何度も何度も、戯れに喧嘩をしたり、
祈るひと(25

 

 

 

有馬に移ったのは、年を越した一月の終わり。

 

震災で荒れた帝都に吹きすさぶ冷たい風は、家屋敷を失い、また傷を負った人々を更に苦しめた。流感がいつもの年より多くの命を奪ったのだと、これは新聞と人の噂で聞いた。

霧野中尉の妹御の瀟洒な館に厄介になりながら、日を追うにつれ、母の憂鬱はひどくなっていくようだった。お喋りな性質でもないが、滅多と口を利かなく、涙がち、塞ぎがちになる。

何を言っても、どう励ましても、虚ろに薄く笑いを返してくれるばかりだった。

理性や忍耐では、どうにもならないほどに母の気持ちは落ち込んでしまっているのだろうと、傍にいるわたしには知れた。

裕福な商家に生まれ、やはり裕福な商家へ嫁いできた母には、今の試練が生まれて初めてほどの困難であるのではないか。

従うべき相手に添い、与えられた役割を自分の分として、細やかに不満なく果たしていく。その中で、母は幸福を味わってきたのだろう。父の死に関する意外、わたしはこれまで、鷹揚に満ちた母しか知らない。

幸福の基盤となる、かけがえのない居場所を破壊した今回の震災に、母はどうしようもなく戸惑っているのではないか。指示を仰ぐべき誰もおらず、よって何をするべきかも浮かばない。それが堪らなく恐ろしく、心を沈ませているのかもしれない。

するべきこともない退屈な日々に、母の手を握り触れながら、つれづれそんなことを感じた。

母の心情を量りながらくみながら、わたしは今自分に何ができるか、何をすべきかを絶えず胸に繰り返した。何の力もないが、少なくとも、若いというだけ、母よりわたしは頑丈なのだから。今、考えるのは、わたしの役目だ。

そんなときに頭に甦るのは、いつかの夜会の帰り、中尉がわたしへ告げた言葉だ。

『自分の食い扶持の心配をしないで済む人間は、どこかで脆い』。

それは、ときを経て、思い出すたび、ある痛烈さをもってわたしの胸にしみていく。

父という大きな木の幹にもたれ、雨も風も雪も、すべて豊かに茂った葉に遮られて過ごした。食べるべき糧の心配など、当たり前にしたことがない。そういった心配は、品下った者のすることであるとすら、感じてきた。

母の重く塞いだ表情を見、感じるのだ。脆いのだ、と。そして、翻って己を思う。

わたしも、脆い人間であると。

そんなとき、帝都を離れてみることを思いついた。何もかもあった土地を離れるのは、後ろ髪が引かれ心が沈むが、何も捨てる訳ではない。時期を見て、また戻ればいいのだ。

すぐに、別荘のある有馬が頭に浮かんだ。母にまず相談すれば、珍しいくらいに喜色を露わにした。非常事態とはいえ、人様の館に厄介になっている惨めさも、母の誇りや気持ちを逆なでしていたのだろう。

旅の交通の状態もあり、あちらへ知らせをやるなどの必要から、「年をまたいで」と話し合う。

その計画が始まった頃から、母に生気が感じられるようになった。よほど嬉しいのだろう、成田屋に係わる場所に住めることが。それは、亡き父を感じられる場所でもある。

「弥助(下男)と神田のおせんの所にも、使いをやらないと…」

母が母らしく、次々と旅の仕度に思いを馳せる様子を見ながら、わたしはふと、けろりとした様子で、安気に我が家に寄食していた、あの中尉のことをふと思い出す。

最初、彼を厚かましいと思った。ふてぶてしい、図々しい、変な人だと思った。学のある軍人というものは、あのように厚顔なおかしな人たちなのかしら、と自分からは遠く、得体が知れなかった。今も少し、思うことはあるのだけれども。

でも、

体裁が悪くても、不恰好であっても、それはすべて彼の強さなのだ、と今は思う。

そして、あのとき答えが出ず、仕舞いこんでしまった謎のその訳が、今のわたしにはわかるような気がする。以前、中尉に拒絶された際、わたしはある疑問を持った。

見知らぬ我が家に寄食するほど窮していた、と彼は明け透けに告げたが、ならどうして、今わたしたちが厄介になっている、この広壮な館に身を寄せなかったのか。仲睦まじい二人の様子から、妹御が窮乏した兄を厚く遇するのは、あまりに自然だからだ。

