不束者の恋だと笑うなら、
祈るひと(22
 
 
 
時間が止まったように思えた。
門は崩れ落ち、その後も、霧野中尉はわたしを組み敷いたまま、動かなかった。荒い呼吸を、大きく何度も繰り返す。
どれほどの距離を、ここまで彼は駆けてきたのであろう。
わたしは指を伸ばし、彼の頬に触れた。指先の感触で、砂埃で汚れているのだと知れた。
どれほど駆けてきたのだろう。
詰襟の軍服の襟元は、既にホックが外され、呼吸のたびに動く汗にぬれた喉が、そこから生々しくのぞいた。
 
どれほど、ここへ駆けてきたのだろう。
 
「怪我はないか?」
ようやく息を整えた彼が、身を起こし、そう訊く。わたしの脇に腕を通して起き上がらせた。
「ええ」
へたり込み、まだ頭の呆然としたままわたしは答えた。背後から、声がした。「お嬢さん」と呼ぶ声は、おみつのものに聞こえた。
「母も、皆、無事よ。大きな揺れが始まってすぐ、蔵へ逃げたの」
「そうか。よかった」
わたしは彼の手を借り立ち上がった。結った髪が乱れ、それが束になって頬に落ちているのを、耳へかきやった。
彼を伴い、庭の奥へ進む。蔵のすぐ前では、おみつが腰を抜かしたようにこれもへたり込んでいる。眼前の、母屋のすっかり潰れた屋敷の惨状を目にして、驚きと恐怖にすくんでしまったのだろう。
わたしは彼女の肩を叩き、「霧野様が来て下さったの」と、こちらへ気を向けさせた。声に顔を上げるが、その目が泳いでしまっている。
ぱちんと、彼が彼女の頬を軽く叩いた。そして、腕を取り立ち上がらせる。
「しっかりしろ、お守りが先に参ってどうする。文緒を見習え」
「ああ…」
声にならない声を返し、おみつはぺこりと頭を下げた。
その後で、やや落ち着いたのか、わたしへもの問いたげな視線を向ける。わたしが霧野中尉にこっぴどい失恋をした経緯を、おみつはよく知っている。そのわたしを振ったはずの彼が、どうしてここにいるのかが、ふに落ちないのだろう。
わたしは視線を逸らし、応えなかった。わたしにも、彼の心を読めなどしない。
ただ、彼がおみつを叱るときに言った、「文緒を見習え」という言葉が、耳に残っていた。それは、わたしが取り乱さず、おみつのように腰も抜かさず、この危難に自分でも妙なほど落ち着いていることを言うのだろう。
惨状に、恐怖も感じ、ひどく驚愕したが、その感覚は身体を嵐のように通り過ぎれば、不思議と冷静でいられたのだ。
それは、傍に中尉の存在があるからかもしれない。何もかもの思考を、すべて彼へ傾けさせてしまう、圧倒的な恋の錯覚なのかもしれない。
蔵の母へ、わたしは彼が来てくれたことを伝えた。こんな場で、母は律儀に頭を下げた。おみつのような詮索にまでは、このときおよそ及ばないのだろう。挨拶の他は何も言わない。
蔵の中は、女中が見つけたのか、灯の点いたランプが置かれている。古いもので、電気の通る昨今は用のないものだが、こんなときその有り難味を知る。
母が手を伸ばすので、わたしはその傍らに腰を下ろした。
「ここにいなさい。離れたら駄目よ」
叱る母の声に、頷きを返したが、いつまでもこんな場にいられるものではないと思った。水も食べ物もない。これから冬を迎えるというのに、こんな底冷えのする場では、母の身体がもたないのではないか。
うろうろと気の滅入ることを思い巡らせながらも、視線は彼へ注がれる。彼は壁際に立ち、しきりに壁を触り、ときに甲で打ち、それをあちこち繰り返した。
高い天井を見上げながら、「大丈夫か…」とつぶやいた。仕草は、蔵の強度を推し量っていたようで、女だけでは思いも寄らない思慮を持つ彼へ、堪らない頼もしさを感じた。
「次の揺れが来ない限り、崩れはしないだろう」
そう告げ、皆を安心させた。
彼は母の前に来ると、膝をついて身を屈めた。「余計なお節介かもしれませんが」と前置きをし、
「すぐにでもここを移った方がいい。夜は寒さもひどいし、身体に障ります。妹の所へ移って下さい」
幸い妹御の館は被害がなく、歓迎しているという。彼は、ここへわたしたちを迎えに来たのだと告げた。
「え」
母は瞬時に返事も返せず、わたしへ瞳を向けた。わたしも彼の申し出に驚いたが、それが至極ありがたく、また妥当だと、じき感じた。今は、遠慮や他家へ厄介になる恥を顧慮している場合ではない。
「中央官庁にも被害が出ています。既に警察も出動し、市街の治安に当たっていますが、それが、どれほど効果があるか怪しい。そう遠くなく、戒厳令が敷かれるでしょうが…」
そこで彼は、ちょっと間を置き、ちらりとわたしを見た。すぐに逸らし、母へ戻すと、
「朝には略奪が始まるでしょう。もう動いている連中もいるかもしれません」
言葉の恐ろしさに、母の身体が萎縮するのがわかった。わたしも同じ恐怖を感じながら、母の腕を強く抱いた。女中らのもらす押し殺した悲鳴が聞こえる。
彼は言う。金満家の商家が並ぶこの辺りは、強奪の格好の標的だと。
「さあ、早く」
否やはないという語気で、彼は母に促した。
それには母、大きく首を振った。「駄目よ、行けないわ。捨てて行けないわ。ここには皆あるのに…」
「お母さん」
この期に及んでの母の執着をたしなめるつもりで、わたしは抱いた腕を揺すった。
「霧野さまのおっしゃるようにしましょう。恐ろしい連中が来るかもしれないのよ、早く…」
「馬鹿を言いなさい。お父さんが遺してくれたものは、もうここだけなのよ。捨てて行くなんてできません。商家は抱えた荷が命なのよ」
多分、初めて耳にするほどの、母の怒気を込めた声だ。それにわたしものまれ、彼も次の言葉を探せないでいる。
 
