どうしたら君に、この気持ちが真実だと伝わるだろう
祈るひと(27
 
 
 
港では、幾つか言葉を交わした。
いつかのように、「一人で来たのか?」、「帰れるのか?」と投げられる子供扱いした問いに、わたしは頬をふくらませてしまう。
「ええ、女中があるわ」
やや拗ねて返しながら、わたしは、自分へ注がれる瞳、先ほど頬に置かれた指、とっさに触れた唇に目を走らせ、ただ彼を感じていた。この彼が、あの手紙を書いたのだ、と。
わかりきったことに、ときめいていた。
わたしは手短に、新しく屋敷が建ち、そこにしばらく滞在しているのだと告げた。「ふうん」と返し、彼は指の節を唇に当てた。それが、何かちょっと思案するときの彼の癖であることを、わたしは知っていた。
「夜になるが、行っていいか? 話がある」
「ええ、なあに?」
答えず、彼はゆらりと首を振り、落とした制帽を拾う。時間がないのだろう。
わたしが神田の住まいを答えれば、「え」と驚くから、それが珍しくおかしい。
前の屋敷のあった日本橋から居を移したのは、宿屋をやる計画のため、と補おうとして抑えた。時間がないのだ。余計なことを話していたくない。
彼は制帽のつばを指でつまみ、頭に載せた。
「じゃあ、後でな」
この後、軍へ出向かねばならない彼とは、その場で別れた。
遠ざかった彼が、向こうの軍服の人々の中に混じってしまう。もう、いずれが彼か、判断がつかない。
瞳を離しがたく、それでも目で追えば、幾台もの大型の自動車に将校らはそれぞれ乗り込み、間もなく視界から消えた。
気づけば、いつの間にか玄人の衆の姿もない。おみつが小走りに戻ってきた。彼女は気を利かせ、わたしと中尉から離れたところにいたのだ。
こんな風なおみつの機転は、ありがたく思いはするものの、恥ずかしく、やはりちょっとだけそのしたり顔が憎らしい。
それでも、わたしは暑い中のねぎらいに、氷水を食べましょう、と誘った。これにはおみつの気を逸らす、照れ隠しもあった。
「霧野様は、凛々しくて男前でいらっしゃるから、将校さんの中でもおもてになるでしょうね」
停車場へ向かう道々、おみつは日傘越しに、そんなことを言う。
「そうかしら」と、気のない素振りで答えながら、下船した彼にすぐと取り巻いた芸妓らしい華やかな女が数人あったことを、わたしはくっきりと意識していた。
おみつは、「あの中に…」と前置きし、
「お嬢さんを、すごい目で見ているのがありましたもの」
「え」
停車場に着けば、乗り物を待つ先ほどの玄人の衆とかち合った。彼女らも同じのに乗るらしい。
女たちの扇子を使う、香水の匂いのする風が流れてくる。風下に立つのが癪で、わたしはベンチを立ち、わざと離れた場所に移った。
「ほら」と、おみつがわたしの袖をちょんと引く。それに目を向ければ、一人の女と目が合った。前髪を耳の辺りへ流行りの洋髪風に流してある。きれいな波形をしてあるのを見れば、熱こてで整えてあるようだ。
ふと、芸妓であるのに、あれでどうやって日本髪を結うのだろう、と考えた。
遺恨の残る目を向けるから、こちらから視線を避けた。住まう世界も常識も違う。関わり合ういわれなどない。
「ちょっと」という女の声が聞こえた。おみつが背後から、かばうようわたしの前に動いた。それに目を戻せば、「ちょっと」というのが、さっきの洋髪の女を引き止めた仲間の声であることに気づく。
洋髪の女は、わたしのすぐ前にまで近づいていた。
「霧野様とは、どのようなご関係で?」
赤く塗った唇が問うた。その不躾に呆れたわたしが答えるより前に、おみつが前に出、応じた。
「そんなこと、あんたたちに関係がないでしょう」
「あるかもしれないじゃあ、ありませんか」
おみつの声に構わず、間延びした声で、女は自分が新橋の芸妓であることを述べ、その勤めの座敷によく軍人の客があると続けた。
「将官のお歴々のお供で、将校のお若い方々もいらっしゃるんです。霧野様も…」
「黙りなさい。失礼よ、あんた。こちらは大店のお嬢様で…」
おみつの制止を、わたしは彼女の肩を押さえ止めた。女の話の先が知りたいのだ。彼の名を出し、どうして無遠慮にわたしに絡むのか、知りたい。
女は得意げな目をわたしへ向けた。化粧は濃いが、若く美しい顔立ちをしている。
お歴々が帰った後では、若い将校らが残り、無礼講に遊ぶこともあるという。そういう場合の花代や飲み代は、上官が持つ場合もあれば、芸妓らが自ら身銭を切ることもあるのだとか。
自腹を切り遊ばせてやるほど、軍服をまとった若き将校たちの男性的な魅力というのは大きいのか。場違いに、あきれてしまう。
タダで飲め、まして芸妓と遊べるのであれば、あの貧乏ったれの中尉でなくとも、断る男は稀であろう。
「お酒を過ごされて、眠ってしまわれた霧野様に、あたし、膝をお貸ししましたのよ。何度も」
女はぽんと自分の縞柄の着物の膝を叩いて見せた。「梅若、と手をお引きなさるの。わたしの膝がとっても寝やすいのだって…」。
続く、まるでのろけのような話は耳障りで、わたしは女から顔を背けた。
女の視線を頬に感じながら、彼女は、この日の再会で知った中尉の特別な存在らしいわたしへ、腹いせに、ちくりとした嫌味を投げてやりたかったのだろう、と気づく。
多分、彼女も彼を好きなのだ。
程度の差こそ、あれ。
おみつはわたしの様子をうかがい、気遣わしげな視線を向ける。電車が入る音が聞こえた。にび色の車体が見えた。そろそろ停車場に着く。
わたしは日傘を外し、閉じた。手のひらでぞんざいに巻き、梅若と名乗った芸妓を斜ににらみつけた。
「恭介様は、手近なものを、必要なとき、当たり前に利用する人よ。あなたの膝もそう。うぬぼれはお止めなさい、見苦しいわ」
「あ…、あたし、共寝したことだって…」
女郎を買う彼だ。触れなば落ちん風情の芸妓なら、欲望で当たり前に抱くだろう。
 