妹御の許を選ばなかったのは、きっとそれがし辛かったのだ。容易ではある、簡単ではあるが、彼の気持ちが、「三日も食わずにいた」状態であっても、それを避けさせたのではないか。

二度の流産を経験してしまったという妹の悲しみを思い、わたしとの恋を捨て去った人だ。この館は、彼女の辛苦そのものに思われたのではないか。猥雑な想像をすれば、子爵の愛玩物になっている彼女を知りながら、傍で感じていたくなかったのではないだろうか……。

見知らぬ他人の商家に寄宿する方が、よほど気安く容易だったのかもしれない。それは彼にとって、決して無駄なことではなかったのだ。

そう彼の気持ちを辿ってみた。

問いはしないだろう、忘れなくとも、口にすることはないだろうと思われる。

問わないその答えは、おそらくもうわたしの胸にあるから。

何となく、目つきの悪い、頑固な野良猫を、ちょんとその彼の像に重ねてみる。空腹でも、近場の鯛の切り身の皿ではなく、なぜか離れたメザシの皿を選ぶような……。

あ。

驚くほどふに落ち、頬が緩んだ。

身勝手で、利己的で、気紛れな。猫みたいな人。

逞しくて、とらえどころがなくて、しなやかに強い。

野良猫みたいな人。

 

 

歩きと人力車を使い、帝都を抜け、神奈川からは汽車になった。小兵衛というあの爺やが、列車に乗るぎりぎりまで付いてきてくれた。「お姫さんの命じゃから」という。

旅立つ前に、散々お世話になった礼を改めて母と二人で述べに行ったが、妹御の態度は誠に素っ気なく、「お元気で」と一言のみだった。

そうであるのに、女ばかりの旅立ちには、男手が必要であろうと、爺やを寄越してくれる配慮を忘れない。

表情や言葉とは不釣合いな優しさが、どことなく兄である中尉を思わせる。仲がいいのも当たり前。何もかも、よく似ているのだ。

狭い客車には人があふれていた。震災の影響で、帝都では不通になっている汽車ばかりだ。神奈川の始発から窮屈なほどに混みあっていた。駅からは弥助が合流した。長い旅に男手があるのは不安が減る。

車内で、駅で買ったお弁当を銘々使い、短い会話を交わし、車窓の景色に見入る。

母は嬉しいのだろう。「ほら、文緒」と窓を指してはわたしを呼ぶ。いつぞやの旅行の景色だと、どこそこのものに似ているようだの、明るい声を出す。

「ええ、そうね」

これまでとは違い、一等であっても乗客のひしめく窮屈な旅だ。それでも冬の有馬行きがひどく快いらしい母の声に頷く。

微笑を返しながら、知らずわたしは、帯に挟んだ手紙の字面をまぶたの裏に描いている。それは彼からのものだ。別れに際して、彼がくれたものだった。

ごく短い内容で、一度目を通せば、忘れようがない。

けれども、目にした後もわたしは、なぜかその手紙を肌から離せず、ハンカチと一緒に帯に仕舞うなどしている。

 

『いつか、迎えに行く。』

 

案外達筆な彼の字は、急いだのか左にやや流れていた。それを彼は、旅立ちの朝に自ら届けてくれた。言葉はろくに交わさなかったように思う。傍には母の目もあり、ただ少しばかり、意味を込めた瞳を交わらせた。

