繰り返す日々以上に残酷なことがありましょうか
祈るひと(30

 

 

 

部屋には、壁にかかった大きな鏡があった。

それに身を映しながら、わたしは着替えを終えた。解いた髪は、一旦とかしつけ、ピンを使い何とか形を整えた。襟足のほんの残り毛以外、一筋の髪もこぼれてはいない。

涙をぬぐったハンカチを帯に仕舞い、その辺りを指でなぞった。鏡の中にわたしの顔が映る、その瞳の赤いのばかりはどうにも取り繕いようもない。

霧野中尉が出て行ってから、わたしはしばらく打ちひしがれたようになり、泣いていた。それは、子供がする泣きじゃくるような激しいもので、人目がないのをいいことに、はばからずわたしは悲しみに酔っていた。

ひとしきり泣くと、思いがけず胸が軽くなった。別離の切なさは、ひとときの高い波を越え、胸に抱えきれるほどのものに落ち着いていった。

備え付けの銀時計は、深夜十一時を過ぎたところを示していた。時間の経過の速さにはっとするよりも、おみつが、どうわたしの不在を誤魔化してくれてあるのかが気にかかる。

そして、心配してわたしを待っている母のことが浮かび、暗い気持ちになった。ため息が出る。

あれこれ上手い言い訳を練るが、とにかく早く帰宅することが先決で、わたしは部屋を出た。血のような色の絨毯の廊下を抜け、昇降機で階下へ降りた。

このような夜更け、受付が機能しているのか不安であったが、広々としたロビーには、いまだ人影がちらついてある。受付の人に頼み、車を呼んでもらうと、意外なことに、その用意はもうできている、と告げられた。

中尉が頼んでくれてあったのか、と思うと、ほどなく、濃い色の上下を着た三十を幾つか超えたような男性が現れた。

柔らかな物腰で、わたしを外の車へ案内してくれた。家まで送ってくれるという。運転手かと思いきや、彼はわたしを先に乗せ、自分もその隣りに乗り込んだ。「神田だ。出してくれ」と待機していた運転手へ命じる。

逢瀬の後の妙な火照りと虚脱感に、わたしはややぼんやりとしていた。そのわたしへ、隣りの彼が、自分の腕時計をちらりと眺め、

「そろそろ出航ですね。もう乗船しているはずです」

「え」

声に、わたしは彼の横顔に目をやった。こちらを見ようともせず、瞳だけ流し、やはりやんわりと穏やかな口調で、

「霧野大尉ですよ」

「あ…」

そうか、恭介様はもう旅立たれてしまうのだわ、そう胸につぶやいた。「上海へは、十日で着くでしょう」と簡単に添える男へ、わたしは問うた。

「あの…、軍のお方ですか?」

彼は首を振り、「外務省の人間です」と言う。そういえば、中尉は今回の任務には、外務省の誰かと一緒であることを言っていた。この人の同僚なのだろうか。

「海部といいます。総参謀本部とのつなぎ役ですよ。軍部の閣下連のいい使い走りでね。だからその命で、工作員に任務前、女を抱かせる世話までする…。よくあることですよ」

憤りと羞恥で、瞬時に頬に血が上った。今夜の逢瀬が、この人の周旋によるものであったことを知り、堪らない恥ずかしさが込み上げる。まるで抱き合うさまを、監視されてでもいたかのようで、ひどく不快だった。

睨みつけてやれば、海部と名乗った男は、あっさりとした様子で欠伸をした。

「芸妓をあてがうつもりでいたのですが、霧野は、あなたでないなら女は要らないと突っぱねた」

返事のしようもなく、わたしはうつむいて聞いていた。恥ずかしさに全身が燃えそうであるが、海部という彼がもらした中尉の言動は、わたしの瞳を嬉しさで、じゅんと潤ませた。

「野心からとはいえ、厄介な任務を自ら志願した彼は、上官の覚えもいいですよ。帝大出の箔もあるし、軍人に珍しく英語もできる。更に、妹が軍部に顔の利く久我子爵のお妾だ。今は大尉でしかないが、のち、相当に出世しますよ。投機で言えば『見込み株』で、今放したら、大損だ。良家のお嬢さんが、こんな破廉恥な無茶をするだけの値打ちはあるでしょうね」