お母さん、うちはもう商家ではないわ。
 
憚らない中尉の舌打ちの音がした。母の前でのあからさまなそれに、彼の苛立ちもわかりつつ、しかしやはり腹が立った。母は両手で顔を覆い、涙を堪えている。彼の無礼を頓着などしていないのが救いだった。
彼は立ち上がり、しばらく蔵の中を歩いた。かんかんと床を打つ軍靴の音が静かな蔵の中に響いた。
 
わたしは母の腕を解き、立ち上がった。丹前の肩はまだ寒そうで、毛布を厚く羽織らせた。
女中らは、毛布をかぶりながら身を寄せ合っている。細々と話し合う。もう深夜に近いだろうに、誰も眠気を感じないのだろう。
「霧野様」
壁にもたれて立つ彼の腕に触れた。彼は何かを考え凝らしているように、腕を組み、唇に指の節を押し当てている。
わたしの気配に、指を離した。瞳を向ける。
わたしは、どんな目の色をしていたのだろう。
朝には略奪が始まるという、彼の言葉は、この蔵の女たちを震え上がらせた。その不安と恐怖に迫られながら、なのに、彼を前にして問いたい事柄は、ただの一つしかない。
 
どうして?
 
問わない問いが、胸の中で広がりそれが涙の元を生んだ。
嬉しいのだ。彼がそばにあることが。彼自身危険であったあの地震の中、懸命に駆けて、駆け通して来てくれたことが。
堪らなく、嬉しいのだ。
薄暗い中、十歩も離れずにおみつら女中がいるのに、わたしは涙のにじむ瞳を伏せ、額を彼の軍服の胸に押し付けた。
彼は寄り添ったわたしの肩へ腕を回した。抱き寄せて、低くささやく。
「大丈夫だ、俺がそばにいる」
守ってやる、と。
 
どうして?
 
