野蛮なひとだからこそああだからこそ、
祈るひと(4

 

 

 

からりと晴れた空はみずみずしいほどに青く、うっすらとした雲がまるで青い絹地の柄のように見えた。

乾いた空気はまだ冷たく、風も頬をひんやりと滑っていく。

けれども、新暦の三月に入り、注ぐ日の長さが違う。そこからじんわりと降る温もりも、やはりごく浅い春めいたものであるのだ。

刺繍教室の帰り、わたしの傍らには、半ドンで上がった霧野中尉の姿がある。彼がわたしの稽古事の行き帰り、用心棒に付いてくれるという約束のためだ。

とはいえ、職務柄、そうそう暇がある訳もない。約束はこれまでに三度ほど果たされただろうか。

連続強姦殺人魔は、いまだ捕まっておらず、帝都では、若い婦人は薄暮時に重なる出歩きを控える向きにあった。

それがため、教室の時間を早くしてもらい、また家からちょっと遠い教室へはしばらく休むことを伝えるなどして、わたしも都合を合わせてあった。

麹町から、軍服のまま現れた彼の姿は、教室に通う友人らには好奇のたねだ。

「また中尉さんのお出迎え? 文緒さんはよろしいこと」などとの、やっかみが多くを占めるそのからかいは、耳にこそばゆくはあったが、不快ではなかった。

軍服の威厳とは大したもの。家では決まって、着流しの胸を寛がせ、だらしないようななりの彼も、腐っても帝大出。軍服を身に纏えば、人が変わったように将校らしく凛々しく見えるのだ。

それが友人らには、まぶしくもまた妬ましくもあるのだろう。

「ねえ、霧野様、軍のお仕事は、お暇なの? 半ドンのお休みを下さるなんて」

隣りの彼は、わたしの稽古道具の入ったちりめんの風呂敷包みを指先に引っ掛けて持ち、

「今はな…。近いうち、省内で異動になるまでだ」

ぽつりとそんなことをもらした。

「ふうん」と、答え、答えながら胸がざわめいた。「異動」という耳に慣れない言葉が、消えずふわふわと胸に残る。もしかしたら、彼はどちらかへ、行ってしまうことになるのだろうか。

