同じくらいの重さの愛でした
祈るひと(21
 
 
 
月が改まり、十一月になった。霜月との名の通り、朝晩、透き通った空気の冷たさを感じるようになる。
そろそろ綿の入ったものが恋しくなる頃。
女所帯の気安さで、簡単なおにぎりのお昼を済ませた後で、衣替えにと、母と蔵に入った。
行李の中、箪笥の中にはまだしつけを解いてもいないたとう紙に包まれた着物が幾つも眠る。それを出しては広げ、または畳み、仕舞う。
それは衣替えといっても、どこかままごとめいていた。年が改まれば、晴れ着を着て、歌舞伎座へ行こうと、二人話し合う。
「銀座の帰りには、お父さんの好きだった、『西庸件』の洋食を食べに入りましょう」
沈みがちなわたしの顔色を、うかがうように母が話すことに気づいたのは、いつだったろう。あの雨にぬれ帰った日から、数日を経てのことのようにも思われた。
母が敢えても問わないのは、その理由に、わたしがいっかな名も口にのぼせなくなった、霧野中尉が当てはまるのだと、知れるからだろうか。
母には願わしいはずの、彼との帰結を、その実母は、そう喜んでもいるようにも見えないのだ。ただ優しく、どこかうつむきがちな娘を、小まめに気遣ってくれるばかり。
母の優しさを黙然と受けながら、翻って、わたしが母の深い悲しみの際、どう振る舞ったかが、思い知らされた。父を失っての悲しさ、自分自身の驚きと戸惑いの中にあって、わたしは母の身を思い、同情してはいたが、それはほんの上辺だけの、軽いもののように思う。
わたしは、父の死が起こした変化の脇で、嘆き悲しむ母の目を盗み、ひっそり恋に溺れていたのだ。
恋しい彼の面差しを目に浮かべ、幾度か触れた唇に熱を感じ、抱きしめられた感覚に酔い、いつでも好きなとき、それらに甘く浸っていた。母の悲しみの、ほんの傍にありながら。
 
罰が当たったのだ。
 
自分の思い上がりと、得手勝手に。
きっと、罰が当たったのだ。
 
蔵の暗がりに、開け放した扉から、光と、昼にはまだ心地のいい風が入り込む。それに乗り、どこかの猫の鳴き声、または犬の遠吠えが、耳に届いた。
「今日はかしましいわね。おなかでも空かせているのかしら?」
「…ええ、おかしいわ。それに、犬が遠吠えするなんて、夜に限ってのことなのに」
いずれもどうでもよいこと。軽い疑念も雑事に紛れ、風が冷え出し、衣替えを済ます頃には、どこかに散ってしまっている。
わたしは施錠した蔵の鍵を母から受け取り、決まった棚へ仕舞うのを、不意の電話で中断させた。女中の取ったそれを受け取り、耳に当てる。
友人からの久し振りののどかな声を聞き、手のひらの鍵を、そのままちょっと、帯の間にしまった。後で、いつもの場所へ仕舞うつもりだった。
 
 
夕食を摂った後で、先触れもなく異変は訪れた。
始め、一度緩く家が揺れた。それは、居間の柱時計が八時に鳴って間もない頃だった。
母と顔を突き合わせて、新聞のパズルを解いていたときのこと。長火鉢の隅に置いた互いのお湯飲みが、カタカタと揺れ、それに気づく。
「地震かしら」
「ええ」
知らず、わたしは母へ指を伸ばしていた。母もそうで、指を互いに絡め、小刻みに揺れ続ける中、不安を分かち合う。
そこへ、女中らが足早に集まってきた。続く揺れが、女ばかりでは不安で、心細いのだろう。男手は、力仕事をする弥助が一人あったが、昨日から休みで里へ下がっている。
「火の始末はもう済ませてあります」
大槌で壁や床を叩くような衝撃がきたのは、皆で寄り集まってすぐのことだ。大きな地震に悲鳴を上げ、五人で身を寄せ合った。
続いて、生木を割るような、嫌な音が頭の上に聞こえた。ちらりと目を上げれば、鴨居の父の遺影が、これもカタカタと揺れている。
「ちょっとご近所を見てきます」
一人、お常が立ち上がった。彼女が出て行き、どれほどか、瓦が割れる音が続いて響いた。
「うちの屋根かしら?」
母が押し殺した声を出す。わたしは、「きっと…」と答え、手を握った。音がとても近かった。我が家のどこかの瓦に違いない。
お常が戻ってきた。短い外出だったはずの彼女の頬は、煤か埃かで黒く汚れている。震えた声で告げる。
「ひどい騒ぎです。この界隈でも、揺れで、どこかのお店が潰れたらしくって…」
言い仕舞いまで待たず、肩を揺するほどの強い横揺れがやって来た。その揺れに、漆喰の壁に亀裂が走るのが見えた。
この家も、じき潰れるのでは……、部屋の誰もが思う、その不安の先走りがすぐに現れる。身近で倒壊音が響き、目の前がましろくなるほどの埃が舞い上がった。
 
