あたりまえだったもの、そうだったもの
祈るひと(31
 
 
 
懐妊の可能性に気づき、呆け、うろたえたのは、最初の五日ほどであったろう。
間違えであるかもしれない。よくある、おみつの早合点であるのではないか……。不安を押し込め、見て見ぬ振りで過ごしたのはその後十日ほど。
それからは、妙に心が決まった。どちらであるか、今は知るすべもない。独り決めして悩むより、霧野中尉の帰国を待とう、そう気持ちが落ち着いたのだ。
彼が傍にいてくれれば、万が一、仮にわたしが懐妊していても、早く夫婦になってしまえばよいだけのこと。彼は、それに否やなどないはず。
産み月の少々のずれなどは、ちっともおかしくなく、どうとでもごまかせてしまえるものなのではないか……。
足りない知識で、荒くそのように不安を押し込めてしまえたのは、わたしの生来のお嬢さん気質とそのふてぶてしさがある。そして、彼の帰国を頼みにすることで、問題を先延ばしし、わたしのふしだらな行いを知れば、ひどく悲しむに違いない母の心から、目を背けていたこともあるのだろう。
どうであれ、堪えて日を送るより他、わたしには何もなせることがなかった。
もしや、自分の身体の中に、小さな小さな彼との間の命が芽生えているのかも…、そうふと、感じるとき、ちょっと頬が緩むほど幸せを思うこともあり、また、別な瞬間には、まったく知らない世界に踏み込んでしまったかのように、不安で恐ろしく、以前感じた命の喜びなど、消し飛んでしまうのだ。
ふわふわ動く、身勝手な自分の感情を持て余し、ため息が多くなった。
 
暦が七月へ入ったある昼間、今頃になり外務省の海部氏から、霧野中尉が上海へ着き、任務に着いたとの知らせを受けた。いつの話をしているのだろう。
中尉が上海へ立ったのは、三月の話だ。十日ほどであちらへ着くというのに、今時分になって、とぼけた内容の知らせを寄越してくる海部氏へ、苛立ちが募った。
「ご多忙の中、早々とご丁寧なお知らせを頂戴いたしまして、大変恐縮に存じますわ」
皮肉をたっぷり声音に忍ばせて、返してやる。ちょうど居間で新聞を広げていた母が、顔を上げ、電話を終えたわたしへお小言をくれた。
「何、その返事のしようは? 聞き苦しいわよ」
わたしは、「ごめんなさい」とややぶすっと返し、机越しに母の前に腰を下ろした。遅い昼食を摂りに、宿から戻ってきた昼休みだった。
お常が、お昼のそうめんを運んできた。母が言ったのか、常備菜の煮昆布や香の物の他、副菜に、わたしの好物のだし巻き卵がふっくらと小皿に乗っている。
ここのところ、食が進まない。
母の手前、一口二口口に入れる。それ以上は胸がつかえたようになり入らないので、箸を置いた。無理をすれば、しばらく胸の不快が取れないのだ。
母はわたしの様子を怪訝そうに眺め、「度会先生に一度診ていただきなさい。夏風邪かもよ、暑くなってきたから」と、額の熱を測ってくれた。
日本橋に住んでいた頃のかかりつけの渡会先生は、神田に越した今も、車代を持ち、往診を請うている。
「いいわ、大丈夫」
わたしは食後で物憂くなり、ふと足を崩し、横座りにした。それへ母が、「あら」というような視線をまた投げた。母の膝は崩れていない。はっとなり、わたしはすぐに足を元に戻した。
休憩の後で、宿に戻った。お客の夕食が振舞われる頃には、かねてから決まっていた、翌月の料理の試食を行う。女二人の家で、試食のときは、いつもこれがわたしたちの夕飯にもなる。
鮎の焼いたの、昆布締めの鯛、あんかけを乗せた野菜の炊き合わせに、胡麻豆腐、天麩羅、酢の物、他お吸い物と鰻茶漬けに、水菓子が付く。量も多く、いつも残したのは詰め、女中の夜食にしてもらう。
このとき、わたしは食事を前に、堪らない胸の不快感に、ハンカチで口元を覆った。せり上がる吐き気が耐えがたく、母の目も板前の目も頓着する余裕すらなく、わたしは断りもせず、中座してしまった。箸をつけるより先だった。
お手洗いで、粗方胃の中の物を戻した。こんな強い吐き気はこれが初めてではない。じくじくといつも胸の重さが取れず、嘔吐感に悩まされている。
月のものが訪れなくなって、三月、…もう四月目。わたしはもう、はっきりと自分が身ごもったことを認めていた。
自分の部屋の日記帳、居間の日めくり、それら時の流れを示すものを眺めるたび、早く、早く、と中尉が帰るのを祈るように待っている。
 
