我侭ですか、いつだってあなたの隣にいたいと願うのは、
祈るひと(24
 
 
 
男が中尉へ向かい踏み出し、鉄の棒を振り上げたとき、恐ろしさにわたしは、両手で顔を覆ってしまった。
目を手から離したのは、何かの砕ける嫌な音と、それと供に聞こえた大きなうめき声がし、それらが中尉のものでないと知れたからだ。
彼へ踏み込んだ男が、鉄の棒を落とし、うずくまっている。腕を別な腕で抱えていた。骨でも折ったのだろうか。
もう一人は、怖気づいたのか思案しているのか、間合いを保ったままこちらを睨んでいた。手に、刃渡りのある小刀を持っている。
刃物に対し、中尉が手に持つ木の角材がひどく頼りなく感じた。あれで刺されなどしたら、大怪我をしてしまう。
わたしは下へ目を向け、辺りを探した。瓦の欠片を拾い、それを男へ向けて投げつけてやった。
「引っ込んでろ」と、中尉が叱ったが、気にならない。屋敷は崩れ果てても、我が家の敷地内だ。無頼な輩に侵入されるのは、虫唾が走る。
肩先をわたしの瓦が擦った。それに、男が罵り言葉を投げてきた。
中尉が振り向きもせず、わたしに後ろ手を差し出した。「石をくれ」と言う。
どうするつもりなのか、意図が読めないまま、わたしは転がる石を彼の手のひらに乗せた。
受け取った石を、彼はぽんぽんと重さを量るようにもてあそぶ。じりじりと間を寄せてくる男へ、うずくまったままの呻く男を顎で示し、
「どうせ、医者にもかかれないだろう。食っていくのに必死にならなきゃならん事態だ、余計な怪我は負うな。惨めだぞ」
何かをため、男は「あんた軍人か?」と問う。
「だったら、どうした?」
「日露で兄貴が死んでる」
「俺に関係があるか」
中尉は手の石を軽く空へ跳ねさる。一瞬の後、角材を野球のバットのように、ちょっと振り、いい音をさせて打ち飛ばした。ひどく器用な仕草だった。石は鋭く飛び、男の胸を打った。
威嚇のわめき声を上げ、男が彼へ刃物をかざし、一歩踏み込んだ。
「くれ」
中尉の促しに、わたしは新たな石を彼の手に乗せる。同じように、中尉は石を見事に打ち飛ばした。石は男の顔面をすれすれに飛んだ。
「狙う。次は目だ」
そのとき、不意に袖を引かれた。気づけば、ほんの傍らにいつかの小兵衛という爺やが現れている。いつ、どこから来たのだろう。気配すら感じなかった。
「文緒さん、おふくろさん方はどこに?」
平気な声で問う。わたしは中尉を気にかけながら、「蔵に」と庭の奥、蔵の方へ目を向け、返した。
「さあ。お姫さんからのお迎えじゃ」
などと、奥へわたしを伴おうと促すから、慌ててしまう。
「だって…」
「若なら、放っておきなさい」
爺やはちらりと、男と対峙する中尉の背に目を向け、「軽業師のようなことばかり上達して…」と苦笑をもらす。
「万に一つも打ち負かされることは、ない」
爺やに気づいた中尉が、やはり振り向きもせずに言った。
「俺に構うな、小兵衛を案内してやってくれ」
「さあ」
強く催促され、後ろ髪を引きながら、わたしは爺屋を伴い、蔵へ戻った。石を野球を真似て打つなど、男を軽くあしらうような、彼の余裕を見たからだ。
蔵では、母らが既に目覚めていて、わたしを探していたところだった。わたしの連れた爺やの登場に、ぽかんとした様子をしている。
その彼が、少し離れた場所に、馬車を停めてある、などと伝えるから、皆あっけにとられた。
「急ぎなさった方がいい。じき、うようよと人が湧き出て、道が通り辛くなろう」
着替えばかりを夕べ、わずかにまとめてあった。それを女中が抱え、母が風呂敷に包んだ父の蒔絵の箱を提げた。重いらしい。わたしが持ち手を変わる。持てばずっしりと重みがある。
「荷物なら、わしに」
爺やが手を差し出してくれたので、わたしが渡そうとすると、母が「文緒」と止めた。
「主人の遺品ですので」
母はやんわりと爺やへ取り繕うが、それは他人に箱を触られることを厭う、生理的な嫌悪と、そして抜き難い母の警戒心が交じり合ったものだと、わたしにはわかる。
「左様か」
あっさりと爺やが引き下がり、蔵の外へ出たとき、悠々とした足取りで中尉が戻ってきた。手に角材はない。けろりとした様子で、何の怪我もしていない。
彼は爺やから馬車の件を聞き、頷いた。その傍へ、わたしは寄り添った。「貸せ」
わたしの提げる風呂敷包み取った。彼はそれを肩にひょいと乗せる。易くわたしが彼へ渡したことへ、母が非難を込めた目を向けたが、すぐにそれは逸らされた。
我が家の裏側に停めた馬車には、帽子をかぶった若い御者が待っていた。促され、乗り込む。四つの輪に乗った内装のきれいな箱は、女が五人も乗れば、狭かった。爺やは御者台にひょいと乗り込んだ。
その爺やへ彼が、「頼む」と声をかけている。爺やが胸元から何か紙の包みを彼へ差し出した。
「霧野様は?」
問えば、彼はこれから軍部に出向くと言う。「え」と、わたしはそれに驚き、彼がわたしの膝へ返した風呂敷の重さも、瞬時感じなかった。
「通達が出ている」
夕べは、駆け通して日本橋の我が家まで来てくれ、寝ずの番をしてくれた。井戸の水を飲んだだけだ。空腹でもあろうし、ひどく疲れているはず。それを押して、これからお勤めだというのだ。
「軍人は、丈夫なだけが取り柄だ。小兵衛から、ほら、握り飯をもらった。気にするな」
軽く手の包みを見せ、あっさりと返す。「行け」と、扉を閉めた。がくんとした揺れの後で馬車が動き出す。わたしは窓に張り付き、一人残る彼を見た。
何でもないようにもう歩き出しながら、腕を上に大きく伸ばし、伸びをしている。ちょっと目が合った。けれど、すぐに馬車が角を折れ、彼の姿をかき消してしまう。
わたしは唇を噛んだ。夕べから、今朝までの彼との時間。それは不意の邂逅で、ひどく深い密なものであった。
けれども、こうして果てれば、実にあっけなく過ぎてしまったように思われるのだ。他愛のない、わたしの夢であったように。
何とはなしに、彼のくれた短い口づけを思い出し、指を置く。ちょっと記憶を辿るような仕草だった。
窓から瞳を戻すと、すっと膝が軽くなった。母が、わたしの元から風呂敷包みを自分の膝へ移したのだ。何の言葉もなかった。
おし抱くように腕につつみ、頬を乗せている。まるで、父にもたれかかるように。
 