「だから、何?」
 
そのまま顔を背け、おみつを促し止った電車に乗り込んだ。並んで座席に腰を下ろす。遅れて、先ほどの女たちがぞろぞろと乗り込んだ。
離れた席から泣き声が届く。朋輩らの宥める声がするから、梅若が泣いているらしいと知れた。
「文緒お嬢さん…」
おみつが肘でちょんとつつく。「構わないでおきなさい」、わたしはここで初めて扇子を使った。日傘を差し、同時に扇子を使うのは、母が好まない仕草だ。それがわたしの嗜みにもなっていた。
暑さより、車内に漂う、女たちの濃い化粧の匂いが不快だったから。それを開いた窓へ掃き流すようにした。
「うふふ、お嬢さん、格好よかったですよ。あの梅若って女の唖然とした顔ときたら…」
おみつの面白がる声を、わたしは取り合わないでいた。扇子を使い、風を流し、そうしながらまだ止まない女の涙の音を聞いている。
馬鹿な人。
彼のために泣いた数では、わたしの方がきっと多い。
ずっと多い。
 
 
彼がやって来たのは、深夜に近い時間だった。夏の暑気がぐんと緩み、過ごし易い頃合。
軍服の上着を片肩に掛け、帽子は頭にずれて乗っかっていた。少しお酒の匂いがする。問えば、これまで帰国の祝賀会だった、と言う。
居間に通すと、新しい屋敷にきょろきょろした後で、
「おふくろさんは?」
わたしは、おみつに運ばせた冷茶を彼の前に置き、首を振った。「有馬よ。先に戻ったの」と答えた。
彼は口に運びかけた茶碗を途中で止め、茶托にまた戻した。喉が渇いた、と言っていたのに。
浴衣の帯からハンカチを出し、汗の粒が見えた額を拭ってあげる。その手を彼はちょっと雑に払い、尖った声を出した。
どうして一人でいるのか、と問うのだ。
母は夏の盛り前に、有馬へ戻った。霧野中尉の出迎えに残りたいとわたしが告げれば、母も残ると言ったが、暑い中新しい屋敷のことや日本橋の土地の件など動いたせいで、くたびれた様子が見えた。元から線が細く、頑強な性質ではない。
それで、母だけ先に戻ってもらったのだ。あちらの方が、温泉にも浸かれれば、暑さも少しは過ごし易い。
「一人じゃないわ。弥助(下男)がいるし、おみつも残っているもの」
それに中尉は、苛立ったようにちっと舌打ちで答えた。冷えたお茶を一息で飲み干し、
「おふくろさんは、こっちへいつ帰ってくる?」
「さあ、決めていないわ。でも、きっと秋になってからよ」
「あんたも明日、有馬へ戻れ。危ない。また、いつかみたいに襲われるぞ」
「まあ」
彼の言いようがひどく、わたしはそっぽを向いた。選りによって、あの忌まわしい事件を引き合いに出さなくてもよいではないか。あれも、ちょうど夏……。
「ひどい、霧野様を待っていたのに…」
ふと、嫌悪する記憶が甦り、彼から身を背けたままで腕を抱いた。その腕を、彼が無造作に引いた。
「心配して言ってるんだ。前みたいに、いつでも都合がいいときに、歳(川島)が用心棒になってはくれん」
「なあ」と抱き寄せる彼の腕の中で、わたしはしばらく泣いた。涙の意味は、一つに絞れない。
言葉の乱暴さへの憤りもあるし、去年の夏の嫌な思い出がまだ頭に残り、それから逃れる甘えのようなもの。また、あの出来事の後、初めて会えた、彼への思いがあふれたせいでもある……。
そして、少し尾を引く昼の出来事も、確かに涙の一因ではあるのだ。
「嫌い、霧野様…」
「拗ねないでくれ、俺が悪かった。すまん」
彼は、ちょっと強引にわたしの顔を上向かせた。言葉もなく、そのまま無理に口づける。
少し抗った。腕で彼の胸を押し、顔を背けようとした。涙はまだ止まらない。ほどなく、わたしのぬれた顔を彼がまた自分の胸に抱いた。
「嫌い、なんて言わないでくれ。気になってしょうがない…」
 
