罠だと知って、近づいた。
祈るひと(23
 
 
 
なかなか寝つかれない夜、ようやくまぶたが落ち、束の間の眠りにつく。
ほんのわずか意識が遠のけば、すぐにまた覚醒してしまうのだ。その都度、さまざまが押し寄せた夜のすべてを思い出し、夢の切れに愕然とする。
けれども自分の肩に回った腕、頬を預けるシャツの存在を認めることで、心の傷は瞬時に癒されてしまう。
自分を包む温もりを、わたしは目が覚めるごとに、また夢に落ちる間際、噛みしめていた。
何を失くしても。
何を壊してしまっても。
自分の傍に彼の姿があることが、何もかも、今の困難を覆い隠してしまうのだ。
寝覚めの甘えで、触れたくて。
シャツに唇を押し当てる。頬を寄せる。
それに応えるように、彼の指が頬を滑る。落ちた髪に絡む。
眠気に混じり、うっとりとときめきを味わいながら、ふと、自分は震災の恐怖や不安を、既に乗り越えてしまっているのでは、と感じた。この先のことを、わたしは少しも憂えていない。
より怖いのは、不安に思うのは、再び彼を失うこと。
また、彼の世界から切り捨てられること。「要らない」と返された、いつかの手紙のように別れを突きつけられてしまうこと。
それ以上にわたしを苦しめるものは、きっとない。
 
 
目覚めたとき、薄く明り取りの天窓から光が差し込んでいた。霜月の日の出を考えれば、五時を幾らか過ぎた頃ではないか。
傍らに、中尉の姿がないことに、わたしはすぐに気づいた。頬に氷をあてがわれたように、心が冷え、萎縮した。
けれども、わたしの肩に軍服の上着が残っている。置いて、どこかへ行ってしまった訳ではないはず。それに安堵し、わたしは目をこすりながら辺りを見回した。
壁にもたれ、母やおみつら女中が眠っているのが目に入る。わたしは静かに立ち上がり、蔵の外へ出た。
外は夜明けの靄が、薄く視界を遮っている。
湿気のある風が、こんな季節には珍しいほどの温みをもっていた。それに乗り、きな臭いにおいがやって来る。ここからそう遠くないところで、おそらく火災が起こったのだろう。どこかからか、赤子らしい泣き声も届く。
崩れた家屋の瓦礫の向こうに彼の姿を見つけた。彼は、釣瓶から引き上げた桶から直接水を飲んでいた。それに、あの辺りがお勝手だったのだ、と知る。続く、台所があった場所は、面影がないほどに姿を変え、潰れてしまっていた。
傍に行けば、彼はわたしに気づき、振り向いた。桶を唇から離し、こちらに差し出す。
「井戸は生きてた。飲むか?」
それほど喉の渇きは感じなかった。けれども、何となくわたしは桶を受け取り、おずおずと縁に唇を当てた。当たり前であるが、こんな風に水を飲んだことなどない。
清水が喉を滑る心地よさに、意識しなかっただけで、随分と喉が渇いていたことに気づいた。何度か喉に流し込み、桶を離そうと思ったとき、縁の端に、小さなかえるが張り付いているのが目に入った。
きゃっ、とわたしは桶を取り落とした。
「どうした?」
桶を拾い上げながら、彼が問う。「かえるがいたの」と返せば、何がおかしいのか、彼はからりと笑った。
「かえるを食う国もある」
「嘘」
「嘘じゃない。日本でも、出兵先で兵站が詰まれば、兵士は現地調達だ。何なりと食う」
「霧野様も、先のシナ行きでは、かえるを食べたの?」
「蛇なら食った」
などとあっさりと返すから、二の句が接げなくなってしまう。わたしの様子を笑いながら言う。
「あちらの料理だ。捕まえて食った訳じゃない」
「まあ」
彼が、わたしの肩の軍服に手を伸ばした。ポケットを探るのを見て、煙草がほしいのだと気づく。取り出した煙草に、彼が火を点けるのを待って、わたしは軍服を彼へ差し出した。
「ありがとう」
くわえ煙草で、彼は何も言わずに受け取り、袖を通した。煙が目にしむようにやや細め、「妙な風だな。雨になるな」とつぶやいた。
それに、いまだ鎮火していないどこかの火事を思った。雨が降れば火が消え、これ以上に延焼の恐れもないだろう。そう思いながら、言葉に出なかった。
口にしたのは、別のこと。夕べからの、消えない問いだ。
「どうして?」
彼はすぐに口を開かなかった。わたしをちらりと眺め、また視線をあちらへ流し、足元の屋敷の残骸を靴先で蹴っている。
彼が何をためらうのか、不安と焦れで、わたしはもう一度問いかけた。「ねえ、どう…」と。その言葉を遮るように、それは不意に耳に届いた。
「紫が、流産した」
 