 
館は豪華な宿屋のようで、思いがけず人の姿があった。部屋へ案内してくれた制服の女に訊けば、震災で家を失った人なのだという。
「存じ上げもしないんですよ。御前(子爵のこと)のつてを頼って来られた方々で」
事実なだけで、言葉に何の裏もないのだろう。けれども、その言葉はわたしの胸にこたえた。母も似た気持ちを持つのか、うなだれながらも頬が強張るのが知れる。
「お方さまが、人が多く、十分なお部屋をご用意できず、申し訳ないとおっしゃっておられました。ご遠慮なく存分にご滞在下さいませ、とも」
制服の女中はそう告げるが、わたしと母にとあてがわれた部屋は広く、西洋風の手洗いや風呂場なども備わり、もったいないほどの設えがあった。
おみつら女中は、隣りの部屋に案内された。連なった部屋なのであるから、こことそう変わらないのだろう。
食事は部屋に運んでくれること、好きなように館内を歩いて構わないこと…、などを型通りに告げ、女中が下がっていった。
「あの女中、メイドさんって言うのかしら、西洋風でしょう?」
並ぶベッドの縁に掛け、物珍しさに、わたしはきらきらした室内を目で追う。肘掛のついた布張りの長椅子に腰を下ろした母が、ため息混じりに、
「遊びに来た訳じゃないのよ。弾んだ声を出して、文緒ったら…」
確かに、場違いに明るい声音だったと、ちょっとだけばつが悪くなる。館に落ち着いて、却って今までの疲れが出たような、母の辛そうな表情に気づいたからだ。
「若いから、しょうがないけど」
ほっそりと笑う。
入れ替わりに手や顔を洗い、煤や埃で汚れた着物を着替えた。終わると、先ほどの女中が、盆に載った食事を運んで来た。食堂のような場所で、見知らぬ人と同席して食事する憂鬱さがないことが、このときありがたかった。
卵の入った粥とおみおつけ、鮭の焼いたのに、小芋の煮物が付いていた。食欲のあまり出ないまま、箸をつける。食後に、と出された紅茶は嬉しく、砂糖を幾匙も加えて、甘くしたのを母と飲んだ。
ほどなく、おみつら女中がご用はないか、と伺いに現われた。一番若いおみつが、やはりちょっとはしゃいだ声で、
「あたし共まで、朝からあんなご馳走いただいて、罰が当たりゃしませんかね」
などと朗らかに言う。声が明るいのは皆の気が和んでいいが、母を始め中年のお常も、それよりやや年下のおきよも疲れのにじんだ、暗い顔色をしている。
震災の恐怖も驚きも去り止まぬ上、今後の生活の不安が、知らぬ場所にいて、なお気持ち沈ませているのだろう。彼女らを見れば、確かに、きらびやかな部屋にうっとりしている場合ではない。
何とかしなければ、と覚悟に似た思いが、胸をつきんと過ぎる。
わたしは微熱の出た母をベッドに休ませ、女中らへもそれぞれ休むよう言った。銘々身体を休める以外に、取立てしてもらうことなどない。
母が静かな寝息を立て始めた頃、わたしは思い立ち、部屋を出た。妹御へこのたびの配慮の礼を言わねば、気持ちが落ち着かない。
絨毯を敷いた廊下を歩き、制服の女中が掃除をするのに会った。女中を捉まえて、「紫さまに挨拶をしたい」と伝える。
「どうでしょう、お会いになるか、わかりませんよ」
「いいわ」
妹御の部屋は、階下の奥にあった。わたしたちにあてがわれたのは二階の客間らしい。女中がわたしの来訪を扉越しに告げた。
「どうぞ」
と女の声が返る。それが妹御のものかはわからない。
女中が開けた扉の向こうに、長椅子に掛け、寛いでいる風に見える彼女の姿があった。和装で、それがこんなとき意外に感じる。
こちらに背を向けて掛ける先客の姿が見え、「あ」と、ちょっと慌てた。
壮年の紳士が、パイプをくわえたままわたしへ振り返った。口もとに髭をたくわえた、五十がらみの上品そうな男性だった。すぐに、素っ気なく顔を戻す。
「こちらへ、文緒さん」
彼女は、自分の隣りにわたしを呼んだ。その声に、対面して座る紳士が、「わたしはもう行こう」と、立ち上がった。
「また来るよ」
擦れ違うように彼は部屋を出て行く。パイプの奇妙な残り香に、何となく、わたしは彼の背を目で追った。不意に鳥の鶴を思い出す。千鳥格子の上着を着た肩から背が痩せ、つんと真っ直ぐだったからだ。
「久我篤弘子爵よ」
「え」
促されて、先ほど子爵の掛けた椅子に座った。
向かい合い、まず、今回の礼を告げた。それに簡単に彼女は頷く。何か返事をしてくれるものと待ったが、それきり。彼女の兄上である霧野中尉とのことなど、または家族のこと、家のこと、こちらへ問うべきだろうことも問わない。
気まずい沈黙に、わたしは腰を上げた。母のことも気になるし、少し居たたまれない。
それを止めもせず、彼女は見送りに、「皆様、どうぞお楽にしていて下さいな」と声を掛けてくれた。
無愛想ではあるが、親切は十分に見せてくれている。わたしは頭を下げ、部屋を出た。ちょっとため息をつく。
兄と親しいわたしの存在を、面白く思ってはいないのだろうか。たとえば、中尉が女であれば、妹御と同じく取り付く島もないような態度を、確かに取りそうな気もする。
どうであろう、よくわからない。
 