やはり返事のしようもなく、わたしはうなだれて、車窓へ目を流した。

陸大を出た彼は、以前聞いていた通りに昇進し、既に大尉となっているらしい。けれど、わたしの中で彼は、今も「中尉」のまま。それは親しんだ通り名のようで、彼の霧野という名にぴたりと添う。

その「中尉」の言葉がふと甦る。今回の任務を受けた理由に、「二〜三年早く佐官になれる」、と彼は言った。

二〜三年。それだけの時間、他より抜きん出ることに、一体、彼にはどんな意味があるのだろうか。

立身への彼の焦りが、わたしには理解できなかった。わたしのため、と彼は言うだろう。けれど、こうして別れを強いられることが、わたしをどれほど苦しめるか、彼はわかってくれているのだろうか。

別離に涙を流すわたしを見、彼はその涙の意味を、どう捉えているのか。

偉くなんかなくたって、そのままでいいのに。そのままの恭介様がいい。

何よりも、文緒はそばにいてほしいのに。

馬鹿。

文緒の心も知らないで。

つい先刻までその腕の中にあり、うっとりと身を委ねていた、愛しい彼を胸で罵った。

 

恭介様の馬鹿。

 

わたしは、暗い街を映す車窓に目を向けたまま、隣りの海部氏へ口を開いた。ふと、これまで男がぺらぺらとつないだ言葉への、返事のしようを思いついたのだ。

運転手が腰掛ける前方を見つつ、

「わたし、恭介様の将来のご出世を頼みになんて、しておりません。あの方一人くらい、楽に養って差し上げるつもりでおりますから」

それに男は、何が楽しいのか、あははと笑った。笑いながら、上着の胸から名刺を出し、わたしへ差し出した。困ったことがあれば、頼ってくればいい、と言い添える。

「できることなら、力になりましょう」

わたしはその名詞をざっと眺めた。どういうつもりでこんなものを渡し、そんなことを口にするのか。問いが浮かぶより前に、海部氏は、当たり前の声で言う。

「これも先行投資ですよ。もう霧野へは、あなたに会わせるということで恩を売った。これは、あなたへ売る恩だ。忘れないで下さい、気の強いお嬢さん」

「まあ」

やはり、あからさまに、返事のしようのないことを言う人である。明け透け過ぎて、毒気を抜かれてしまう。

わたしは、名詞を帯に挟み、しまった。のち、中尉の帰国のことを問い合わせることなど、あるやもしれない。

海部氏は、わたしを家へ送り届けるだけでなく、家への言い訳も用意してくれていた。それは、わたしは今夜、霧野中尉の送別会を彼の妹御の館に招かれていて、別れが惜しく、この時間になってしまったというものだった。

「ご連絡なく深夜になり、ご心配をおかけして大変申し訳ありません。霧野大尉から、無事お送りするよう頼まれました。ええ、彼はもう上海へ向かいました」

帰宅後、玄関に走ってきた母の前に、彼はまじめな口調で、しゃあしゃあとそう偽った。

身なりのいい紳士然とした海部氏が、歴とした肩書きの乗る名刺を差し出し、穏やかに詫びれば、母も納得してしまうらしい。

一人、ホテルで泣きはらしたわたしの目がまだ赤いのも、妹御の館で送別の席に泣いてしまったことに、上手く決着がつく。

「お母さん、ごめんなさい。連絡もしないで…」

海部氏が引き上げた後で、わたしは改めて母に詫びた。いまだ帯も解かず待っていてくれていた母へ、自分の身勝手な行いの後ろめたさでいっぱいになる。

海部氏は、今夜、霧野中尉との逢瀬に出向いたわたしの振る舞いを、「破廉恥な無茶」と表現した。腹が立ち、その場は言葉も返せなかったが、それはそのまま事実を言い当てている。