潰れる、家が。
 
わたしは母の手を強く握り締め、「出ましょう」と声をかけた。
そこで、昼間片づけ忘れていた帯の蔵の鍵を思い出す。それを得難い天啓のように感じ、皆をせきたて、庭へ走った。誰もが土足。足袋、または素足のままで地面を蹴り、駆けて蔵に入った。
こちらは、父が案を出し三年ほど前新しく作り替えたもので、丈夫な仕上がりだと、大工が請け負ったものだ。そこに入り込み、板間に腰を下ろす。
そのとき、母屋の一部が崩れるのが目に入った。恐ろしさに、感慨も悲しさも、瞬時感じることはない。
「皆、いるわね」
母の声。
応えが返り、誰一人欠けていないことに、改めて安堵する。もし、帯に蔵の鍵がなければ、ここに非難が叶わなかった。あのとき、仕舞うことを忘れたきっかけの電話をかけてきてくれた友人に感謝し、そもそもわたしに鍵を預けた、母にも感謝した。
誰も何も言わない。外から入り込む、どこかの屋根の壊れる音、人の叫び声、きな臭い臭い、ざらざらした冷たい風…、五感で感じる地震の恐ろしさを噛みしめていた。
ふと、母がもらした。
「家が潰れてしまったわ…」
何もかも、あったのに…。母の虚ろな詠嘆をわたしは遮り、「でも生きているわ。皆、無事よ」と、肩を抱いた。
幸いに、ここは蔵。冷えれば纏う布物には事欠かない。そう自らも励まし、わたしは自分から動き出した。寒そうにしている母へ、綿入れを出してあげようとして、それが、今日の衣替えですべて家の中に移してしまったことに思い至った。
「あ…」
ほぞを噛んだが、それでも古びた毛布などはある。それを女中にも手伝わせ、引っ張り出した。床に敷き、母を座らせ、肩から別な丹前を羽織らせた。それは父がどこか温泉宿に泊まった際、間違えて持ち帰ってきてしまったものだった。合戦の陣羽織のような形がおかしいと、冗談に捨てずに仕舞っておいたのだった。
それを母に着せかけ、自分もおみつと同じ毛布を分け合った。お常もおきよもそれぞれ恐怖に震えながら、毛布を手繰り寄せ合っている。
幾度かの倒壊音をやり過ごした。わたしたちは恐怖に竦み、断続した揺れが消えるまで、呆然と一塊になっていた。
 