 
滞在が十日過ぎた。
その間、新聞で知ったのは、先の震災が大変な規模のものであったということだった。帝都全域にとその周辺にも及ぶ地震の被害は、中央省庁も含み、幾つものビルヂングをなぎ倒した。
地震後の火災により消失した家も多く、死者もおびただしい数に上る。畏れ多くも宮様方雲上人にも、被害に遭われた方がおられたとのことも知った。
皆で額を寄せ合い新聞を眺めていたが、誰もが言葉を失う事態であった。今消息を知るすべはないが、知人友人にも、被災した人があったかもしれない。
無事で、こうして雨風をしのげる場に身を置けることが、何よりの幸運だと、己を抱きしめたくなる。
母の微熱はだらだらと続いた。一度、紫様の計らいで医師の診察を受けたが、疲労とのことで、心配には及ばないらしい。
長く住んだ、何もかもと、思い出の詰まる屋敷を失ったことが、若いわたしとは違い、やはり尾を引いて一番に堪えるのだろう。
不意に思い出し、父の蒔絵の箱を開け、中のものを取り出してはまた仕舞う。それをままごとのように繰り返す仕草もあった。
ひっそりと父と語らっているようにも見え、また自分の気持ちを落ち着かせているようにも見えた。
どうであれ、美しい蒔絵の施された箱の肌を指でなでさする様子は、物悲しく、娘の目に痛く、切なかった。
父は自分亡き後を深く慮り、あの箱を遺してくれた。父が何を思い、何を願い、あのように凝った遺品を用意してくれたのかは、知れない。
けれども箱は、母のものだ。母だけのものだ。
わたしには、そう思えた。
 
