諦めないでついておいで
祈るひと(26
 
 
 
霧野恭介から成田文緒へ
 
『最後にあなたに会ってから、随分経ってしまったように感じるけれど、まだ二月ほどにしかならないのですね。
お元気ですか。
いつの間にか桜も散り、晩春。じき、夏の気配です。
 
あなたと別れてから、あれこれと悔やみ、悩みました。こんなことを書くと、実に僕らしくないと、あなたは笑うかもしれません。でも事実です。
別れ際の、涙で赤くしたあなたの目を、よく思い出します。何もあなたは言いはしませんでしたが、罵られ、なじられでもしたように感じています。
僕らしくないと、あなたはおかしく思うでしょうが、実際そればかり考えてしまうのです。
僕の何があなたを怒らせ、傷つけたのか、とりとめもなく考えています。
 
不意に現れ、僕はあなたにちなんだちょっとした出来事に不機嫌になった。言い訳をすれば、限られた時間に、余計な邪魔物を目にし、ひどく面白くなかった。あの彼に妬いていたのでしょう。
そして、あなたという人に不似合いな、うらぶれたあんな場所で抱き合うことになったこと。
僕は不機嫌さに黙り込み、まるで追い込むようにあなたにそれを選ばせたことを、ひどく悔やんでいます。
あなたは頷いてくれたけれど、本音では不快に思ったでしょう。強引にあなたを自分のものにしてしまった僕を、憎んだのではないでしょうか。
振り返って、僕に思いつき、妥当だろうと思われる原因は、これくらいです。
または、一つが理由ではなく、僕が原因となるこれらが、複合的に絡み、あなたを怒らせてしまったのかもしれません。
 
今、陸大の講義では、連日戦術論の模擬戦をまたやっていますが(地図上で碁を打つようなものと思って下さい)、その狭間であなたのことを思っています。目つきが悪いせいか、伏し目にし考え込んでいれば、ひどく深沈と策を練っているように見られ、誤魔化しが効くようです。
 
あなたを怒らせた僕の行為を悔やみつつ辿りながら、あの日の出来事を、僕はいやらしいから、また、何度も繰り返し思い出してもいます。
あなたの白い肌や、その柔らかさ、現実的な重さ、あのいい匂いのした身体。忘れられずに思い出し、あなたに会えない日々に、ひどく焦がれています。
 
あなたに会いたい。
 
会えたなら、詫びれば許してくれますか。また笑ってくれますか。
僕を殴っても蹴っても構わない、会ったら、どうか許してほしい。
あれきり、にしないでほしい。
 
僕は、堪らなくあなたが好きだ。
 
 
追伸 今月の末に研修で渡米し、帰国は翌々月の中頃になります。
この手紙は、読んだら燃して下さい。僕は構わないが、あなたには不名誉なことが書き散らしてあるから』
 
 
 
霧野中尉からの手紙が届いたのは、五月半ば。有馬にも、心地のいい初夏の風が折りに吹かれるようになってから。
わたしは、その手紙を自室にしている庭に面した部屋に持っていき、封を切り、一息に読んだ。その間、息を詰めていたのか、読み終えて何度も大きく呼吸を繰り返した。
庭に猫が入り込んできたのが見え、わたしは手紙を袖にしまい、腰を上げた。この別荘では庭にニワトリを放してある。野良猫が狙いに来たときは、皆、こぶしを振り上げる素振りをして猫を追い払うのだ。
「誰か、ねえ、鶏を小屋に入れて」
声を大きくして、人を呼んだ。別荘番がやってきて、ほうきを使い、上手く小屋に誘導していく。
有馬の別荘は、帝都の屋敷より随分大きな庭があった。そこにはニワトリを数羽放し、裏には別荘番の夫婦が野菜畑を作っている。父の好みで、趣を変え、こちらは田舎風に拵えてあった。
縁側のややかげった場所に、腰を下ろし、素足をぶらりとそこから下げた。彼の手紙を袖から取り出し、何となく辺りをうかがった。伸ばした足をまた戻し、横座りにし、封から出す。
一度読んであるのに、二度三度と読み直す。目が、便箋に連なる彼の書く文字から離せないのだ。
それは、目で追いながら、思わずこちらの吐息がこぼれるような、熱のある、そのままの彼の告白だった。
喧嘩別れとまではいかずとも、あの宿を先に出て行った彼の背を見送った、歯噛みのしたくなるような後味の悪さ、気まずさ、そして彼への恨めしさは、二月の時間を置き、やや薄れていった。
どうして、あんな風になってしまったのかは、よくわからない。あのときの自分に立ち返らなければ、多分はっきりとはしないだろう。ただ、夕刻には汽車に乗る彼との時間は、急き立てられるようで、あまりに少なく、頼りなかったのだけは、今も鮮やかに覚えている。
別荘を出て、それからあちこちをぶらりと二人で歩いた。いつものことで、大した会話もなかった。そのとき、偶然に山本屋の淳平さんの姿を見た。お勤めの新聞社はどうなったのか、彼もだらだらと有馬に滞在しているからだ。
ごく下らないこと。
それが原因か、中尉の機嫌がちょっと悪くなり、彼との時間の短いことで、わたしも不安な気持ちになった……。
彼の問いが甦る。不機嫌な声ではあったが、それは、決して手紙にあったような強引さなどなかったはず。容易く断れたはず。
 