涙は隠しようがないほどにあふれ、わたしは彼の腕を感じながら、嗚咽を殺すことができなかった。散々耐えてきた思いの、堪えてきた切なさが、このとき堰を切ったように胸から流れ出した。
自分を情けないと思った。
ひどい別れを突きつけた彼を、わたしは恨んだはず、憎んだはず。父と隆一の思い出を汚すようなことを告げ、別れのだしにした、中尉という男を、胸の中で幾度も呪って罵った。
ひどい男、と。
嫌な男、と。
けれども、その凝った憎しみを、わたしは既に手放してしまっているのだ。彼の存在という抗えない魅力の前に、あっけない真夏の氷のように、怒りは容易く溶け、流れ去ってしまう。
そんな自分を、馬鹿な女だと思った。愚かな女だと思った。
「おい」
存分に泣かせてくれてもいいのに、彼は不意にわたしを離した。何を思うのか、やや乱暴とも思える仕草で、涙を頬にのせたまま、わたしは少しふくれた。
彼は軍服の上着を脱ぎ白いワイシャツだけになると、脱いだ上着をわたしに羽織らせた。
「着ていろ」
彼の肌の匂い、煙草の香、柔らかな温もり、心地のいい重さが、ふわりとわたしを包む。それは、こちらの憤りの芽をちょんと摘んでしまう、彼らしいやり方だった。
「霧野様は、寒くないの?」
それに返事をせず、彼は、考えをまとめるようにまた指の節を唇に押し当てている。
床に置かれたランプをつかみ、足元を照らす。照らしながらこんこんと、靴の底で床板を叩いているのだ。学のある人はすることまで変わっているのかしら、とこんなとき、彼が腐っても帝大出であることを思い出す。
そこで彼は振り返り、わたしではなく母へ「お内儀さん」と声をかけた。
虚ろな表情の母は、彼の声にぼんやりと顔を上げた。この夜の出来事がひどく堪えるのだろう。すぐに湯にでも入れてあげたいような、蒼白い疲れた顔色をしている。
「地下があるはずです」
いきなり彼はそんなことを言う。誰もが返事をできず、彼を見つめた。
「以前、親父さんに、ここの設計図を見せてもらったことがある。そこには、確か、何か仕掛けがあったように覚えています。その細部にまで記憶はないが、蔵にある仕掛けであれば、強盗避けの防犯か…」
もしくは地下室だろう、と彼は言う。
「地下? …あの人には何にも……」
母は霧野中尉の言葉に瞳を彷徨わせた。記憶を辿っているのだろうか。ややして首を振る。
「ごめんなさい、何も覚えていないわ」
「いや、あるはずです」
言い切り、彼は女中らがもたれるのをどかせ、背に当てていた箪笥を横に滑らせた。空いた床を靴先で叩くが、そこでもないらしい。
蔵の床を音を立てて歩き、その音を確かめているようだった。幾度か繰り返した後で、彼は膝を折って屈み、今度は手で床をなぜるようにしている。
「あった」
何を見つけたのか、彼は同じ箇所を何度も指で辿る。ズボンのポケットから出したナイフの刃を、床にあてがった。ばきっと音をさせ床板の一部を剥がし、そこから力を込めて引き剥がした。
ほぼ正方形に床板を剥がれた箇所は、ランプの光を受けた鉄製の蓋が姿を見せている。扉には頑丈な錠が施されてあり、この奥に何があったとしても、鍵がない以上開けることはできない。
しばらくそれを指先でなぜていた彼が、ふとわたしを見た。
「蔵の鍵は?」
「あるわ」
わたしは帯に仕舞った鍵を取り出し、それを彼に渡した。
「そんなもので開くのかしら?」
「そんなもので開かないと意味がない場合のために、用意されていたんじゃないか?」
「え」
意味を問おうとしたとき、施錠が解かれた。錠に差し込んだ蔵の鍵が、鉄の扉の鍵をも開いたのだ。
彼はゆっくりと扉を開いた。それでうっすらとしたかび臭い風が起こる。ランプを突き出し、中をうかがった。さすがの母も、事の次第に身を乗り出して様子をのぞいている。
中は暗く、ランプの明かりのみに照らされ、白い石の壁が浮き上がった。入り口から下へ階段状になっている。中尉は足をその中へ移し、降りていった。
ほどなく、戻ってくる。背後の母へ振り返り、
「六畳ほどの広さの地下室になっています。検めてみて下さい、中に手文庫のような箱がある」
それに母は頷き、地下へ降りていった。わたしは彼の指を探った。見つかった指先を自分のそれに絡めた。自然な仕草だった。そばにあるはずのものを引き寄せる、当たり前の仕草で、意図などなかった。
結ばった指先が、わずかな肌を探り合うように密に絡んだ。彼が指を解かないことには、そのとき気づいた。
地下から、母の声がした。「文緒」とわたしを呼んでいる。わたしはそのまま彼の指を引いた。ついてきて、というつもりだった。
「文緒、いらっしゃい」
もう一度母の声がした。引いた指を中尉が外した。顎で地下へ指し示す。
「俺が見ていい筋合いの物じゃない」
それに押され、おずおずと地下へ降りる。降りきった先は、平らな石敷きの間になっていて、彼が言ったように、六畳ほどの空間になっていた。隅に置かれた箱。それを彼は『手文庫のような箱』と表現したが、それはひどく控え目な説明に思えた。
母が床に置いたランプに、蒔絵を施された優美な塗りの箱が浮かぶ。わたしでも抱えられるほどの大きさのその箱が、暗がりに鎮座している様は、ちょっと荘厳な印象さえ与えた。父が遺してくれたものと、感じるからかもしれない。
母は既に箱の引き出しを開けていた。その中身をわたしに見せた。そこには数々の株券と、地方らしい銀行の通帳が幾冊か。母はその頁を繰り、多額の残高を示す証左を次々とわたしに示した。
「ほら」
そして、最後の段の引き出しには、厚く束になった現金がぎっしりと眠っていた。それを無言で認め、母と二人、知らず手を握り合った。
安堵か、感謝か、喜びか、母の頬は既に涙にぬれている。家が潰れたとき、母は「あの中に何もかもあったのに」と嘆き悲しんだ。けれど、そうではなかったのだ。
 