「え」
 
「秋口のことだ。これが二度目で、医者はもう子供は無理だと言っている」
ひどく苦しんだ、と、最後に添えた。
耳にした痛烈な出来事に、わたしは返事をしかねた。これまで、わたしの周囲にそういった種の話は、聞こえてこなかった。
意味を理解した途端、ちょっと肌が粟立つ。恐ろしいような怖いような、そんな思いがしたのだ。
短い驚きの後で、わたしは言葉の代わりに踏み出し、彼がだらりと下げた手を取った。彼はそれを外さなかった。意識などしていないのかもしれない。
瞳はわたしではない方を見、指に挟んだ煙草を吸いもせず、煙にしているだけだった。
「子爵はまだ五十前だが、紫より先に死ぬ。その後はどうしようが、あれの自由になるのだと、俺は思っていた。失ったものの幾つかを、取り戻す時間はあると」
世間並みの結婚も望めれば、また、好きな男の子供を持つことも可能だろう、と……。
それで、忌まわしい過去は褪せて薄れ、彼女本来の別な人生が開くのだと、彼は夢想していたのだろう。そう思わねば、彼自身辛かったのかもしれない。妹御の境涯を、自分のせいであると、彼は今も責めているのだから。
わたしは彼の指を、黙って自分のそれで包んだ。かける言葉を持たず、また、この彼の紡ぐ過酷な事実が、わたしに突然の別れを強いた、真の理由なのだと、気づいてしまったからだ。
心変わりや、まして、立身の方便などではなく、
 
きっと、自分が嫌になったのだ。
 
彼は自分の行いを、あさましく、厭わしく感じたのではないか。嫌気がさしたのではないか。妹御の苦しみの傍らでわたしと語り合う、己の恋の利己的な醜さに。
こんなとき思い出す。彼は彼女の写真を、大事な本に挟んでいた。ときに取り出し、見返す。その行為を、今思い出す。
わたしは、彼が胸に抱く妹御の存在のその大きさに、今頃まざまざと気づかされた。恋情とはおよそ密度の違う、意識などせずとも、ひたひたと血に潜む愛情……。
自分の恋など、捨て去ってしまえるほど。わたしの思いなど顧慮するゆとりもなく。
血を分け合うその絆は、彼の中で侵し難く、何よりも強いものなのかもしれない。
美しいと思った。きれいだと思った。
妬心がないとは言えない。ちくんと胸を刺す痛みはある。
けれどもそれを、わたしは知らず納得してしまっている。冬に雪が降るのと同じ。春に花が芽吹くのと同じように。
それは、恋とは別なものだ。交じることもない、異なる感情だ。わたしが亡き父へ抱く思いと、中尉へのそれが別種であるように。
妹御が兄の彼に向けた献身に釣り合うほどの重さをもって、やはり彼も彼女へ愛情を注いでいるのだ。何かを犠牲にしたとしても。
「嫌になった。あんたに夢中になっている自分が…」
 