『俺なら、触れていいのか?』
 
なのに、わたしはその言葉を受け容れた。
おそらく、本音を言えば、密な時間であってほしかったのだろう。思い出に残り、何度も思い起こし、胸のときめくような、そんな甘やかな思い出にこそしたかったのだろう。
あのときのちょっとした激情のような気持ちの動きは、冷静になった今、思い起しただけで、全身が羞恥に熱くなる。
思いがけない出来事は、戸惑いの中で、わたしを確かにときめかせた。ときに息が途切れるほど激しく胸が高鳴り、頬が熱を放ち、肌が震えた。
悔いがないといえば、嘘になる。
けれども痛烈な過ちであったとは、思えないのだ。操を捧げるのであれば、それは彼以外いないのだから。
そして、それは決して他言できない秘密である。その秘密を彼と共有できたことにも、甘美な酔いがあった。
あのときの涙の訳、わたしはすっかりつむじを曲げてしまったのは、彼のある言葉が原因だ。すさんだ、少しかび臭いにおいのしたあの宿のせいなどでは、きっとない。
そんなことではないのに。
 
『生娘は初めてだ。俺は女郎の味しか知らん』
 
何の言葉の接ぎ穂か、ふとそんなことを、わたしを腕に抱いたまま言った。耳にした途端、かっと顔が火照った。
何の気のない言葉であったのだろう。今はそのようにくめる。手紙にも他意のない彼の本音が綴られてあるのだから。
そのときは、尋常な状況ではなかった。素肌をさらし、初めての出来事に、わたしは自失に近い状態ではなかったか。すぐに彼と別れなければならないことも、切なく寂しく、これから先の不安もあった。
すぐにわたしは、玄人の女性と自分を比べられていると、彼の言葉をひがんで取った。身体の小さいわたしの肌など、そういった女性に比べ、極めて貧弱に感じたのではないか、と惨めになった。
堪らなく恥ずかしくなった。
そんなことを、肌を合わせたなりのわたしへ剥き出しに伝える彼が、憎らしくなった。ひどいと思った。
憤りは他、あふれるような羞恥と混じり合い、わたしの瞳を涙でいっぱいにした。
彼がわたしの涙の訳を、どう理解したかなど、頓着できる心境ではなかったのだ。
別れ別れに宿を出たのが最後。わたしはそれきり、定期に出していた手紙も書かなかった。あの思い出に、何を書いたらよいのかまとまらない。
「いつか、はがきなり、書こう」そう思って、気まずさのまま、筆をとる気になれずにいた。
どのみち、夏前には、一度帝都へ行くことになっている。宿屋をやる計画が進み、新たな土地を神田に求め、まずはと、小さいながらも屋敷を建てさせている途中なのだ。
そうして、宿屋の計画と新たな屋敷の造作に、気を紛らわせていた。
そのまま二月を過ぎ、不意に今頃彼から便りがあった。
封筒の裏に書かれた「霧野恭介」という彼の名。その名はいつ目にしても、簡単にわたしの胸を揺さぶる。つきんと、乳房を突くようなときめきが走る。
何度も読み返し、何度も目が追う彼の文字。追伸に渡米を知らせる他、手紙を焼却してくれとある。誰かの目に触れれば、大変な内容の手紙であるが、わたしはそれを捨てられはしない。
ずっと前に彼へ記した手紙で、あまりに他愛のない羅列であることから、「読んだら捨ててほしい」と同じように追伸に書き添えたことがあった。
それに彼の返しは「読み返すから捨てない」と答え、「届いた以上僕のものだから、自由のはず」などとも書かれてあった。
そっくりそれと同じ。
わたしはこの彼の心情を綴った手紙を、どこかきれいな箱にひそめ、好きなときに取り出して読み返すのだ。
彼に何を贈ってもらったこともない。彼の存在がすべてで、ほしいと願うこともないが、それでもこの手紙は、とびきりの贈り物だと思った。
嬉しさに、知らず頬が緩む。自分を抱きしめたいような沸き立つ喜びがある。
指で文字を辿り、筆圧を感じ、便箋に顔を当てる。少しインクの匂いが残るばかりの紙に、いつかの彼の肌を感じているのだ。
 