わたしには関係のないことで、大したことではないはずなのに、次のことばを発せずにいた。

その沈黙を、彼はどう解釈したのか、ちょっとだけ笑い、

「心配するな、まだ出兵はない。誰も死なないさ」

あ。

彼は「異動」という言葉を、わたしが戦地に赴くことであると捉えたのだと思ったのだ。去年隆一を戦地で失ったわたしに、むごいせりふであると慮ってくれたのだろうか。

それは、わたしへの優しさに感じた。

「そう」

やはり、気のない返事を返し、わたしは黙ったままでいた。うつむき、自分の白い足袋先を見つめる。

こんなとき、気づくのだ。

わたしは、隆一のことを思い浮かべることが、ずっと少なくなっていることを。

ない訳ではない、ふと思いをめぐらせることはある。けれどもそれは日常に淡く解け、次思い出を辿るまでに驚くほどの時間があることを知ったのだ。

去る者、日々に疎し。

その事実は痛いほど、胸にしみた。自分の酷薄さがちょっと怖いほどでもあり、恋情の薄れがありがたくもあり、また遠くなる隆一の面影は、やはりちくんと切なくもあるのだ。

「たまには俺が奢ってやる」

「善哉でも食って行こう」と言う。ぽんと結った髪に彼の手のひらが触れ、すぐに離れた。彼はこういうことをよくする。

結い髪に、乱れるかもしれないのに無造作に手をやるから嫌で、そうされるとわたしはいつも彼を睨んでやるのだ。「触らないで」と。

今日は、その声が出なかった。「奢ってやる」など、妙なことを言うから驚いたのだ。

貧乏ったれな彼は、それゆえに我が家に寄宿している。そして、そのせめての恩返しと、こうしてわたしを送り迎えしてくれているというのに。

今日の彼は、やはり優しい。そんな気がする。

「まるで犬が喋ったみたいな顔をするな。たまには俺だって、女に善哉くらい食わせてやれる」

「女」と、彼が使った言葉が、どこかわたしの癪に触った。そこに物慣れたような響きがにじむのが、不快だったのかもしれない。

「なじみの女郎相手にも、よくなさるの?」

「…だったら、どうした?」

「不潔な女郎と文緒を一緒にしないで」

「ああ、それは悪かったな」

軽い舌打ちが聞こえた。

せっかくの親切を受け取らない、高慢なわたしに気分を害しているのだろう。けれども、詫びる気にはなれなかった。

黙々と歩を進めるうち、ほろりと彼の声が聞こえた。その声は何の怒りも含まず、ごく穏やかに耳に届いた。

「そう嫌ってやるな。わざわざ自分から身を売る娘なんかいない。皆、何がしか誰かのためだ」

あ。

その言葉に、わたしはほぞを噛んだ。感情のまま嫌な言葉を吐いた自分を憎んだ。

霧野中尉の妹御は、兄の彼のため、敢えて妾という日影の身を選んだのだ。華族のそれであっても、兄である彼には、その自分を思っての妹の選択がいつまでも胸に痛いに違いない。

日を追っても、事毎に、甦るかもしれない。ほろりと、わたしにさえもらすほどに。

…だから、女郎の境涯を憐れむ言葉が、おそらく自然に続くのだろう。

それでも、謝りの言葉は舌先に絡まり、ようよう紡げない。自分の足袋先を見、そして彼の軍靴を見つめた。

「食べてもいいわ、善哉…」

 

 

「今日、帰りに霧野様に善哉をご馳走になったわ」

わたしの声に、母は巻尺の端を唇に挟み、「あら、よかったわね」と頷き、前に背を向けて立たせた霧野中尉には、「すみませんね、文緒が」と、礼を口にした。

お昼の後で、母が言い出し、彼に作る着物の寸法を取っているのだ。くたびれて、着たきりのような彼の様が、母にはこれまで随分目に付いたようだ。

さすがに遠慮する彼に、「いえ、すぐできますから。何の造作もないんですよ」と言い押し切ってしまう。「うちは、ほら絹物が余っていますから」と、当座のしのぎに、既成の着流しを新しくはおらせた。

母は手早く裄丈を測り、巻尺を帯の中にねじ込んだ。

そこへ、襖越しに番頭の声がかかった。

「何?」

母の返しに襖を開けた番頭が、渋い顔で廊下の先へちらっと視線を流した。店の方だ。

「へえ、おねだりの衆が今…」

「変ねえ、今月は一昨昨日、お上げしたはずじゃないか」

番頭が言う「おねだりの衆」とは、この界隈を縄張りとした極道の組の者のことだ。月に一度、店の保護料という名目で、幾ばくかを納めさせる。

店には出ないが、わたしもその程度のことは知っている。

普段なら、番頭の判断で、決まった額をさっさと渡してお引取りを願う。柄のよくない男衆が古い暖簾のかかる町で、うろうろしていては他店の迷惑にもなり、何より店の

「今のは新規の衆でして…。どうしましょう? 折り悪く旦那様もお留守ですし」

母はちょっと眉を寄せていたが、すぐに「お上げして、いいから。早くお帰り願いましょう」と、手を払う仕草をした。

「へえ」

番頭が腰を上げかけたとき、空いた襖から店の物音が届いた。何を言っているのかは聞き取れないが、店の者を脅すように荒げた声がする。離れていても、気味の悪い剣呑な気配だ。

「一つ組だけなら慣習もあろうが、新規にそれはよくない。癖になる。俺が会ってみよう」

そう言い、寸法の後で立ったままでいた霧野中尉が、廊下へ出た。「霧野様」と慌てて番頭がその背を追い、興味で、わたしもつい廊下へ出た。

背後で、わたしへの母の制止の声が聞こえた。

彼はとうに大股に店に出てしまい、わたしはおっかなびっくりで奥内との境の硝子戸の前で佇んだ。

そこから、硝子越しに少しだけ歪んで三人の極道者らの姿と、真新しい着流しを着た彼の背が眺められた。彼は土間ぎりぎりにまで下り、ずるずるとした妙な洋服を着た男たちに対峙している。

こういった手合いには、商家は、荒立てずごく穏便に相対するのが常だ。番頭や手代、丁稚らが壁に一塊になり、首をすくめながら様子をうかがっている。

「ふざけるな」

何かを言い立てた男たちに、いきなり中尉は低い声で恫喝した。わたしは、大きくもないその声の凄味に、思わず目をぎゅっと閉じた。

恐ろしかったが、またすぐに瞳を開けた。

あの中尉は下品なところがあって、行儀が悪く、ときにだらしなくも見える。けれども、腐っても帝大出の将校軍人だ。聡明さも匂えば、ごく尋常な人柄で、また冷静な人物だとも知れる。