母に知れれば、どれほどに悲しむだろうか、どれほどわたしを軽蔑し、恥じ、また憤るだろうか。

大事な母へ、決して口にできない己の行為。その残滓が肌に余韻として生々しく残るまま、わたしはまた詫びた。出てくるのは、詫びばかり。

「ごめんなさい、勝手に…。わがままだったわ」

母は、それにはもう触れず、「霧野様、ご卒業すぐに、お気の毒ね。でも、きっとじきにお帰りになるわ」と、わたしを慰めてくれる。

母の優しさもあるが、その目に、わたしは瞳を真っ赤にし、ちょっとぞっとするほど悄然とした顔色をしていたのかもしれない。

「お風呂に入っていらっしゃいな。まだお湯を落としてないから」

一人になりたく、わたしは母の前に湯を使うことをためらいながらも、また「ごめんなさい」と詫び、浴室へ行った。

脱衣場で帯を解く。衣桁に脱いだ着物をふわりと掛ける。襦袢だけになったところで、「失礼します」と、おみつの声がした。彼女は風呂の際、着替えの処理のため、いつもこうやって現れる。

わたしは生返事を返した。ほどなく引き戸が開いた。いまだ前掛け姿のおみつに、わたしは今日の件で小さく礼を言った。

「もう休んで、遅いから。悪かったわね」

おみつは屈み、わたしがかごに落とした足袋や腰紐を拾い、また衣桁の着物を腕に掛けながら、いつもとは違った声で、

「お嬢さん」

声に振り返れば、彼女は唇の辺りをもじもじとさせ、泣き出す前のような、すがめた目でわたしをじっと見ていた。

空いた指で、ちょんと自分の胸元を示した。「え」との間の後で、自分の同じ場所へ何となく目をやる。そこに、くっきりとした臙脂色をした口づけの跡を見た。少し落ちた、乳房に近い箇所に、もう一つ。

 

あ。

 

これまで、気づかなかった。

わたしはうろたえ、秘めた逢瀬を知られてしまったことに、唇を噛んだ。遅いのに、今更そこを襦袢の襟をかき合わせ隠す。おみつから背を向け、「もういいわ」ともう一度言った。

お喋りなおみつが、驚きか失望かで、言葉を失ってしまっている。

結婚の前に男に肌を許すなど、この時代、まともな女としては絶対にあり得ない。

生娘ではないことで、きちんとした娘としての価値は、半減どころではなく、ほとんどもう消えてしまうのではないか。

 

知りながら、

わたしは、彼と、愛し合った。

 

「お嬢さん…、あたし、言いませんから…」

「ありがとう」

彼女が母にこのことを口にしないのは、わかっていた。彼女はこれまでずっと、わたしの恋の味方でいてくれたからだ。

「お嬢さん」

泣き声のような、語尾の震える呼びかけに、わたしはゆらりと首を振った。どうしてだろう、言わでもがな、なことを、わたしは口にしてしまうのだ。

まるでぶたれでもしたかのような、驚きと怯えが混じった目を、おみつにこちらへ向けられることが、耐え難かったからなのかもしれない。

「初めてではないの。前にも…、あったの」

わたしはそれを潮に、襦袢を全て落とし裸体になった。他にも情事の跡を留めるものが、もしや、肌にあるのかもしれない。おみつはそれを、生々しく目にするのかもしれない。

けれども……。

自棄ではない。ただ、いつ帰ると知れない彼を待ちつつ、ただ一人で彼との大きな秘密を抱えることが、わたしはもう辛いのだ。

そのまま浴室に入った。いつものように何気なく引き戸を閉める。わっと、蒸れたひのきの匂いが辺りに香る。

湯気の上がる密室で、わたしはもう一度泣いた。

ひっそりと。

 

 

桜が咲いた。

宿の方は順調にお客があり、空室のある日はあるものの、まず不安のない状態が続く。それには、震災で廃業を強いられた数多の宿屋のひとときの代理という、目に見えない恩恵があるのは紛れもない。