え。
 
問いたげな瞳を向けたわたしを離し、彼は軍服のポケットを探った。中から手のひらに乗る小さな箱を出し、わたしに渡す。起毛の小箱には小さな外国語が刻印されていた。
「開けてみろ」
促され、開ければ、つるつるした箱の内装に、銀の指輪が納まっていた。銀の台に小さな赤い粒の石が飾られている。
「向こうで買ってきた。目の肥えたあんたには、気に入らんかもしれん。でも、もらってくれないか。着けなくてもいい…」
彼の言葉を仕舞いまで待たず、わたしは涙を浴衣の袖で拭った後で、指輪をそっと台座から抜き、かざし持った。少し型が大きそうだから、右の中指にはめた。そこにぴったりと合う。
「…どうして?」
母が持つものや、父から贈られたものに比べ、確かに石の大きさは劣るが、白金らしいリングは、高価そうに見えた。
中尉といえば「貧乏」が、わたしの頭には刷り込まれている。その理由は、お母上の療養費がかさむことであると聞いていた。
その貧乏ったれな彼が、どうしてこんな高いものを、と嬉しさの影で、不審でもある。
お母上のご病気が、療養不要なほど、快癒に向かったのだろうか……。
「母が死んだ。…もう、金の使い道がない」
何気なくほろりと告げた彼の声に、わたしは一瞬息が止まる。
「あ…」
彼は、悔やみはいいとわたしを制した。最後を看取った妹御が、「眠るみたいだだった」と言っていたと言い添えた。
「息子のくせに冷たいが、悲しみも何もない。ちょっとした喪失感と、肩の荷が下りたような変な空疎感だけなんだ」
髪をかき上げ、空いた茶碗の縁を指でちんと弾く。
その仕草を見ながら、おかしな人だと思った。学があるから、聡明な人だから、余計な解釈をくっつけてみるけれど。
それが失った悲しみなのだと、思う。説明など、つかない。
わたしは彼の言うように、お母上の逝去については何も言わず、彼の指を握った。
しばらく黙った後で、「ありがとう、これ」と礼を言った。
「毎日するわ」
はめた指を彼へ見せた。それに彼は微笑んだが、どこか照れ臭そうに、「そんなものを女に買うのは、初めてだ」とつぶやくように言う。
「本当は、もっと先にこんなものを贈ってやるべきだった。あんたには、俺は何にもしてやってない。もらってばかりだ。すまん」
「これはとっても嬉しいけれど、……わたし、恭介様から贈り物をほしいなんて、ちらりとも思ったことはないわ」
それに彼はちょっと笑った。彼の指を握ったわたしの指を外させ、自分の手のひらで包み直しながら、
「それは、あんたが結構な身分のお嬢さんで、何の不自由もないからだ」
「だから」と、彼がその後に言葉をつなぐ。それは、わたしの頬を熱く火照らせた。けろりとした顔でいる彼を、わずかに憎たらしく思わせるのだ。
 