だから、わたしを捨てた。
 
「すまん、身勝手な男だ」
彼はわたしの指を解き、同じ手で頬に触れた。彼の指は長く、頬から伸ばした指が易く耳を覆った。その仕草に、彼を見上げるわたしの瞳に、涙が浮かぶ。
髪が触れかかる、こめかみ辺りの傷痕。きれいな輪郭の線にあるその傷が、このとき彼の心の重荷と重なって、わたしの目に映る。
涙の意味は、頬に触れられる嬉しさではなかった。彼の消えない心の重荷が痛ましく、切なかったのだ。彼はそれを下ろすことも、捨てること叶わず、負っていかねばならない。
彼と妹御の過去に根ざす事柄で、わたしの助けなど及ばない。けれども、何か、わたしにもできることがあるのではないか、と切に願う。彼のために、何でもいい、その助けになりたい。
「親父さんのことや筒井のことで、嫌なことを聞かせた。忘れてくれとは言わない。憎んでくれていい。それだけのことは言った」
「憎んだわ。霧野様なんか死ねばいい、とも思ったわ」
「物騒だな、でもそれでいい。俺もいつか死ぬ」
「死ぬなんて、言わないで」
彼はくすりと笑う。「死ねばいいと言ったのは、文緒だろう」と。
滅多にわたしを名で呼ばない彼の不意のそれに、どきりと胸が鳴った。そんなことで、喜んでしまう。ひっそりと頬が緩むのだ。
単純で、ひどく御し易い。彼が触れれば、容易に喉を鳴らす猫のように。
わたしという女を、彼はどう見るのだろう。愚かだと思うのだろうか。馬鹿だと思うのだろうか。簡単だと、ほくそ笑むのだろうか。
頬にこぼれた涙を、彼の親指が拭った。いつか、わたしが頬につけたご飯粒を、彼の指が今と同じように、つまんでくれたことがある。それをあのとき彼は造作なく舐めた。
思い出に自然、彼へ身を傾げ、寄り添った。問いたいことはまだある。
「中将閣下のご令嬢との縁談は?」
「信じたのか?」
「え」
「そんな話は、去年のことだ。でも、進む訳がないだろう。俺の母親の件があれば、どこかで頓挫する」
わたしを傷つけた、大きな嘘をなじりたい気持ちは、彼の自虐的な言葉に削がれてしまう。
わたしは細い声で、「霧野様のお母上は、真実そのご病気ではないでしょう?」と問い返した。子爵のつてで便宜上、その施設に入所しているのだと聞いている。
彼はそれに、ゆらりと首を振り、「形が全てだ。事実は問題じゃない」と言った。
「あんただけだ、逃げないのは」
「猫みたいに言わないで。捨てたくせに。霧野様は、わたしを、捨てたでしょう……?」
「あんたには、他がある。いい縁談が降るようにあるはずだ。俺でなくていい」
だから、捨てたと言わんばかりの言葉に憤り、わたしは彼の胸をちょっとぶった。「ひどい」と。泣きながら、なじる。その声は涙にぬれていても、甘えの混じる、柔らかいものだ。
「恭介様の代えなんか、ないわ」
「文緒…」
背に回った彼の手のひらが、わたしの帯の上辺りを緩く撫ぜた。
 
「俺のために泣いてくれるのは、あんただけだ」
 
ふと思った。彼の言葉は、わたしの問いへの返しではなく、気持ちの吐露なのではないか、と。
「地震が来て、すぐあんたのことを思い出した。無事なのかそうでないのか、確かめたくて、ひどく気が急いた」
彼は地震が起こった夕べ、子爵の用で呼ばれ、妹御の許にいたと言った。「けど…」とそこで彼は言いよどんだ。
どんな言葉がその後に続いても、わたしは堪えないような気がした。現に彼は、駆け通して夕べ、わたしの許へ救いに現れてくれている。それは揺らがない事実なのだ。
まぶたの裏に、わたしを救うため、無防備に身を投げ出してくれた彼の行為が、今も鮮やかだ。それがすべてではないか。
わたしはその礼を、口にした。彼のお陰で、母もわたしも救われたのだ、と。彼はそれにやや首を振る。
「館を出るのを、ためらった。俺は紫の心境を憚ったんだ」
大地震の夜、いまだ十分な身体ではない妹を置き去りに、恋人の許へ駆けつけることを、彼はためらったと告げる。
わたしは彼のシャツに、額を寄せ、首を振る。「いいの」とつぶやいた。
「あんたの所へ行けと言ったのは、あいつだ」
「え」
わたしは声に顔を上げた。白く乾燥して切れた唇が、軽く笑んでいる。その唇でつないだ。「俺の逡巡を、馬鹿みたいに思ったのだろう」。
「なあに?」
わたしは促すように、彼の唇へ指を伸ばした。切れたそこに指を置けば、薄く血が移る。彼の目を避けて、何となく、それを自分の唇へ運んだ。
「兄がどんなに妹を思おうが、『交わって、子は生せない』だと。選りにもよって、あいつはそう言った。子爵の面前で、涼しい顔をして」
「まあ」
彼は、「妹ながら、恐ろしいことを口にする」と笑った。その笑みには、ほのかに彼女への賛嘆がにじんでいるように感じた。
似ている、と思った。紛れなく、その面差しのみではなく、二人は似ているのだ。豪胆な彼の妹であれば、彼女だって、どこかにそれは通うのだ。
「霧野様に、よく似ていらっしゃるのね、妹御は」
「顔はよく言われるが、性格は違う、あいつは女だ。…たとえば……、蛇は食わん」
 