雨上がりの午後、女中を連れ、庭を歩いた。明かりが倒れ、庭木が、以前夜会の折に眺めてときより乱れている他、そう変わりもない。
無聊の慰めか、ぽつぽつと人が銘々歩いている。
雨粒を貯めた花、ときに肩にさやさやと降る雫のつぶて。風はやや冷たい。
「後で、また言うけど、含んでおいて。決めたことだから」
ある思いつきを、話した。もう決めたことで、母にも了解を得てある。それを聞き、「そうね、それがいいわ」と、ここ珍しく喜色を頬に乗せたほど。
と、石畳を踏む靴の音が、こちらへ近づいてくる。音に振り返れば、それは震災の翌朝別れて以来、初めて会う霧野中尉の姿だった。
彼は小走りにやって来た。きれいに軍服を着、腕に硬い制帽を持っている。紛れなく凛々しく端正に、ちょっとずるいくらいわたしのまぶしく目に映える、軍人である彼の姿だ。
普段は浪人のお侍のような風なのに、と、胸の中で思うが、その彼も、わたしには涼やかで、ひどく慕わしい。
彼の登場に、わざとらしくおみつが、「あ、奥様が繕い物をするよう言われていたんだったわ」などと咳払いをし、「え」と驚くもう一人のお常の腕を抱くように引き、急ぎ足であちらへ行ってしまった。
こっちが恥ずかしくなるような、露わな気の使い方に、頬が染まる。
彼を見れば、何食わぬ顔で、いつもと同じくけろりとしてい、羞恥など感じられない。厚顔無恥とは、こういう人のことを言うのかしら、とおかしく思った。
「子爵に用のある上官のお供で来た」
「そう」
何となく、わたしたちは連れて歩き出した。彼に会えるのは、どんな状況であっても嬉しい。心がぽんと、ときめいて明るく跳ねた。
つかず離れずに、歩に連れ揺れ、指先が触れ合う。
彼の問いに答え、母のことなどを話す。
「紫様が、お医者様を寄せて下さったの」
「そうか」
「あのね、霧野様、わたし、落ち着いたら有馬へ移ろうと思うの。電車も止まってしまっているし、まだ少し先になるけれども…」
有馬には、父が趣味で建てた別宅がある。わたしや母は遊山がてらに一年に一度ほど、父は所用で関西に出た折などに宿にし、しばらく逗留することもあった。
そこへ移り、母の養生をし、これからのことを考えてみようと思ったのだ。いつまでもここに厄介になっていられる訳でもない。
「そうか」
あっさりと「そうか」などと、どうでもいいように繰り返す彼がちょっぴり憎らしく、わたしは片頬をやんわり膨らませた。
「霧野様は、「そうか」としか、おっしゃってくれないのね」
「他に何を言えばいい? 決めたのはあんただ」
ちょっと突き放すような、笑いの匂う声に、またわたしは頬を膨らませる。
少し拗ねた気分で、ふと思いついたことを口にした。以前、彼の友人の川島さんが言っていた、「あいつは、昔から女を泣かせることが、堪えない性質だ」とのせりふだ。その通りね、と言ってやった。
それを言うと、彼はわたしへ視線を戻し、
「誰に聞いた? そんなこと」
「だって、ご友人の川島さんがそうおっしゃっていたわ」
「川島? 何で、あんたがあいつを知ってる?」
もっともな彼の疑問に、そこでしまった、とほぞを噛んだ。川島さんとのことは、わたしが山本屋の淳平さんに暴行されそうになったことに直接絡む。おぞましく忌まわしい夏の出来事だ。彼の将来を考慮した川島さんの「恭介に言うな」という言葉がなくても、秘しておきたかった。
案の定、中尉は不審がり、「どういうことだ?」と問うてくる。うっかりもらしてしまった自分を呪った。
「霧野様、怒らない?」
わたしは上目遣いに、彼を見上げた。斜から鋭く見下ろす彼の瞳は、ちょっと尖って、わたしは怖く感じた。
「事によるだろう、とにかく言え」
「…うん……」
山本屋の淳平さんの名は出さず、襲われそうになったところを、危うく川島さんに救われたのだ、と、おずおず告げた。そのときに知り合ったのだと。
「誰に?」
叱るような声が降ってきて、身がすくんだ。わたしは首を振り、「知らない男よ」と答えた。いっそのこと、あの淳平さんの名を出してやろうとも考えたが、
『知れば、あのぼんぼんを、あいつ本気で半殺しにするぞ』
という、川島さんの言が甦り、抑えた。
彼はこうも言っていた。
 
