毎夜あなたを思いながら眠る
祈るひと(29
 
 
 
いつしか日が暮れていた。
この部屋に入ってから、彼に会ってから、わたしは時間を忘れてしまった。
薄暗がりに、自分の落とした襦袢の白と、彼のシャツの白が浮かび上がる。そんなことで、自分を包むこの部屋の薄闇に気がつくのだ。
この日彼は、これまで会えば必ず問うてきた「一人なのか?」、「一人で帰れるのか?」とは、一度も訊かなかった。
こちらを子供扱いしたその問い掛けを、わたしは拗ねた思いで聞いてきた。なのに、今は問うてくれないことに、うっすらとした不安を感じている。
彼は、どこか違う。
同じ顔をし、同じ声をしている。
彼からはごく小さなわたしの身体へ、優しく触れてはくれる。
「なあ」と呼びかける、または名を呼ぶその声。わたしの肌を探る瞳の色。組み敷くときの腕の加減、強さ。口づけの、数……。
それらのどこかに、わたしはこれまでの彼とは違った匂いを嗅いでいる。
明日から、正式には日付の変わった深夜に、彼はシナへ立つという。ほのかに戸惑うような、厭うようにもれた、「勇気が出ない」との吐息混じりのつぶやきは、わたしの頭を離れない。
貧乏ったれな彼が、およそ軍人らしからぬ、打算的な動機で仕官した理由も知っている。けれども、さすがに将校軍人。軍の任務について、わたしの前で、愚痴も不平ももらしたことなどない。
いきなりの近畿への大演習へも、陸大への入学も、異動も、また過去の出兵へも、彼はあっさり諾々と命に従ってきたように見えた。
今回は、違うのだろうか。
つぶやきは、豪胆な彼らしくなく、そのことに、わたしは落ち着かない。
寝台の下に落ちた襦袢を指で拾うわたしを、彼が背後から抱きすくめた。首筋に、唇が当たる。もう手のひらが乳房をいじっている。
襦袢を羽織ろうと抗うと、やんわりと腰を抱かれた。そうして、簡単に自由を封じられてしまうのが、恥ずかしくもあり癪でもある。
「もう…」
本音ではない憤りの声が出る。
それに彼は、笑いの混じると吐息で返した。「あきれてるか?」と、問う。
「なあ、抱かせてくれ」
「あ…」
何度も求めて触れたがる彼を、いやらしいと思いはした。好色な人なのだろうか、と腕にあり、ぼんやりと思ったりもした。
その彼の腕の力に押されてしまう仕草で、わたしは、しんなりと委ねてしまう。芯からそれを厭うていないのだ。それでも、わずかな恥じらいで、抗う素振りを見せる自分も、彼に劣らずいやらしい。そう、思う。
「ねえ、恭介様」
口づけの狭間に問いかけた。いつ、帰ってくるのか、と。それに彼はしばらく答えず、背に回した指で、わたしの髪をいじっている。
手の甲に長い髪束を巻きながら、
「三月か、半年か…。正直なところ、俺にもわからん」
その返しに、わたしは絶句した。そんなあてどもない任務を彼が負わされてしまったことへ、口にこそ出さないが、命を下したお偉方を密かに呪った。
「霧野様、お一人で?」
「いや、外務省の男と二人だ。追って、応援も出る」
その者とまず上海へ行く、と言った。そこである日本人を探すのが、一の目的らしい。それ以上は機密で、言及しなかった。
「危険なことは、ないの?」
「英語と、ある程度腕の立つのが、選抜の条件だった。…少々危険なのは、しょうがない」
ひどく難しい任務になるのだろう。わたしは返す言葉も持たず、ちょっと唇を噛んで、彼がくれる次の甘い仕草を待った。
軽く髪を巻いた手を彼が引く。それで、わたしはやや喉を反らせた。そこに彼が唇を触れさせる。何か彼がささやいた。「いい匂いがする」といったのかもしれない。
その優しい声に、わたしは涙がにじんだ。
いつ、次こうして彼に会えるのだろう。どれだけ離れていなければならないのだろう。気配さえ感じられない異国に向かう彼を、わたしは、どれだけ待てばいいのだろうか。
「どうして、恭介様だけが…?」
抑えた、せんのない愚痴がほろりとこぼれた。
それに彼は、ちょっと笑って答えた。けろりとして精悍な、ちょっとfだけ冷たいいつもの表情だ。そこに、以前感じた厭いも怖じた匂いも、もうない。軍人らしく聞き分け、彼はそれを自分の任務と、既に当たり前と、消化してしまったのか。
「俺が志願した」
「え」
「帰れば、二〜三年早く佐官になれる。早く上に行きたい」
「あんたは、偉いのが好きだろう?」と、小さく笑ってつなぐ。
 