「だから、俺みたいなのに、惚れるんだ」
 
人は、自分にないものに憧れるものだから、と彼は言い添えた。その言葉は、すんなりとわたしの胸にしみ入っていく。
粗野で、雑で、軍人で、貧乏ったれで、けれど聡明で強くて、逞しい……。そんな彼は、大店の娘のわたしの目にひどく珍しく鮮烈で、まぶしかったのをよく覚えている。これまで自分の回りに、そんな男性は、一人としていなかったから。
ふと、父の士族への強い執着心を、こんなとき思い出す。誰の目にも立派で仁者であった父が、密かに士籍を買い出自を偽っていたことを。
父のその執着心を、わたしは彼から聞かされたとき、驚愕の後では、心のどこかで恥ずかしいと思った。奉公人に影で嗤われる父の行為を、あさましいとさえ感じた。
けれど、それでいいのだ、と今は思える。それも、父なのだ、と。
ないものに憧れるのは、自然なのだから。誰に迷惑を掛けた訳でもない。ささやかに、自らの叶う虚栄心を満たした、それだけのこと。
娘のわたしが、それを偉そうに恥じる権利など、絶対に、ない。
「ねえ…霧野様」
わたしは、彼に問い返した。ないものに憧れるのであれば、彼がわたしを求めるのは、どうして、と。
彼は少し笑った。自分の事柄のときだけずるく、それで紛らそうとでもするように見えたから、わたしは「ねえ」と、甘えた声を出し彼に言葉をねだった。
彼は煙草を取り出し、口にくわえた。「俺か…?」と言った声が、それで少しつぶれる。案外これで、彼なりの照れ隠しなのかもしれない、と思えば、それも微笑ましい。
「あんたを初めて見たとき、人形が動いていると、びっくりした。こんな人間もいるんだと、驚いた」
「市松人形でしょう」
わたしは少し、拗ねた声を出した。好まないあの市松人形にたとえられるのは、嬉しくもないからだ。幼い頃ならともかく、今はそれほど似てもいないのに。
「あんたみたいな女を、俺は、多分傍で見たことがない。ひどく、珍しかった」
「あんたみたいな」の部分が何なのかを問おうとして、唇を開いたが、そのままで止まる。彼の言葉に、声が出せなかった。
 
「一目惚れだった」
 
胸が高鳴った。彼の告白に、ちくんと痛むほど心が躍った。
しばらくの後で、わたしは開きかけた唇で、問う。先ほど言いかけたのとは、別のことだ。
「でも、恭介様は、わたしに冷たくて、意地悪だったわ」
「手に入る訳がないのに、何で媚びてやる必要がある。俺は…」
言いさした彼の声にかぶせ、
「無駄なことはしない、のよね」
彼はちょっと驚いたのか、ぱちぱちと瞬きをした。煙草を灰皿にもみ消す。
言い草は言い草で、ふくれたくもなるが、彼の言葉はわたしをふわりとときめかせ、うっとりとした喜びを連れてくる。
そのちょっと陶然となる思いに、昼の面白くない雑事も紛れ、溶けていく。
わたしは、やんわりと彼へ身をもたれさせた。彼が立てた片膝に頬を寄せる。何となく、甘えた気分になるのは、嬉しいから。彼が傍にいることに、ときめくから。
「あんたに嫌われたんじゃないかと、ずっと悔やんでた」
彼の指が、洗った後で緩く夜会巻きにしてあるわたしの髪に触れた。いじるから、すぐに解けて、髪束が肩に落ちる。
「もう、知っているくせに」
抱き寄せられながら、やはり恥じらいで、わたしは彼の瞳を避けた。口づけの狭間で、彼の指がわたしのうなじに触れる。背をなぜる。
その仕草に、いつかの、あの触れ合いがふと甦り、わたしは羞恥に身を硬くした。それに気づくのか、彼の声が降る。「大丈夫だ、何もしない」と。
 
「あんたのことは、大事にしたい」
 
「文緒」と彼のわたしを呼ぶ声が、耳元に届く。滅多に呼んでくれない、わたしの名。やや焦れた響きを持つその声に、心へまた、つきんとしたときめきが運ぶ。
「来春陸大を出たら、大尉になる。そうなったら、結婚しないか? あんたには、きっと不相応だろうが…、絶対に失いたくない」
「あ……」
 
その言葉だけで、すべて満たされると思った。
彼に望むものは、何もないと。
 
「好き、恭介様…」
わたしはもう、自分のすべてを何もかも彼に捧げているはず。
今も、これからも。
きっと、そう。
 
「俺だけを見ていてくれ」



          


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