地で密かに他人に打ち明け嗤っていたこと。
それが、わたしに言葉を告げないほどの動揺を与えた。
「俺は、二人を貶めるつもりで言ったんじゃない」。中尉はそう前置きをし、隆一の真っ正直でどこか透明であった精神性に触れた。だから、彼には血統を金で買うのがおかしいのだ、と。
「親父さんは、求める士籍を買う資産があった。また逆に貧した売る側の目論みもある。単に需要と供給がそろっただけの話だ。男には、足りない肩書きや背景がどうしてもほしい心境もある」
わかったようなことを口にする彼には、その心境があるのだろうか。中将閣下のご令嬢との縁談は、その心境の表れなのだろうか。
ここにきて、わたしは怒りに頬を熱くした。途切れた涙はそれで乾き、握ったこぶしで彼の腕をぶった。次々に、胸も肩も打ち続けた。
「ひどい」
中尉はそれに抗わない。わたしの腕の勢いが鈍ると、ずっと高い上背を利用し、やんわりわたしの肩を両で抑えた。
隆一や父、故人となったわたしの大事な人々を「貶める気がない」などと言いながらも、その秘しておくべき振る舞いを、今敢えて明かすのは、どういうつもりなのか。
怒りのこもった目で彼を睨んだのだろう。罵りたいわたしの、音にならない心の声が聞こえでもしたように、彼は言う。
「なぜ、俺が今更こんな余計なことを言うと思う?」
彼は高い位置からわたしを強く見つめた。いつか抱擁の中、向けてくれた瞳と、その色は、どこかが違うのか。何が違うのか。
わたしの強い憤りの瞳を受け入れ、あっさりと彼の唇がつなぐ。
 
「あんたに嫌われたいからだ」
 
後ろによろけるほど、彼はわたしの肩を押し、背を向けた。そのまま開け放したままの玄関から中へ消えた。
わたしは後ろに二〜三歩たたらを踏んで止まり、彼の去っていくのを瞳におさめ続けていた。
それからどう往来へ歩を運んだのか、わからない。虚ろな足取りで、わたしは道を、ふらふらと歩んだ。ふと、頬をぽつりと雨が打った。冷たさに見上げれば、ぽつぽつと粒に小さな雨が降り出している。
打ちのめされた、惨めさ。
寂寥。
堪らない切なさ。
そんなものに、先ほど中尉がわたしの肩を両で抑えたように、悲しみの負の力に、押しつぶされそうになるのだ。
「あ」
つまずきかけて、そのままわたしは道端にしゃがみ込んだ。人の目も、今は何の痛痒にもならない。
このまま顔を覆って、泣き出したい。
そうすれば、中尉が翻意し、駆けてきてくれるのではないか。ひどい意地悪の数々を「悪かった」と詫び、抱きしめてくれるのではないか……。
うなじを雨粒が伝う。
肩先がしっとりとぬれてしまった。
大した時間ではなかったろう。わたしがしゃがみ込んで、それでも優しい雨に着物が湿るほどの間。
傍らに影ができた。こちらへ屈み込む人が、わたしへ傘をさしかけてくれていることに気づく。
それはいつか会った、霧野家の爺や、小兵衛とかいった人物だった。以前と同じく、菜っ葉服のような粗末な者を身に着けている。
傘をさしかけ、わたしを立たせてくれようとやんわり腕をつかむ。どういうこつか、ひょいと軽く、力も入れずにわたしを立たせた。
「お帰りなさい。気の毒じゃが、若はもう来なさらん」
さあ、とわたしに傘を握らせる。
 
「若はもう来なさらん」。
 
堪え難い嗚咽が、喉元からせり上がり、わたしは傘を放し、両手で顔を覆った。
涙は雨と混じり、わたしを悲しい水色にぬらしていく。



          


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