彼は握らせるように、わたしへ紙片を残し、「じゃあな」とあっさりと背を向けた。

手紙にするほどの言葉ではない。口に出して伝えれば済むほどのこと。それでも彼は、敢えて文字にし、わたしに渡してくれた。

それがひどく嬉しかった。胸が詰まるほどに、涙が込み上げるほどに。

『いつか、迎えに行く』。

その「いつか」は、すぐではないのだろう。有馬からの帰京の折りに迎えに来てくれる、などの軽い約束ではないはず。

それは、わたしへの改めての将来の誓いの言葉なのだと、すぐに察した。うぬぼれでなく、自然にそう悟った。だから、あの筆不精な彼が、敢えて記してくれる、のだと。

遠くはなくとも、それほど近くもない未来。その間を、わたしはやはり彼に焦がれて待ち続けるのだろう。ときに彼の素気無い仕草に拗ね、ふくれた顔もする。

けれどもやはり、胸を焦がして待ち続けるのだ。彼の花嫁になる、そのときを。

願いながら待つ。

祈りを込めて、心をときめかせ。ただ、彼を思い。

車窓は、汽車がちょうどトンネルをくぐったところを移した。途端に暗くなる客車にありながら、わたしの胸はぽんと、期待に躍っている。

ふと、有馬へ向かうこのレールが、彼との明日に確かにつながっていることを感じる。

 

せめて、心強く待つ女でありたい、と願う。

 

 

 

別荘に着き、旅装を解いてからは、母とたびたび温泉に浸かりに行った。なじみのある有馬の地に立ったそのときから、母の状態は随分と壮健な頃に戻った。

誰かの屋敷に厄介になるのではなく、自らの所有する別荘で寛ぐことが、何よりの薬になるのだろう。

ここ有馬は、温泉地として名高い。珍しく立派な、まだ新しさの残るインドの建築様式を模した町営の温泉施設もある。和風な旅館が軒を連ねる他、外国人専用のホテルや別荘などもあり、大阪から近く、繁華な賑わいがある。

温泉に浸かり、または神戸に足を伸ばし、不足していた衣装などをそろえた。穏やかな日々が続く中、ようやく落ち着きを取り戻したのは、母だけではない、女中らもそうで、わたしもそうだ。

避難に来たここですることといえば、震災で途絶えた知人友人との連絡。身体を休めることと、これからのことを考えること。

母の様子では一年でも二年でも、こちらにありたいような顔をしている。わたしも急ぐつもりはない。急いで帰京しても、住むべき場所もないのだ。家を造り直すにしろ、計画もし、時間をかけねばならない。

ただ、母と違ったのは、有閑なだけの日々に、少しずつ倦みに似たものを感じ出したことだろう。

女中らを連れ、この辺りにもある映画に行く。洋食を食べに出かける。神戸、京都に短い旅行に出る。近くの温泉に浸かりに行く。

文句など言えない恵まれた日常に、ふと、兆す、焦りに似た感情があるのだ。このままではいけないような、何か足りないような……。それを日々の単調さから、変化を望んでいるのだろうか、と考えた。けれども小旅行をしても、消えない。

不満などなが、手持ち無沙汰な思いは胸にずっと尽きない。屈託ほどの重さのない悩みの根が、何であるのか、不意に知れた。わたしは、これからの目的がほしいのだ。

 

母と出かけた近くのホテルは、外国人の姿も見られた。そこでお茶を飲み、お菓子を食べる。そのとき、サロンの中に見知った人影を見た。

友人の聡子さんとその兄の淳平さんの姿だった。母上の姿もある。こんなところで何をしているのだろう。あの家族も、有馬に避難していたのだろうか。

「あら、成田屋の奥さま、文緒さんじゃないですか」

「はあ…」

どちらともなく気づき、存在が知れれば、無視もできない。山本家へは母とおざなりな硬い挨拶を交わし、そのまま失礼した。

素っ気ないわたしたちの態度は、母上と聡子さんには不思議でならないのだろう。けれども合流し、仲良く会話を続けていくなど、わたしにも母にも無理な相談だった。

ちらちらとわたしを盗み見するかのような淳平さんの視線が、堪らなく不快だった。

「ここ、山本屋さんが泊まっているのだったら、もう来るのを止しましょう」

「ええ、嫌な巡り合わせね」

その後で、ぶらぶらと温泉街を歩いた。冬のことで、浴衣歩きのお客はいない。女中らの土産に、蒸し立ての温泉饅頭を求めた。

それを提げて別荘へ戻りながら、ふと、この界隈にあるような、ちょっとした宿屋をやってみるのもいいかもしれない、などと思った。

「ねえ、お母さん」

母に話を振れば、「まあ」と呆れ、わたしの話をからからと笑う。

「どうして? 小さな宿屋なら、おかしくないわ。商いも小さくして、たとえば婦人のお客専用にしてもいいし。お食事だけ出してもいいかも。もちろん鳴り物(三味線等)や芸妓衆を入れない宿屋よ」