温まる気温と新緑の香、咲きそろう花々の華やかさ。それら季節の移ろいと春の光景は、ぽっかりと空き、いつも隙間風の吹く胸の切なさを、慰めてくれた。

折に、母と出かける芝居見物。

新しく開いた百貨店であつらえた、水玉柄のワンピース。

また、家で飼い始めた白と黒の牛のような毛色をした子犬。これは、板前の一人が不憫がって、宿の裏口でこっそり餌をやっていたものだ。

わたしが不意にほしくなり、母の許しを得て、屋敷で飼うことにしたのだ。名前は板前が、既に「シロクロ」という奇妙なのを付けていたから、それにした。

せっかく飼うのだから、洒落たちょっと可愛いものがよいと思ったのに、いつの間にか誰も彼もが、「シロクロ」と呼び、なじんでしまったのだから、しょうがない。

手の空いた誰彼が、銘々散歩に連れて歩く。

からりと晴れた午後、わたしがシロクロの散歩から戻ると、珍しいお客があった。霧野中尉の友人の、川島さんだ。

ちょっと前に居間に通し、母が茶菓子で接待していた。縞のハイカラな上下を身に纏う、すっきりとしたその姿は、ひどく懐かしい。

今日は、なりた家へ、数人知人のお客を紹介に来てくれたのだという。霧野中尉から、わたしが母と宿屋を始めたと耳にしていたらしい。

関西の『その筋』の人たちらしいが、泊まるのは組長の夫人と娘二人という。彼が高校を出た後の修行に、厄介になっていた大層な組のお人なのだとか。

「歌舞伎と東京見物に来るんだが、定宿が前の震災で廃業しちまった。それでここを思いついた。いい評判を聞くし。でも、もし迷惑なら他を…」

「あら、そんな…」

母は顔の前で手を振った。わたしもためらわず、「来ていただきましょうよ」と口にした。

川島さんには、危難を救ってもらった大恩がある。母もそれを踏まえてのことだろう。

それに、こちらの迷惑をわきまえてくれている様子が、極道といえども優しげで、好ましい。ちらりとも、断ることは浮かばなかった。

そして、霧野中尉に深くつながる人だと思えば、わたしも、あれきり縁を断つ気にはなれないでいるのだ。

川島さんは震災では被災し、あの両国の家は潰れてしまったのだと言った。

「まあ、それはお気の毒に…。大変でしたね」

「なに、あんなボロ家、潰れても痛くも痒くもない」

「それでは、どちらかに疎開されていたの?」

母の問いかけに、彼はなぜか笑った。「まあ、一種の疎開になるか…」などとつぶやく。

「なあに?」

膝を崩しながら煙草を取り出す彼へ、わたしは中尉へのように易く問いかけた。あ、と気づき、頬が熱くなったが、知らぬ振りでいた。

ふと、重ねてしまう。その影に、姿に。親友である二人は、姿かたちばかりでなく、どこかほのかに、雰囲気までも似て見える。

それが、わたしの目に、心に、ゆかしいのだ。

「女のところだ」

「まあ」

「何人かいる。気分で、渡り歩いた」

返しに、母と顔を見合わせる。それでも目を見開いた後で、互いに笑みが唇に浮かぶのは、極道である川島さんとは、やはり距離があるからだろう。

「おもてになるのね。二枚目でいらっしゃるもの」

母も軽口を言う。

住む世界が違うから。その振る舞いが、不行跡であっても、交じり合うことのない他人であるから。劇でも観るように、おかしければ他愛なく笑えてしまうのだ。

恩人で、好ましくても、相容れない。こんなところに霧野中尉との差異を見つけ、わたしはその違いでもって、またあの人を恋しがっている。

 

川島さんの来訪から数日後、柔らかな関西弁の親子が、なりた家のお客になった。

『姐さん』と呼ばれる大層な組の夫人の方も、また娘さんの方も、いたって普通の名流婦人に見えるのだ。案外、そういった世界の人でも上つ方へいけばいくほど、市井の人たちと、見た目変わらないのかもしれない。

