最高で最悪で麗しい君の御命令
祈る人(20
 
 
 
それからどうしたのか、よくわからない。
気づけば、わたしはおみつの肩にもたれ、袖を目に当て、泣き続けていた。彼女の手には、傘があるのを認める。あの小兵衛という爺やが挿しかけてくれたものだった。
おみつはわたしの歩に合わせ、ゆっくりと歩く。けれどもわたしの歩はそれに遅れ、ときに止まった。
雨が激しくなる。自分の肩先が、じっとりとぬれそぼっているのに気づいた。それに目をやれば、わたしへ傘を挿しかざすため、おみつの左側は、すっかりぬれねずみのようになってしまっている。
冷えるのだろう、わたしを小声で励ましながらも、彼女はときに洟をすすっているのだ。
それに後ろめたさを感じたが、顧慮する心のゆとりがないのだ。言葉も返せず、どうにもならない気持ちの落ち込みと切なさが、視界も何も、辺りを暗くしていた。
停車場で電車に乗る。
知らない道を歩く。
家路に着くその半分ほどの距離に来た頃、わたしは傍らのおみつへ、ようやく言葉をかけた。わたし自身は何も感じないが、彼女も昼を食べていない。随分と空腹のはず。その上冷たい着物を着、ひどく疲れているだろう。
わたしはそこで、我が家の奉公を長く務めた女中が隠居し、神田で息子夫婦と住んでいるのを思い出した。
「おせんのところに寄るわ。しばらく会っていないし、お茶でもご馳走になりましょう」
それにおみつは、深く頷いた。彼女自身、このままわたしを家に連れ帰ることが、いかにも難儀だと思っていたのだろう。
おせんは、わたしが生まれたときにはもう古参の女中だった。今も、我が家への時候の挨拶を欠かさない。人当たりがよく陽気で、家内の誰からも好かれていた。
神田のおせんの家に着いたのは、もう午後の二時をとうに過ぎていた。ぬれそぼったわたしたちへ、おせんは嫁女のものらしい着替えを用意させてくれた。乾いたものに袖を通せば、やっと人心地がする。
「お嬢さん、何かお昼をお上がりになりますか? ご用意しますよ。おみっちゃんも、ひどい顔してるわよ、あんた」
「ありがとう」
おみつに何か食べさせてやれることに、ほっとする。
わたしは何の手土産も持たずに来たことから、帯の間から札入れを出し「母から」だと繕い、幾らか多いお札を飯台の上に乗せた。わたしから、というのであれば、おせんは受け取ってくれない気がしたからだ。
「まあ」
白髪の増えたおせんは、その札をやや胡乱気に見、ちらりとわたしへ視線を流した。わたしが黙ったままでいると、拝むようにかざし、神棚へ上げてしまう。
その後で、彼女は近所の店からうなぎを取ってくれた。肉が苦手なわたしが、滋養のあるうなぎなら好んで食べると、覚えていてくれたのだろう。おみつは「きゃあ」と嬉しげな声を上げ、さっそくぱくついている。
「こんなご馳走を食べられるなんて、お嬢さんのお供様様ですよ」
わたしは食が進まず、おせんの手前、お愛想程度にうなぎをつついた。
「あら、今日は、どこへ行っていらしたんですか?」
その何気ないおせんの問いに、わたしは顔が強張った。おみつもわたしの手前言葉を返せず、もじもじと箸を運んでいる。
「小石川よ。知り合いの方のところへ…」
「文緒お嬢さんのお友だちで?」
おせんはわたしの友人が、小石川などにいただろうか、と不思議そうだった。
「あちらにお嫁に行った人よ」
わたしはお澄ましを唇にあてがい、嘘を言った。おせんは「ああ」と易く合点をしてくれ、
「文緒お嬢さんも、そろそろでしょう。お嬢さんの花嫁御寮姿を思うと、この婆も、うきうきとしますよ。奥様も、すばらしい縁談があるのだと、先に伺ったとき、おっしゃって…」
「お父さんの喪中よ。そんなお話、ないわ」
わたしは、おせんの言葉を仕舞いまで聞かず、遮った。今、とても自分の結婚の話など、のんきにしていられる心持ちではなかった。そして、自分に関するそういった話題に、生理的な嫌悪があった。
幾ら、条件の優れた男性であっても、心を許さない誰かの妻になるなんて、と怖気が震う。この怖気は、もしかしたら、数ヶ月前山本屋の淳平さんに襲われそうになって以来のものかもしれない。
嫌なのだ。
恋した以外の人と添い、子を育んで暮らしていくなど、考えも及ばない。
だしの薄い、けれどしょっからいお澄ましを喉許へやりながら、この期に及んでも、わたしは霧野中尉の影を、胸に大きく宿していることに気づかされる。
 