何にも要らない。文緒には、恭介様だけでいい。
 
彼からの恋文を、わたしは抱きしめていた。
 
 
家が建ったのは六月の下旬。その知らせを受け、母と二人上京してきた。
震災の爪痕は今も深いが、それでも人とは逞しいもの。それなりに街は息を吹き返しつつある。
どこを歩いても、必ず工事の音や光景が目に入った。倒壊した数多の建物を目の当たりにした者にとって、その様子は、しみじみと頼もしく嬉しいものだ。
元の日本橋の屋敷より二まわりも三まわりも小さくした屋敷は、母とわたしのそれぞれの部屋と、女中部屋、納戸、居間、それに客間を二つ設けたばかり。
前にあったような仏間は敢えて設えなかった。母の部屋の次の間につなげて、三畳ほどのお仏壇を置く専用の間を作ってもらった。これは母の希望だ。
前の屋敷でも何度か手を入れはしたが、ちょっと壁を直すだの部屋を増やすだのいじるほどのことで、今回のような丸ごとが新しいのは、母もわたしも初めての経験だ。
しかも、迷って土地を選び、間取りをあれこれ考え、すべて二人で作り上げたものだから、そわそわした嬉しさは、ひとしおになる。
すぐに有馬から居を移す訳ではないが、下見に滞在し、足りない家具など揃え、日本橋に残した荷をこちらへ移す作業がある。あの元の屋敷の蔵の地下には、いまだ母の大事にしている呉服物が幾らもあるのだ。
真新しい畳や壁の木材の匂い。母もわたしも、女中らも、うきうきと新しい家に立ち働いた。
庭師を入れ、西に向く五十坪ほどの庭を整えた。小さな池も作り、近所のお祭りの夜店で獲った金魚を放した。
「お嬢さん、こんな中入れたりしたら、そりゃ大きくなりますぜ。鮒みたいになる」
庭師が笑ったが、それも面白いと思った。池は元の家にもあった。母の声で作ったのだ。やはり、あの家との何がしかのつながりはほしい。わたしも同じ気持ちだった。
家が整えば、母は女中を連れ、知人へ挨拶まわりを始めた。わたしも行方の知れた友人たちを訪ね、互いの無事を喜び合った。
早ければ、来年の夏前にも、と計画している宿屋は、人の意見も聞き、部屋数を抑え、控え目な営業にすることを決めてある。これには元の成田屋の大番頭が、あれこれと走り、案を手伝ってくれた。
そして、これも以前我が家の奉公を長く勤めた元女中のおせんの嫁が、堅い旅館勤めの経験があり、営業した際には、仲居として働きに来てくれることになった。
その建築の手筈も済み、母と二人ほっと息をつけば、七月に入っていた。
暑さが本格的になる前に、と蔵の地下に隠した呉服物を移すことになった。これには、あの霧野家の爺やが手伝いにやってきてくれた。
先日、わたしは過日の改めての礼と新居の挨拶に、霧野中尉の妹御へ手紙を出しておいたのだ。何の返しもない。もしかしたら、返事の代わりに爺やを寄越してくれたのかもしれない。
彼女のやり方は、素っ気なくぶっきら棒でありながら、合理的で実に的を得たものが多い。兄上の中尉に本当によく似ている。
荷車に包みを載せた。雇った男衆に神田まで引いていってもらう。作業の終わりし、額の汗をハンカチで拭っていると、これは涼しい顔をした爺やが、ひょんなことを告げた。
「若は、今月の十六日に船で、横浜にお帰りなさる」
 
え。
 
驚くわたしをそれきりにし、爺やは、母から受け取った礼の袱紗を「かたじけない」とあっさり懐に入れる。
下男の弥助を付けた荷車が行き、爺やが飄々とした足取りで去った。
「暑いわね、大した力仕事もしないのに、汗かいたわ。ねえ、文緒、どこかで休みましょうよ」
母懸案のこの呉服物の運搬が済めば、厳しい暑さの前に、また有馬へ戻ることになっていた。そのせいか、東京での一仕事を終えた母の声は、からりと明るい。
その母の声に、わたしは「え、うん…」と覚束ない声を出した。
先ほどの爺やの残した言葉が、今も耳を離れない。既に横浜までの地理をおぼろに考え出してもいる。
女中らを連れ、通りのパーラーに入った。冷たいサイダーで喉を潤した頃には気持ちが固まっている。
 