彼女たちは、観光の案内に宿へ現れる川島さんへ、「なあ、歳ちゃん」、「歳ちゃん、次はなあ」と気さくに呼びかけるのが耳に入り、わたしは仲居と一緒にひっそり笑った。

瀟洒ななりをしているので、すぐにその筋の人だとは気づかないが、肌には刺青も入り、目線や物腰など、やはりぞくりとする凄みのある彼なのに。

「歳ちゃん」と、女性に可愛らしく呼びかけられ、それに「はい」と慇懃に応える彼の様子がまた微笑ましくて、おかしいのだ。よほどの恩人であるのか。

面白いので母に言えば、その場を見てもいないのに、くすくすと長く笑っていた。

霧野中尉が帰ってきたら、ぜひ教えてあげようと思った。

彼ならきっと、親友のその様子をおかしがり、けらけらとあざ笑うに違いない。「ざま、ねえな」とでも言いながら。

 

 

霧野中尉の不在は寂しいものの、忙しい日々が流れる。

思えば、これまでも、便りのみの、数ヶ月会えないことが普通だった。なのに、その頃より、今、彼の不在が辛く堪えるのは、どうしてだろう。

異国にあるから。

厄介な任務を負う彼の身を案ずるから。

次の再会までが知れないから……。

幾つもの理由があり、それらが混じり合ったものだと知ってもいる。けれども理屈でなく、心が彼を恋しがるのだ。

それは、あんな逢瀬を味わった後の別れだからだ。また、思い巡らせるだけで頬に朱が差す、あの濃密なひととき。それすらを、わたしは切ながっている。

夜更けに床に身を横たえながら、不意に、彼の面影を甦らせ、自分を抱きしめているときがある。熱っぽく、瞳を潤ませて。

そばにいてほしくて。

また、あなたの腕に抱いてもらいたくて。

愛してもらいたくて。

唇を噛みながら、わたしは甘い焦れに涙しているのだ。

こんな思いは、彼がわたしに教えたもの。触れて、刻んだ、ぬぐえない生な感情。

「恭介様」

ひっそりと名をつぶやくことでしか、晴らしようのない、ぬれたため息。

途方に暮れるように、わたしは持て余す空虚に、瞳を閉じるのだ。

 

そのことに最初気づいたのは、やはりおみつだった。

彼女はわたし付の女中といってもよく、家事の他、わたしの身の回りの世話も受け持っている。

起き抜けに、着替えの世話をしてくれながら、おみつが物言いたげ瞳を向けるのに気づき、わたしは「何?」と返した。

普段明るい彼女に似合わない湿っぽさは、寝が足りず、あまり寝覚めの心地のよくない、この頃のわたしの神経を、やや逆なでする。

自室の庭に面した側の障子から、朝の清々しい日が入り込んでいる。その日に照らされ、三日前活けてもらった花瓶の赤い芍薬が、くったりとしおれているのが目立った。

「お嬢さん」

これまでも彼女のこの視線を感じたことはあるが、面倒で、問わずにやり過ごした。言いたいことがあるのなら、言えばいいし、これまで彼女は、割りにはばからずそうしてきたはず。

ふと、そのおみつの視線が、決まって二人きりのときに、意味あるように投げかけられてきたことを、このとき妙に意識した。

なぜだろう。

変に苛立ち、後ろから回った帯締めの余りを始末にねじ込みながら、わたしは硬い声で、もう一度問うた。

「何?」

「お嬢さん、…もう二月ですよ……」

「え」

何が二月なのだろう。

姿見の鏡に映る、背後に立ったおみつの顔をうかがう。鏡越しに、目が合った。ややすがめて細まった、普段に似ず深刻な色の瞳に、今頃わたしは、彼女の戸惑いの意味を悟るのだ。

毎月の、女の月のものが、ないことに。

 

あ。

 

敏く、おみつはこれまでその心配をし、不安げにわたしを見守ってくれていたのだろう。その可能性に、気づきさえせず、恋に溺れる、愚かなわたしの代わりに。

わたしは指の節を唇に当てた。その指には、霧野中尉からもらったあのルビーの指輪がはめられている。

指を唇に押し当て、わたしは鏡の中のおみつに問い返した。

どうしよう、と。

 

「…どうしよう」

授かったやもしれない命へ、このとき、喜びなど一抹もなかった。ただうろたえるばかり。

 

どうしよう。

 

それは、胸にこだまする、返らない彼への問いかけ。




          


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