消せないのだ。
 
のち、わたしなど手の届かない、お偉い中将閣下のご令嬢を妻にするという彼を。
そのために、誓い合ったわたしを無残に捨ててしまえる、利己的な彼を。
だから、「終わりにしたい」と、突き放し、勝手に二人の絆に幕を引いてしまった彼を……。
 
ここに来る少し前、彼から受けた冷酷な言葉の数々と拒絶。それがこのとき胃から、吐き気のようにせり上がってきた。
仕舞いこんだはずのそれらを、やはり心が受け止めかねて、身体が吐き出してしまいたいと訴えているかのような。
吐き気に似た不快感を、わたしは胸を押さえ押し込めた。自宅であれば手洗いで戻したかもしれない。けれども、このときは抑えた。それは、どうであれ、事実なのだから、と。苦い嫌な塊を、喉へ押しやるように。
自分が捨てられたのだ、ということも。
恋が終わったのだ、ということも。
払いのけることなど適わない。事実なのだから。
仕舞いまで食べ切れず、多くを残してしまったうなぎを、おせんは、わたしの幼い頃よくしていたように、「お流れいただきますよ」と、とぼけた声で言い、ぱくりと指で頬張った。
「おせんさんったら。わたしがいただこうかと、こっそりうかがっていたんですよ」
おみつが笑った。
「あら、それは悪うございましたね」
奉公を下がっても、彼女の変わらないわたしへの振る舞いと優しさを受け、涙がにじんだ。それは傷を撫ぜられたのに似ている。別な人の別な優しさが、このときひどくしみた。
「ご馳走様。ありがとう」
お茶を飲み、近況を互いに話せば、嫁になる女性が所用から戻ってきた。それを潮にわたしは腰を上げた。
「まあ、もう、お帰りですの?」
ちょっとなじるようにも聞こえる嫁の声に、わたしは頷き、
「秋の夕刻はつるべ落としよ。ぼやぼやしていると暮れてしまうもの」
さらりと返したその言葉に、遅れて「あ」となる。これは、彼が言った言葉だった。「ぼやぼやしていると、暮れるぞ」と。
帰りに暮れて、たとえわたしが夜道に困っても、もう決して来てはくれない彼。
その彼がくれた言葉だった。
 
 
遠出とぬれたのとで、わたしもおみつも風邪を引き込んだ。
母は、春先引いたスペイン風邪のことを言い出し、「また似たようなひどい風邪になっては」と、小言がひどくうるさかった。大した熱もないのに、かかりつけの渡会先生にまで往診を乞うた。
煩わしく思いながらも、口答えも文句も言いはしなかった。
母のその過度のうるささは、愛情から来ているのだと、問わなくても聞かなくても、わかるからだ。父を亡くした母に、寄る辺は、一人娘のわたししかいない。
そのわたしの身辺にあれこれと構うのは、心配に他ならない。母は、元気であった父を、霹靂のように失ってしまっている。残されたわたしを、またも失うことがあっては…、という忌まわしい不安が、その底にあるような気がした。
母のその失うことへの不安は、わたしの消えない喪失感と胸の中で溶け合うように混じり合う。だからしっくりと、わたしは、胸に、母の恐れを抱きしめることができた。
 
