耳を澄まして、鳴らない鍵盤の音を聴く
祈るひと(3

 

 

 

「文緒、これを」

と、父の突きつけた新聞の一面には衝撃的な字句が踊り、いきなり目に飛び込んできた。

『連続強姦殺人魔、早春の帝都に現る』

記事を眺めれば、外出中の若い婦人五人もがこれまでに辱めを受け殺されている、とある。もちろん名誉のため女性らの名はなく、むごたらしく絞殺された状況のみが、記されていた。

犯行はいずれも薄暮時に起こり、被害者を一瞬で拘束し口を封じ、事に及んでいることから、膂力のある大柄な男であると、推理される……。

「本当に嫌な事件だわ、か弱い女ばかりを狙うなんて」

「早く下手人が捕まればいいのに…」

わたしの傍ら、久谷焼の大火鉢に手をかざす母と、そう頷き合った。

新暦二月に入り、暖かな日が差す時間は増えたが、いまだ寒さは厳しい。わたしも母の手に自分のそれを重ねた。父の前にある塗りの長火鉢には鉄瓶が掛けられ、しゅんしゅんとそこから、温かな湯気が伸びている。

「文緒も他人事ではないぞ。被害に遭ったのは、皆お前と似た年頃の娘ばかりだそうだからな。しばらく、出歩くのを控えたらどうか」

「平気よ。だって、新聞には現場は碑文谷の辺りが多いって、書いてあったもの、ここからは遠いわ。それに、おみつも連れているし」

「しかし女では、いざというとき…」

ぷんと、夕餉の香が居間にも届いてきた。慣れたその匂いに、わたしはちょっと頬を膨らませた。

母に向かい、

「お母さん、また牛鍋? 十日ほど前に食べたばかりなのに」

文句を言うと、母は火鉢に目を落としたまま、うっすら笑い、「だって…」と、ちらりと顎を父へ向ける。

「あれにしろ、とうるさいんだもの」

牛鍋は父の大好物なのだ。あまり肉が好きではないわたしは、そのご相伴が楽しくはない。

「あんたには、別に卵焼をするように、台所に言ってあるから」

甘く焼いた卵焼きは、大好きだ。母に宥められ、「いいわよ」と、口の中でつぶやいた。

夕餉までのちょっとした時間、わたしはそのまま母に編み物を習った。

流行の毛糸編みを、先生にも付き数年来凝っている母の手は、既に玄人はだしだ。その手で編んでもらった桃色のケープや手袋を、わたしは冬に愛用している。

電灯の下で幾目かを編み進めれば、耳に店の声が届いた。「お帰りなさいませ」、とおそらく将太の声でそう聞こえる。

ああ、霧野様がお帰りになったのだな、と今ではすぐにわかる。彼が我が家に居候してから、もう一月も経とうか。

最初の頃、彼は離れに寝に帰る程度だったが、軍人贔屓の父が話し相手に好み、やれ将棋だ、碁を指すのとしょっちゅう居間に呼んでいるのだから、妙に近しい有り様になってしまった。

廊下で夜、小用に立つときや、湯の戻りにすれ違うなどもあり、そういうときは恥ずかしいような、やや気まずい思いをしてしまう。

あちらはけろりとしたもので、わたしのぬれ髪の先を軽く引くなどして、「湯冷めしないうちに、早く寝ろよ」などと、まるで下士官にでも言うような口を利くのだから、ちょっと悔しい。

「どうした、くだり腹か?」と、あっけらかんとからかわれたときには、ちょうど月のものでもあり、頬から火が出る思いがした。思いっきり足を踏んづけてやった。

十九からもうあと二〜三年ばかりもすれば、早々、行き遅れともいわれる。

すっかり一人前の女のつもりでいるわたしにすれば、彼の言葉も態度も子ども扱いされているようで、ちょこちょこ癪に障るのだ。

そんなことなど父は知らず、襖を開け、廊下へ大きな声で彼を呼んでいる。「霧野様、こちらへ」、「今奥に牛鍋を用意させていますから、ご一緒に」と。

 

居間に続いた板敷きの間には、冬は絨毯が敷かれる。

普段は銘々膳であるが、鍋物のときは真ん中辺りに飯台を置き、そこでなべを囲む風にしてあった。

父は霧野中尉に肉や酒を盛んに勧め、自分を食べる。

上がる湯気で室内が暖かいのはありがたいのだけれど、その匂いも、鉄鍋にじゅうじゅう煮立った様子も、食傷気味で箸が伸びない。

隣りの彼は、藍の着流しに胡坐をかき、勧められるまま砕けた様子でもりもりと食べている。こうして共に夕餉を囲むことが増え、気づいたのだが、以前ほど、餓鬼のようにがつがつと食べなくなったようだ。