『文緒さん、あんたのためなら、きっとやる』と。
 
そんなことに、鋭く見つめられながらも甘く胸が疼いているのだ。中尉の頬の強張りを認め、目に浮かぶはっきりとした怒りの色を見て、わたしはおかしなほど、今、うっとりとときめいているのだ。
「なぜ、俺に言わなかった?」
押し殺したような低い声には、顔を背け、わたしは「…だってあの後、霧野様は、わたしを遠ざけてしまわれたのだもの…」と細く返した。嘘ではない。けれども、足りない部分もある。
うなじの辺りで聞く、彼の機嫌の悪い舌打ちの音。
ちょうど庭の果て、あずま屋に着いた。何度か足を向けたことのある、洋風な椅子とテーブルが備えてあった。乗った灰皿には、誰かの吸殻が一本残っていた。
何気なくそれを目に入れたとき、不意に抱き寄せられた。乱暴なほどの仕草で、抗う間もなく、彼の腕に抱きすくめられる。
 
あ。
 
何の許しもなく、当たり前のように彼は唇を奪う。深まる口づけは、わたしを彼の腕の中で、うっとりと酔わせていくのだ。
怒りと、欲情。
熱い口づけに、彼の生な感情を肌で知る。そのいずれがより勝るのだろう、多いのだろう。頭をちらりと過ぎる思いは、触れ合う唇の熱にじんと切なくときめき、すぐに泡のように消えた。
「俺のものだ」
唇がやや離れたとき、わたしは彼の背へ腕を回した。言葉の返しのように、またはほしいと、ねだるように、背にやんわり爪を立てる。
 
「ええ。…文緒は、恭介様だけのもの」
 
あずま屋の陰に隠れ、わたしたちは、何度も深く、口づけを交わした。
日暮れが近い。もう一雨、きそうだった。



          


『祈るひと』ご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