風邪の床の中で、わたしはぼんやりと霧野中尉のことを考えた。考え続けた。考えまいとしても、それはふと顔を出し、たちまち、頭を一杯に占めてしまうのだ。長く。
優しかった仕草、くれた言葉。それはときめくものもあれば、腹が立ち頬をふくらませたものもある。それら甘やかな思い出を辿れば、自然、その果てには拒絶の悲しさがやってくる。
それは何度も甦り、何度もわたしを涙に埋め、絶望させた。薄まる気配のない、まるで底の知れない悲しみだった。自棄に、死んでしまえたら、などとも願った。この苦しさから逃れられるのでは、と。
以前、恋に破れて女主人公が死を選ぶ、安っぽい筋の少女小説を読んだとき、わたしはそれを、思わず伏せてしまった。馬鹿馬鹿しい、と嗤った。
そのときのわたしには、恋人を失ったのなら、死ぬほど悲しむ前に、次の恋人を探せばよい、と乱暴に思ったのだ。もっといい人が見つかるかもしれないのに、と。早計に身を投げた主人公を、愚かで、理解のできない奇妙な生き物に感じた。
けれども時を置き、わたしは霧野中尉に恋をし、夢中になっている。今のわたしはどうだろう。馬鹿馬鹿しいと嗤った女主人公に、瓜二つではないか。自棄に、死にたい、などと愚かに泣き言を浮かべている。
 
そっくり、未来の自分を暗示していたかのように。
 
どう、やり過ごせばいいのか。
どう、癒していけばいいのか。
救いのない、答えのないような問いを、涙に暮れながらも、繰り返すのだ。
これほどの、悲しみを突きつけた中尉を、憎いと思った。あっさり自分ばかりが次へと、前へ進む彼を、恨んだ。
ひどい人。
嫌な男。
父のことや隆一のこと。拒絶に混ぜて、知らずでもいいことを敢えて告げ、わたしを憤らせた。「あんたに嫌われたいからだ」と、告げる理由を最後に、彼は背を向けた……。
 
あ。
 
憤りにつながり、そこでわたしは、忘れていた胸の小さな引っ掛かりを、このとき思い出した。それは小石川で彼が言った言葉の一つだった。
彼は、我が家へ隆一の遺品の手帳を届けたのは、全てが自分の窮乏のみから出た行為だと、明け透けに打ち明けた。その場は探ることに及ばなかったが、かすかな違和感を覚えたを覚えている。
宿舎も焼け、金もなく、「三日も食わずにいた」。彼は確かそう言った。この話はずっと前にも笑いに紛らせ、彼が言っていたことがある。
そこまで困窮していながら、なぜ妹御の許へ行かなかったのか。彼女は久我子爵の思われ人だ。壮麗な館に住み、貴婦人と言っていい暮らしを送っているのだ。
その彼女なら、兄に衣食住を提供するなど、まったく易いではないか。ごく当たり前のこと。比して、隆一との会話を唯一の頼りにして、彼の手帳を持ち、見ず知らずの成田屋へ恩を売りに行くなど、よほど迂遠だ。
およそ、無駄を嫌うという、彼らしくない。
 
なぜ、中尉は、彼女を思い出さなかったのか。
 
ふくらんだその疑問は、しばらくわたしの胸を支配し続けた。
けれどもそれは、決して答の返らないもの。不意に訪れる津波のような悲しみに、ふと消え、いつしかわたしは頭の隅に置き去りにしてしまう。
心を塞いで凍らせる、別れの悲しみですら、彼を消せない。
冷たい雨が、窓硝子を叩く。
床から身を起こし、肌寒く感じる肩へ丹前を羽織った。止まない雨音に、部屋の襖を開け、廊下越しに窓に映る庭へ目をやる。
じっとり頭を垂れた庭の草木を、雨は、足りぬとばかりに打ち続けるのだ。
その光景は、わたしを見入らせた。目がうなだれる草木から、離せない。
ぬれない、屋内のわたしが、どうしてかその雨に打たれているような錯覚をしてしまう。
降る雨に、肌も髪も、冷たくぬらされ続けているような。
ぬれないわたしが、打つ雨にしおれ、心の芯を震わせている。乾いた寝間着の身を、知らず抱きしめた。
 
雨はいつ止むのだろう。



          


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