似ているわ。
 
胸の中でひっそりつぶやく。わたしには、彼女は必要があれば、蛇だって食べるだろう、と思える。涼しい顔をして。
わたしは、「霧野様」と彼の胸へ唇を触れさせる。もう馴染んだ、シャツと肌の匂いが、わたしを感覚で、彼を感じさせる。
 
「わたしをまだ好き?」
 
知りたい最後の問いは、抱擁で返された。結った髪はもう既に乱れている。その髪に埋めるよう、彼が顎をあてがうのを感じた。重みでそれと知れる。
「ねえ…、霧野様?」
「忘れたことなんか、ない」
「…まだ、将来を誓って下さる?」
「怒っていないのか?」
「知っているくせに…」
このときふと気づく。彼のためにわたしができる、一つのことを。過去、背景、傷も、重荷も、過ちも……。彼のすべてを認め、受け容れ、許すこと。
それは、わたしにしかできない。
「あんたはきれいだな、どんなときも」
 
あ。
 
口づけは不意に始まり、軽く触れ、深まる前に終わる。すぐに離れてしまう彼の唇を、はしたないと恥じらいながら、ちょっと切なく思った。
もっと触れていてほしい、とややなじる瞳を向けるわたしへ、彼の言葉が降った。それは軽い不満を消しやり、わたしを瞬時に、溶かすようにときめきで満たすのだ。
「…とても忘れられない」
 
知っているわ。
 
突然、彼がわたしを自分から引き剥がした。乱暴ともいえる仕草で、いきなりの仕打ちに、わたしはちょっとふくれて彼を見上げた。
「霧野様?」
わたしの様子などちらりとも見ずに、彼は低い声で告げる。
「後ろにいろ」
右腕で雑にわたしを背後に押しやった。そのときようやく、異変に気づいた。
中尉の背中越しに、男の姿が目に入った。壊れた塀を易く越え、やって来る。粗末な菜っ葉服に身を包んだ男の手には、鉄の棒が握られている。
それを手に、男はこちらへ歩を進めてくるのだ。
中尉は何かを足先で蹴った。家が倒壊した際にできた角材で、ごくわずか身を屈ませ、彼はそれを握った。
「蔵はどこだ?」
潰れた声に、夕べ中尉が言っていた略奪が始まるだろう、ということを思い出す。
恐怖に身がすくんだ。
「下がっていろ、動くな」
わたしへ声をかけ、中尉はそのまま踏み出した。提げた角材を、男に向け、剣に見立てかざす。
男の背後に、別な菜っ葉服の男の姿が見える。一人ではないのだ。それに彼が気づかない訳がない。怯みもせず、そのまま間合いを狭めていく。緊張に、喉が渇き、ひりひりと痛んだ。
片手で相手へ真っ直ぐに角材かざし、別な手はだらりと下げたまま。歩を止めずに、彼は硬い声で告げる。
 
「加減はできない。死ぬ目に遭うぞ、いいのか?」



          


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