え。
 
何を返そうと、わたしは言葉を探った。適した言葉が見つからないのは、彼の発した声に、わたしは心底驚いてしまったからだ。震えるように。いつか、どこかでわたしがもらした言葉、仕草、そんなものらを頭で繰り、答えの出ないまま、彼にそう思わせた自分を悔やみ、また恥じて、呪った。
ほどなく、わたしがやっと口にしたのは、どうでもよいことだった。
「でも、ご友人の川島さんは、霧野様は「放っておいても偉くなる」っておっしゃっていたわ。『銀時計組』だって」
「は? あんた、えらくあいつと仲がいいな」
からかうような、おかしがる声だ。「あんまり気を許すと、そのうちあの極道者に、色街に売り飛ばされるぞ」などと笑う。
「まあ」
人の気も知らないで、ひどいことを。わたしは薄く彼の背に爪を立てた。
「なあ…」
不意に、口づけが始まる。
男と女が、こんな風に蜜に唇を合わせることを、わたしは知らなかった。それを、わたしは彼から教えられた。
触れ合って、肌を重ねることも、そう。
ひどく切なくときめいて、胸が早鐘を打つように高鳴るばかりで、まだわたしはその真の歓びを知らない。いつか、それすらも、あるとき彼から授かるように覚えてゆくのだろう。
幾度も受け容れるから、本音では女の部分は、ちくんと軽くなく痛む。けれどもわたしはそれを彼の背に腕を回すことで耐え、その肌をやんわりと引っ掻くことでしのぐのだ。
ほしいのなら、何度でも。
幾度でも、わたしをあなたに。
わたしのために、敢えての危険を冒してくれる彼への思いが、込み上げるように、このとき胸からあふれくるのを感じる。
「愛しているわ」
痛むため、ほんのりまなじりには涙が浮かんでいる。それを彼は、いつかのように、ちろりと舌で舐めとった。
「泣かせてばっかりだ、俺は…」
「恭介様…」
「あんたのことを考えたら、急に怖くなった。…死ぬのが、怖いと思った」
だから、彼は、今日無理にわたしを呼び出したのだろう。強引な逢瀬を求めたのだろう。
「先の出兵でも、そんなこと、思いもかけなかったのに」。彼は、わたしの頬を指でなぜながらささやく。影になる彼のきれいな鼻梁の線。頬から顎にかけての、ちょっと鋭くもある輪郭。
わたしも指を這わせた。線を辿るように、愛しい彼の面差しを、瞳に焼き付けておくように。
「あんたを、一人にしておきたくない」
「きれいだから」と。「俺のものだから」と。
「心配?」
「少し…、……大分…」
こんなときにほろっとこぼれる、意外な彼のわたしへの弱音を、嬉しく、愛らしいと思った。それで頬が緩んだ。
何が不安なのだろう。こんなにすべてをあなたに捧げているのに。おかしくて、「生娘でないのに、もうよそにお嫁になんて行けないわ」と、いつもと逆に、からかうように言ってみる。
「処女の面して黙ってりゃ、そんなもの男にはわからん」
「まあ」
あまりの言葉に二の句が接げない。彼はときどき本当に口が悪い。これで徳川期には大旗本のお殿様、というのだから、呆れてしまう。
自分で、わたしを生娘でなくしておいて。
「どうして?」
「おふくろさんは、俺のことを、よく思っていないだろう? あんたには軍人なんかじゃない、別な金持ちの男が相応しいと、きっと願ってるはずだ。あの、何とかいった、何とか問屋の坊々とか…」
「止めて」
わたしは彼の声を、慌てて遮った。山本家の淳平さんのことなど、汚らわしく、思い出しもしたくない。名を耳にしたくもない。
彼は、離れている間に、わたしに格好の縁談が舞い込みやしないかと、案じているのだろう。母が推すそれにわたしが頷きやしないか、と。
「あ…」
母のことが会話に出、ここにきて、わたしは母への後ろめたさを強くした。もうすっかり夜。わたしがここで彼とこんな風に過ごしているとは、思いもよらず、露とも知らない。
おみつが適当に上手く言っておいてくれてあろうが、帰宅後に、どんな顔を見せればよいのか、また何を言われるやら、と途方に暮れた。どうしよう、と胸を暗い影が射す。
その苦い背信の感情を、今ひととき、わたしは飲み込んだ。後で考えればよいこと。別れが迫る中、彼の腕にあるこの刹那、そんなことを悩んでいたくないのだ。
「母は、口にしないけれど、わたしたちのことを、もう認めてくれているの。だから、妙な心配はしないで」
だから、とわたしは彼の首筋に両の指を置く。そして、まるで口づけをせがむように、唇をやんわりと開き、
「早く帰っていらして。文緒は、恭介様だけを待っているから」
 