「家が潰れてしまったわ…」
 
何度目かの母のつぶやき。何もかも、あの中にあったのに…、と。
その声音の悲しさ憐れさ、肝の冷えるような心細さ。それらは、聞くだに堪らなかった。わたしは毛布をおみつに押しやり、立ち上がった。
外の様子を見ようと、開け放した蔵の外へ歩を向ける。背後に母の叱る鋭い声が聞こえる。
「文緒、止めなさい。戻りなさい」
その母へわたしは振り返り、「少しだけよ」と、ちょっと媚びた声を出した。外の様子を知るために言っただけの言葉だが、その言葉を自分がどこかで使ったことがあることを思い出す。
それは、今年の初めのまだ冬の頃のことだ。霧野中尉が、成田屋の店先に現われた、ならず者を追っ払いに出た折のこと。その彼の背を追い、わたしは今と似たような言葉を、止める母へ向け口にした。
そんなことを、こんな震災の怯えの中、場違いに今思い出すのはなぜだろう。失恋の痛手から、時間を置いた今でも、彼のことを思い起こすのは、胸に苦しいのに。
なぜだろう。
彼がつけたわたしの心の傷には、ようやくうっすらとした膜が張りつつある。弱いそれは、ほんの些細な彼の思い出に、ぴりぴりとひきつれ、痛むのだ。
瞳を閉じ、胸の中で投げやりに彼の冷酷さを呪えば、容易くその膜は弾け、傷口が開いてしまうだろう。すぐに底のない沼のようなどろりとした悲しみが顔を出す。その程度のやわな膜。
「すぐ戻るわ」
わたしはそのまま歩を踏み出し、庭へ出た。蔵の扉の影で隠れていた、母屋の潰れた我が家の姿が、月夜に浮かんだ。それは言葉を失わせ、胸を大きくえぐりとるような衝撃的な場面だった。辛うじて、離れの屋根がいまだ瓦を乗せているのが見える。
母でなくとも、呆然とならざるを得ない、痛ましい残骸だった。
庭を横切り、表へ出ようと思った。お常の話では、他にも界隈で崩れた家があったという。我が家がこの被害であれば、それももっともだ。軒並みこの界隈は、大きな揺れになぎ倒されてしまったのではないか。
街灯が一つ、生きているのがありがたい。その明かりが、塀を越え、こちらまで伸びている。崩れた木材が落ちる足元に気をつけながら、歩く。きな臭いにおいが、鼻を突いた。どこかで、火が起こったのかもしれない。
嫌な予感が胸を焼いた。もしや、火がこちらまで延びることはないのだろうか。
倒れかけた塀には、小さな通用門が拵えてあった。防犯と父の趣味を兼ね、それでも瓦をふした冠木門が設えてある。扉は地震に、閂が壊れ、ぶらりと開いたままになっていた。
その門の向こうには、うろうろと行き交う人々の姿がある。我が家からは斜の中村家の軒先が消えていた。見覚えのない残骸になってしまっている。
「あ…」
その信じ難い光景は、わたしを一時虚脱させた。別な、知らない世界にでも入り込んでしまったかのように、思考も恐怖も抑え、あまりの驚愕が、亡羊とした置物のようにしてしまう。
そのとき、声が聞こえた。
それは、往来の人声と物音に雑多に紛れ、けれども、再びわたしの耳を捉えた。
 
「文緒」
 
そう叫ぶ声は、わたしの名を呼んでいる。そう聞こえた。それが誰の声であるのか、わたしは確信しながらも、声がわたしの空耳なのではないかと、夢うつつの心地でいる。
まさか、と。
「文緒」
訊き間違えようのない声が届き、瞳を上げた。駆けてこちらへやって来る、見慣れた軍服の彼の姿。それが通用門のすぐ向こうにあるのを、わたしの瞳が認めた。
 
「…霧野様」
 
門の外へ踏み出した足袋の歩が、小石を踏んだ。それにわたしは踏み出した足をもつれさせ、つまずいてしまう。
「伏せろ」
彼の声に、そのいきなりの命に、呆然となる。あ、と言うほどの間の後で、彼がうずくまったなりでいるわたしに覆い被さった。それで、わたしは仰向けに、倒れこんだ。
彼は両手を地に着き、大きく息をしている。温かな吐息が、額に頬に触れた。それは、柔らかい煙草のにおいがした。
きれいな鼻梁と顎の線が、影となって触れ合うばかりに近くある。上背のある彼の逞しい腕、それがわたしの頭をかき抱くように、このとき引き寄せた。
間もなく、がらがらと通用門の瓦が崩れてくるのが、目の端に映った。「あ」という間もなく、その幾つかが、彼の背を打った。わたしをかばい、守るため、身を投げ出し覆いかぶさってくれているのだ。
 
「終わりにしたい」のではなかったのか。
冷たく、むごくわたしを突き放したのではないのか。
 
「…あんたが無事でよかった」
額が触れ合った。
彼がそうしたのだ。「無事でよかった」と。肌の温みを確認するかのようにあてがう。彼のこめかみに伝った汗が、ぽとんと冷たくわたしの首筋に落ちた。
ほんの傍にある彼の深い気配は、わたしをこんな場所で陶然とさせるのだ。
見つめ返すわたしの瞳を知りながら、
鼓動すら感ぜられるほどの近くにあり、
 
「無事でよかった」
 
その距離で、彼は、感じるわたしの存在を求めている。



          


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