もうぎりぎりなのだ、と。
 
これ以上時間が経てば、腹もふくらむ。しばらくは帯で人目に隠れもしようが、母は別。遠からず必ず気づく。
今でさえ、投げなれる、「あら」といった視線にわたしは怯えているのだ。
唯一、わたしの秘密を知るおみつとは、言葉にならない意味ある視線を交わし合い、日々、秘密の重さに絶え絶えと息をしていた。
蓮の葉の真ん中にぷっくりと溜まる水滴、それは夜露に雨に、刻々と増えていく。暑い日盛りでも、なぜか涸れようともしない。いよいよになり、水の重さに、首を垂れ葉の水滴をぶちまけてしまうさま……。
いつしかそんな情景が、頭を去らなくなった。
その蓮の葉に自分を重ね、問題を日延べしながら、いつ帰るとも知れない中尉に焦れ、わたしは途方に暮れている。
それがもう、堪らなく辛いのだ。
昼間、外務省の海部氏からの電話に妙に苛立ったのは、その連絡の遅さへの腹立ちより、わたしが日々、歯噛みをしたいほどの思いで彼を待つ、その祈りに似た気持ちを、逢瀬を知るあの男に、まるで茶化されたように感じたからだ。
 
夜更け、風呂上り、先に湯を済ませた母が、これも浴衣で、わたしへ冷えたサイダーの入ったコップを渡してくれた。飲み物は別で、好き嫌いなく飲むことができる。
縁側のガラス戸は、薄く開け、まだ閉め切っていない。蚊遣り線香を焚き、その香が煙と共に薄く流れ入ってくる。
「消すわよ」
母の声で、虫除けに、電気の明かりを落とした。そうしても、往来の街灯が、塀を隔て、ここにまで伸びてきている。暗くなれば、どうしてだろう、耳が冴えるように思う。
宿から届く小さな人声、女中たちの足音と何か後片付けの音。庭からは小屋の辺りで眠るシロクロが、何に興味を持つやら、唸っているのが聞こえる。
しばらく互いに黙って、わたしはサイダーを飲み、母はうちわを使っていた。
女中も交えない、一日の最後の母との二人きりの団欒は、心の落ち着くものだ。
父の死より、母との時間はより密になり、会話などなくても、また間に机を置いてあっても、まるでじかに手を触れ合っているかのような、温もりがある。
こんなこともある。黒地や茄子紺などの好みの藍地であれば、浴衣など、部屋着や寝間着に、互いの物を使い合うこともしばしば。これは、今までなかったことだ。
わたしが二十歳を超えたのを潮に、母娘であるのと同時に、対等な女二人といった、ちょっとした見地が、母にもわたしにも生まれてきたのかもしれない。
線香の匂いの混じった、夏の夜らしい風が、いい具合に吹いてきた。少し湿り気のあるその風が、頬をなでる心地よさ。わたしは眠気も混じり、うっとりと目を閉じた。
小さく欠伸をしたとき、母が、「ねえ」と声をかけた。
「霧野様、いつ頃お帰りになるの?」
この問いかけは、これまでも何度も母の口から出た。そのたびにわたしの返しも、似たようなもの。
「さあ…、ご本人も、わからないっておっしゃっていたから…」
母のこの「いつお帰りに〜」の問いは、霧野中尉が上海へ渡ってからの、彼の事柄へ触れるときの、枕詞のようなそんなような意味合いが出来上がっていた。「妹御に夏のご挨拶をしましょうか」や、「あの爺やさんに一度ご飯にきてもらっては?」などなど。
「あのね、文緒…」
母は言葉をためらうようにそこで切り、わたしへ瞳を流しながら、うちわの軸を指でもてあそんでいる。
「変な話を耳にしたの」。母がそう前置きしたとき、わたしはまだのんきにサイダーを口に含んでいた。
「なあに?」
「おかしな話なの。怒らないでね。……あんたが、まるで…身ごもっているみたいなようだって、言う人があってね…」
語尾を濁しながら、母はわたしへちらりと探るような目を向けた。投げた言葉の反応を見ているのだろう、と感じた。
「暑いせいね、具合が悪そうなのも。ちょっとした仕草が大儀そうに見えるから、見ようによっては、そんなように映るのね」
わたしは唇に触れさせたままのコップの縁を、かちっと軽く歯で噛んだ。答えようがなかった。
おみつが母にもらしたのだろうか。知っているのは彼女だけだ。何食わぬ顔で、わたしの着替えを手伝った、先ほどのおみつの様子を思い起こしてみる。
返事をしないわたしを、母が気を悪くしているのかと気遣い、
「ごめんね。まさかね、まさかあんたがそんな…」
「まさかね」と、やたらと繰り返した。
「お母さん」
わたしはコップを机に置き、母へ目を戻した。「おみつが言ったのね」との、わたしの問いに、母はちょっと眉を寄せた。
「どうして、おみつだって?」
母の問いに、わたしは答えられなかった。その瞳を避け、うろうろとさまよわせた。さっきまで心地よく感じた口の中のサイダーの甘味が、舌や上あごにねっとりと感じられる。
風も止んだ。
「文緒、どうして、おみつだとわかるの?」
普段にない、母の硬い詰問調の声に、こんなとき、ふと震災の夜を思い出した。あの時も蔵の中で、母の声はこんな風に硬かった。
 