会いに行こう。恭介様に。
 
 
空は真っ青に晴れ、風の少ない暑い日だった。
わたしは日傘を差し、おみつ一人を連れ、横浜埠頭に向かった。こちらも震災の被害があり、深い青を映す目の端には、ビルヂングの倒壊した瓦礫の山が目に入る。
それでも東洋二位を誇る港には、大型の汽船が幾艘も係留されていた。出迎えの人々の姿も多く見られる。
広大な港を歩くうち、欧米の水兵さんに握手を求められた。彼らには和装の女が珍しいのだろう。ちぐはぐな日本語を話してくるのがおかしい。
赤レンガをの倉庫を背に、海風になぶられる。倉庫に掛かった大時計で、到着の時間がもうじきなのがわかる。
ならば、海に船影が見えるはず。漁船のような小さ目のものが見えるばかりで、それらしい船が見当たらない。
また振り返って、時刻と場所を確認する。
そのとき、風にぷんと強めの香水の匂いが舞ってきた。そう思えば、装いを凝らした女の群れが、わたしの横を通り過ぎ、前を行く。彼女らは出迎えに群がる人のやや後ろに立ち、互いに何か話し合っている。
華やかな、一目で芸妓など玄人の女であることが知れた。人目をそばだてている。
「洋行帰りの旦那をお迎えでしょうかねえ」
おみつがひっそりとそんなことを告げた。
そうかもしれないが、そうであれば、下品な振る舞いだと思った。玄人の衆であれば、慎み深く、旦那であろうが誰であろうが、ひっそりと迎えるべきではないか。昼日中、堂々とそれとわかるよう飾り立て、しなを作り振りまく彼女らを、いやらしいと思った。憎む理由はないが、好きになれない。
一目彼の姿を見られればそれでいいと、観念してここに立っている自分との差異が、腹立たしいのかもしれない。
ふと、短い嬌声が上がった。
気づけば、タラップから人が下船し始めている。涼しげな麻の背広を着た人々に混じり、ワンピースの婦人の姿もある。ふと、自分もあのようなワンピースをこしらえてみようと思った。
そのとき、思いがけず軍服の人々がタラップを降りてくるのに、「あ」とわたしは傘を取り落とした。「まあ、お嬢さん」と、おみつが拾い、差しかけてくれる。
一般の客船のようであった。とうにその船は目に映っていた。まさかその中に軍人が乗船することなどないと、別な船を探していたのだ。けれどもその船から、次から次と、かっちりと軍服を着こなした人々が降りてくる。
あきれたことに、地上に降り立った彼らに、先ほどの玄人の女たちが取り巻いたのだ。
「まあ」
「軍人は遊ぶのが多い」と、いつかの彼の言葉を思い出す。その言葉に偽りはなさそうだ。取り巻きの中にいる将校らは、それぞれ華やかな出迎えにまんざらでもないようである。何かを女に手渡している者すらある。
帰ろう、そう思った。
じき、彼の姿も目に入るだろう。
その彼があのような玄人衆に取り巻かれる姿など見たくない。ましてや、それに笑顔を向けなどしたら、わたしは悔しさに泣き出してしまうかもしれない。
タラップから目を背けようとしたとき、見覚えのある背の高い彼の姿が見えた。暑そうに、首の辺りを緩めている。制帽を頭から外し、脇に挟んだとき、何気なくこちらへ顔を向けた彼と、目が合った。
距離があるのに。
まるで、無造作に折った折り紙の縁が、ぴたりと重なるように。
瞳が触れ合った。
タラップを降りた彼へ、幾人か女が取り巻いた。軽い嬌声が上がる。その光景に、わたしは眉をひそめ唇を噛んだ。「あ」というほどの間で、それらを彼は雑に左腕で払った。
こちらへ駆けてくる。
「あ、あたし、風に当たってきますわ。ここ、暑くって。ふうふう」
背後でおみつの、気遣ったそわそわ声がした。それにわたしは何も返さなかった。
幾度かの瞬き、それですぐに彼との距離が終わる。ちょっと手を伸ばせば触れられそうなほどに、もう彼は近くにあるのだ。
よく知るこめかみ辺りの傷痕に、汗が伝っている。わたしはそれを、帯に挟んだハンカチで拭ってあげた。彼は背が高く、屈んでもくれないから、少し爪先立ちになる。
ハンカチを持ったわたしの手を、彼がつかんだ。ハンカチごと痛むくらいに固く、彼の手のひらがそれを包む。
別な手で、頬に触れる。それで、彼の脇の制帽が落ちた。
 
「文緒」
小さく名を呼ぶ声。
不意に彼が背を屈めた。ほんのちょっと前、そうしてくれなかったのに。指で日傘の端をつまむ。
 
あ。
 
日傘に陰に隠れ、わずかに唇が触れ合った。
吐息のように、密かに、ささやかに。



          


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