「文緒…」

自分でも驚くほど宿屋に関することが湧いて出てくるのに、道々、その案を母に話しながら、ちょっとあ然となった。

今まで宿屋をやることなど、考えたこともない。温泉やどのひしめく有馬に来て、あちこちの宿屋の温泉には客として浸かった、けど、それだけの話だ。

「敷地の奥に別でわたしたち用の家を建ててね、そこで住むのよ。ね、宿とはお玄関が別だから、便利よ」

「文緒、あんたったら…」

案が尽きるほどあれこれ話し、母がちょっと困ったようにわたしを見るのさえ気にならなかった。

不意に思いついたことではあるが、探していた目的に、その思いつきは胸でぴたりとはまり、一つになった。

わたしは、やってみたいのだ。自分の手で、商売をしてみたいのだ。

それで食べていきたい。

それは、自分の足で立つこと、そんな気がした。

叶うのか、そうでないのか、今は判断がつかない。けれども、計画に譲れないほどの情熱を感じた。冬の風になぶられても、頬が火照り熱い。

「お母さん、宿屋をやりましょう」

 

 

霧野中尉へは幾度か手紙を書いた。

それには時を置いて、短い返しが届けられる。わたしや母の健康をうかがい、自分も壮健であることを伝えてある。

手紙のやり取りに連れ、いつしか冬が暮れ、春が芽吹き出す。

庭先に鶯の声が聞かれるようになり、彼からのはがきが届いた。

「あ」

文字に心が躍った。思わず吐息がもれるほど、胸が高鳴った。文面は、じき、そちらに行く旨の知らせだった。

予定が立たないのか定かではないのか、「じき」とあるばかりで、いつかは知れない。それでもはがきの文字にわたしは胸を弾ませ、それを母にも見せた。

「ねえ、霧野様がいらっしゃるの」

母はこの頃、ようやくわたしの宿屋をやる計画に賛成をしてくれ、二人でよくその話をした。

母ははがきを見、「よかったわね」と笑った。その笑顔を見ながら、わたしは、自分が結局我侭なお嬢さんでしかなのだ、としみじみ知れる。

母の意に沿わない中尉という男性に焦がれて、将来を約束してしまっている。母の気持ちを頓着する余裕もなく。それを母は、あきらめか譲歩か、妥協かで、既に許す気配を見せてくれている。

宿屋をやる件もそうだ。わたしがあんなに推すから、どうしてもやりたいと言うから、母はそれを認めて許してくれたのだ。

 

ごめんなさい、お母さん。

 

母の優しさはこんなとき沁みる。ずっと離れないで、幸せに、大事にしてあげたいと思う。

ありがとう、お母さん。

 

 

西日の差す部屋は、光の熱で、ぼんわりと温かかった。

彼に抱きしめられているのに、頬は涙が伝いぬれ、わたしは唇を噛んでしまっている。

堪らない悔しさと、切なさと、彼への憤りが、言葉を発すれば、止め処もなくあふれそうになる。

わたしは彼の胸を押した。本当は離れたくもないくせに、拗ねと甘えと怒りで、こんな仕草をさせる。

「嫌」

さっき急いで羽織った襦袢の襟元を、彼の指がやんわりと剥ぐ。再び露わになったふくらみに、彼が唇を寄せた。

「こんなままで別れたくない」

次、いつ会えるのか。

いつまた抱き合えるのか。

わたしにも、彼にもそれが知れない。

なのに……。

こんなままで別れたくないのは、わたしも同じ。

「ひどい…」

わたしの涙にぬれた頬を、彼が両の手のひらで挟んだ。逸らす顔を上向かせ、何度も交わした口づけを、力ずくでまた繰り返すのだ。わたしが決して抗えないと知りながら。

ずるい。

「なあ、俺の名を呼んでくれ」

ふくれつつも、泣きながらもわたしは、口づけの狭間に憎くて恋しい彼の名を呼ぶ。

 

「恭介様…」

 

不意の邂逅のその後味の悪さ。

苦い涙でそれを噛みしめている。

 

好きだけど、嫌い。

だけれども、

好き。

大好き。




          


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