父が、わたしたちのために取り分けておいてくれた。
 
「お父さん、こんなこと、もらしもしなかったのに…」
「ええ」
どのような思いを込め、父はこれらを用意したのだろう。細心というには、周到過ぎ、仕掛けに手が込んでいる。まず震災が起こらなければ、目にすることはなかったろう。
そして、聡明な中尉の存在があって始めて、父の仕掛けは始動すること。設計図を父が彼に見せたことから、この仕組みは始まるのではないか。
設計図を記憶していたのは中尉、一人。だからこそ、彼は地下の在り処に気づけたのだ。
父がいてもいなくても、必要なときに、これがわたしたちに遺されるような仕組みが、組み立てられてあったのだ。
自分が亡き後のことを、あたかも想定していたかのような……。
母もわたしと似た思いを辿るのか、涙にぬれた声で、
「あの人、本当に霧野様がお気に入りだったから…」
きらびやかな蒔絵の箱を前に、身が震えた。その中に収められた遺された生活の潤沢な糧は、易く量れない父の深謀遠慮を伝える大いなる遺産だ。
箱から取り出したあれこれを、やはり箱が惜しくて中に戻した。のち中尉の妹御の許に厄介になるとしても、この箱はそばに置いておきたい。
彼に頼み、箱を引き上げてもらう。空いた地下の空間には、母が執着する呉服類を片端から移した。
扉を閉める際、名残惜しげに母が中尉に問うた。
「荒らされることがあったら、ここは見つかってしまうかしら? 錠がなくても壊されたら開くでしょう?」
中尉はちょっと考える風で錠をなぜていたが、首を振った。
「いや、大丈夫でしょう。鍵がなくここを開けるには、分厚い鉄を切る、大掛かりな機械が必要になります。軍と、一部の企業にしか置いてないはずです」
そんなものを、略奪に来る連中が調達できるとは思えない、と彼は言った。
母は彼の言葉に安堵し、それが伝わるのか、欠伸をもらすなどし、女中らもいつもの落ち着きを取り戻したらしい。
彼は皆に、眠っておいた方がいいと言った。自分が見張りをしておくから、と。
「あんたも、寝ておけ。朝には紫から迎えが来るはずだから」
じんと頭の芯が痺れるような疲労を感じていた。この蔵の誰もがそうであろう。どこか甘えた、心細いような気持ちが過ぎり、わたしは彼の腕を取り、胸に抱くように引いた。
「一緒にいて」
それは広くない蔵の中で、誰の耳も捉えたはずだ。くすりと、鼻を鳴らす誰かの物音がした。
恥じらいも、ためらいも、このとき消えた。ようやく、混沌とした沼のような恐怖が色を薄めた今、彼への問いさえ重さがない。
 
そばにいてくるだけでいい。
 
「ああ」
彼は頷き、わたしの傍に腰を下ろした。その腕が、肩へ回る。彼に抱き寄せられる、その感覚は、何度繰り返しても慣れない。
いつも、胸が痛いほどに高鳴って、ときめくのだ。
「ねえ、霧野様」
無邪気に問いかけた。寒くはないのか、それを訊きたかっただけ。彼はわたしに上着を渡したままだ。
「寝ろ」
乱暴に問いを遮る彼が憎く、わたしは腕の中にありながらふくれた。
目の前に不意にできた影に気づく暇もなく、そのとき、尖らせたわたしの唇に、彼のそれが触れた。
 
あ。
 
ランプの光は薄く、照明の他にない中、ほんの小さな口づけは、暗がりに溶け、気づかれないはず。知られないはず。けれども、羞恥に頬を熱が上った。
胸が、高鳴りに、ちくんと痛い。
疲れているのに、彼の温もりに、やっと眠気が差しかけているのに。
わたしの胸には、消えたはずの問いが、あふれては尽きない。
 
どうして。



          


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