その彼が、このような威嚇に満ちた声を出すのが驚きでもあった。

微かに首を振ったせいで、斜めに横顔が見て取れる。目立つ、こめかみに近い辺りのすっとした傷痕。ここから、彼の表情はその傷と相まって至極冷めた険しいものにうかがえた。

「あ? もう一度言え。お前らみたいな連中に金を施す道理を、俺にもう一度わかりやすく教えてくれ」

どこか嘲笑がにじむ声音。

なんて豪胆な人だろうか。

何とはなしに、彼がまったく怖じていないことが知れる。怖くなどないのだ。

なぜならきっと、ここは彼が経験してきた戦場ではないから。苛烈な命のやり取りのない、日々の内のたまさかの殺伐など、彼にとっては恐ろしくなどないのだろう。

男どものざわめく様子が目に映る。強面に素人衆は怖気づくのが普通であるのに、その勝手がいつもと違い、彼らも戸惑っているのだ。

その様子が、やや離れた場所のわたしに、ちょっと小気味よかった。

ふと、中の一人が彼へ進み、中尉へ凄んで見せた。その男の手には、鞘を抜いた小刀が見える。

わたしの瞳が、瞬きを忘れて凍った。「止めて」と、唇を届かないかすれた声がこぼれた。

「いきがって調子に乗るなよ…」

男が無闇に突き出した腕を、中尉は造作もなくつかんだ。そのまま捻り上げる。向きとは反らして締め上げたため、ほどなくして男の手のひらから小刀が土間に落ちた。

「痴れ者。人に刃物を向けるな」

そのまま男の腕をどんと突き放す。

たたらを踏んで転び、土間に尻餅をついた男は、そのままくるりと外へ飛び出していった。慌てて仲間の二人も後を追った。

中尉は土間に折り、落としていった小刀を、暖簾をくぐり通りに放り出した。

わたしは硝子戸を開け、店先に出た。戻った中尉がわたしに目を向け、「出てくるな」と奥内を顎で示した。相変わらず、けろりとした顔をしている。

その彼の、絣の袂にわたしは何となくしがみ付いた。

「おい」

怖かった。

そして、何より安堵したのだ。彼が無事だったことに。

瞬きのごとに、瞳から熱い涙がこぼれた。

その涙の意図が、自分でも知れない。ほっとして安堵して泣くなどあるのだろうか。嬉しいときのように、まるで。そんなこと、あるのだろうか。

「懲りたはずだ。二度と来ない」

彼は片方の袂をわたしに許したまま、別の手でまた無造作に結い髪をぽんと叩いた。そうされたくないのに、嫌なのに。抗いの言葉が、涙で出ないのだ。

「飯代の一端なりにはなったか?」

その彼の笑い声に、わたしはやっと袖を話した。指先でにじむ涙を拭う。

すんなりとした着流しのその姿の、ちょうど帯に大小の刀を二本落とし挿しにして……。東京が江戸といわれた頃には、そんなような、彼のような腕の立つ凛々しいお侍がいたのかもしれない。

そんなことが、ふっと緩んだ頭に浮かび、わたしも少し笑った。

「昔の浪人者の用心棒みたい。霧野様は、この稼業できっと食べてゆかれるわね」

わたしの声に、ひょうきん者の丁稚が、「先生」と声を掛けたから、どっと笑いが起きた。

番頭手代が、小上がりに商談中のお客たちへ、騒ぎの詫びと茶菓子の接待に走る。

無意識に、わたしはつい、彼の手を引いて奥内への硝子戸を通った。少し握られた手に、自分から彼の手を求めたことにそのとき、初めて気づかされた。

「あ」

居場所をなくしたわたしの指先は、彼の手のひらの中で、ふと小さくすくんだ。

「あんたには、俺は嫌われていると思っていた」

「え」

わたしは自分から、触れた手を外し、両の手を重ね、胸元に置いた。胸がどきどきと鳴り、やかましい。鎮めるつもりで、強く押し当てた。

「…それならいい」

彼は再び結い髪に触れ、「じゃあな」と、離れへ戻っていく。




          


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