 
この日、彼は濃紺の上下を身につけていた。縞のネクタイを緩く締めた。胸のポケットには、わたしが目にしたことのない眼鏡がのぞくのを、わたしは、ふと不審に目に留めた。
そうして、頭に深い灰色のソフト帽を載せる。また、硬い皮の薄い書類鞄を手に提げた。
凛とした軍服姿と、その頭に硬い制帽が載るのを見慣れたわたしの目に、目の前の姿は、すっきりと映えはするが、彼らしく思われなかった。
ちょっと老けて見え、どこかの得体の知れない紳士のように映った。
手伝って、背にわたしが上着を羽織らせるとき、つきんと刺すように胸が痛んだ。
これで潮なのだ、
これで、仕舞いなのだ、
そう思うと、涙があふれ出た。任務へ向かう彼を涙で見送るのは縁起が悪いと、わたしはそれを襦袢の袖で、そっと後ろを向き抑えて隠した。
振り返るとき、ふわんりと彼がわたしを抱きしめた。知った、もうなじんだ薄い煙草の香と、肌と髪の匂い。それらがぷんと鼻の奥を甘く軽くくすぐる。
つい先ほど寝台では、きりがないと、舌打ちしながら、わたしを引き剥がすように離したのに。今度は、同じ腕で、優しく包むように腕を回す。
どちらも彼。
どちらも、わたしの大好きな彼だ。
「ありがとう」
珍しい彼の言葉に、わたしははっとなる。おかしなことだけれども、初めて耳にする彼の「ありがとう」かもしれない。
それはきっと、この逢瀬の時間について、彼がくれたものだろう。共に、代え難い貴重なひとときを味わい分かち合った。礼を言うほどのことではない。
「わたしも…」
 
わたしも、抱いてほしかった……。
 
目が合えば、ほろりと、彼は花がほころぶようにきれいに笑った。その笑顔に見惚れ、わたしは短い小さな口づけに、触れた後で気づいた。
「じゃあ、またな」
扉が開く。
彼が背を向ける。
そして、扉が閉まる。
 
わたしは、一人になった。
部屋には、ほのかに重なった情事の熱が残る。



          


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