理由を訊けば、

「あの時分は、本当に飢えていた。軍の宿舎が焼けて、金もない。数日食わないでいたからな」

と、口に物を含みながら言う。我が家でこうして日に三度(昼食の弁当もある)食にありつけ、飢えていないということらしい。

「国の礎に働かれる軍人方には、もっと高給を食んでいただいてしかるべきですな」

「あはは、だとありがたいです」

「将校の方々は、皆霧野様のように貧乏なの? 他家に寄宿するほどに?」

「これ、文緒」

明け透けな問い掛けに、母の制止の声が入った。けれども彼はけろりと、

「そうでもない。俺はただでさえ少ない俸給を粗方すぐ使ってしまうからだろう」

鍋から大きな切り身の肉を箸で取り、何を思うのか、わたしの小皿へずぶんと沈めた。

「あ」

「食ってないだろうが、さっきから。見ていたから、わかる」

「見ないで下さい。それに、文緒はお肉が苦手なんです」

言いながら、わたしは自分の皿に沈む肉を、箸で彼の皿へ返してやった。

「好き嫌いが多いと、大きくなれないぞ」

「まあ」

わたしは女でも小柄な方で、だからと言って、今までそれをこうもはっきりと口にされたことはない。かえって、それが自分の魅力の一つくらいに思ってもいたのだ。

からかわれたことに驚き、唖然としていると、再び肉が戻ってきた。

「おい、戻すな。戻すと、何度も食わせるぞ」

彼はそう言い、自分の皿の上に手のひらで封をして見せた。父もこの様子におかしがりながら、「食べなさい」と諭した。

いい加減、やりとりに飽き飽きしていたわたしは、しようがなく箸で皿の肉をつまんだ。これを彼の方へ戻したら、本当にあと何切れも食べる羽目になりそうで、渋々と口に運んだ。

肉はわたしの皿にない、とき卵が絡んでいた。彼の皿に一旦あったから、そのせいだ。

冷めていたが、卵の甘さで思いのほか、舌に不味くはなかった。

肉を食べさせられた腹いせもあり、ちょっと意地悪な気分で、霧野中尉に問うた。

先ほどの俸給の話だ。彼はそれを粗方あっという間に使ってしまうと言っていた。底に、ほんのりとした興味もある。

「何にお使いになるの? お金のかかる恋人でもあるのですか?」

彼はそろそろひと心地ついたのか、箸を置き、襟元を寛がせ、胸に風を送っていた。鍋物を食べ、あったまったようだ。

「恋人はいない。たまに安女郎くらいは買うが…」

思わず、母と目を合わせた。小さく母は、咳払いをし、「文緒がおりますから」と、やんわりと彼へ釘を刺した。

「これは、すいません」

父は敢えてか、大きく笑い、「お若い方はそうでないと。毎日がやり切れません。何、お気になさらず」と、彼の肩を持った。

「母が悪いもので、それで療養に金がかかる訳です」

不意に彼がそうつないだ。伴侶を早くに亡くし、病弱な母上は、今箱根の方で転地療養をされているといった。

「まあ、それはお気の毒な。ご心配でしょう」

「…なかなかできたことではありませんな。この界隈のぼんぼん連中に、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいですな」

まったくしょうのない若者が多い、と。金満家の親がまたそれを助長してやるのだから、見ていて堪ったものではない、と。これまで繰り返し聞く、父の愚痴だ。

その思いがあったらからこそ、父はわたしの婿がねを、隆一のように奉公人の中から求めたのだろう。

彼の意外なうち開け話には、その渇いた声音から重さは感じられなかった。彼自身、重い話とも思っていないのかもしれない。

その話題は、自然にそこで途切れ、新聞の時事問題に移った。父は今朝の新聞の一面の『連続強姦殺人魔』の記事に触れた。

「さっきも文緒に言っていたところですよ、しばらく出歩きを控えなさいと言うのだが、女中が一緒だから平気だと、これは耳も貸さない」

「女中では、どうにもならないでしょう? 怪力だの大男だのとの話じゃないですか。被害も広がりそうだともいうし…」

霧野中尉は食事も終え、袖から煙草を出してくわえた。何を思うのか、お茶をすするわたしにちらりと目を流し、

「自分が、文緒さんを送り迎えしましょう。軍部に詰めている間は無理だが、それ以外なら構いませんよ。こんなに世話になっているのだし」

「え」

隣の横顔を見ると、何でもないかのように、やはりけろりとして煙草を吸っている。

「まさか、犯人も男連れは狙わないでしょうから」

父は、それは軍人さんに申し訳ないと遠慮は言いながらも、乗り気なのが見て取れる。母も、同じく「霧野様のお暇なときは、そうしていただいなさいな」と、わたしを諭した。

「でも…」

彼が稽古事の行き帰り、ついていてくれるということを、おかしいことに、わたしはそれほど厭うていないのを知る。

どうしてか、そんなことをちらりとも思う自分が憎く、わたしは膨れた顔を背けていた。

そこへ、紫煙に交じり、声が流れてきた。

「冗談ではなく、俺が下手人なら、あんたみたいなのを狙う。小さくて事に及ぶに都合がいい…」

「まあ」

母の驚く、そのかすかな悲鳴がした。「そうね、文緒は華奢なたちだから」と、細い声が続いた。

また、中尉は意地悪にわたしが小さいこと言う。それに、「あんた」と呼ぶのは止めてほしいと、前から何度も言っているのに。

腹が立ち、睨んでやろうと怒りにあふれた瞳を彼へ向ければ、

「それに、あんたは美人だ」

と、彼はつないだ。

その当たり前な口調は、事実をほんの添えただけに響き、方便に敢えて加えた匂いがしなかった。

だから。

怒りが行き場をなくし、ほろりとほぼ空いた鉄鍋に落ちて緩んだ。

恥ずかしく、そして、またしっかりと、その声が嬉しかったのだ。




          


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