『商家は抱えた荷が命なのよ』。
 
わたしはうろたえ、ろくな返しもできず、口の中でおみつを毒づいた。絶対に言わないって、言ったのに。お嬢さんのお味方ですよと、請合ってくれていたのに……。
「ねえ、文緒、はっきり言いなさい」
ひどい。裏切って。ただ一人の味方だと、安心していたのに。
いざとなれば、母にわたしの懐妊が知れたときの自分の責任逃れに、早々と打ち明けたのではないか。なぜなら、母はわたし付きの彼女を、それはきつく叱るはずだから。紹介状も書いてやらず、辞めさせることだってあるはず。
「おみつでしょう? ひどいわ、忠義者ぶって人を騙して。嘘つきよ、あの子…」
低いわたしの罵り声を、母は仕舞いまで言わせなかった。ぱちんと鋭く、わたしの頬を打ったのだ。
「あ」
生まれてから、わたしは母に打たれたことなど、ない。
その出来事に、痛みより何より衝撃が勝った。わたしは暗がりに、うっすらとした母の輪郭の中、やんわりと光る瞳を、驚きの目で見つめた。
無言のまま、どれほどか過ぎた。母の押し殺した、深く重いため息が聞かれた。
 
「自分のふしだらを棚に上げ、女中を責めるとは、何です。見苦しい」
 
母の声はやはり硬く、氷のように耳に冷たく響いた。
それ以上の言葉をつながず、わたしを置き去りにし、荒くぴしゃりと襖を閉め、居間を出て行ってしまう。
膝も背も固まったように動けず、母のこちらを拒絶した背中を、わたしは見送るだけだった。
不意に、頬を涙が伝った。いつ涙が瞳をあふれ出したか、自分にも知れない。母に打たれた熱い頬をぬらし、それは膝に置いた指へ落ちた。
落ちるに任せた涙を、わたしは仕舞いようもなく、母と着回す浴衣の袖に押し当てた。
今頃悟る。
自分の愚かさ、拙さ。そして未熟さ。いざとなれば、辺り構わず逃げを打つのは、わたしの方ではないか。おみつなどではなく。
母にわたしの具合を注進した者など、きっといない。カマをかけたのだ。母が自らわたしの変調に気づき、「まさか」と不安を抱いていたのだろう。
「まさか」と。
その信じ難い「まさか」が、事実であると知り、どれほどに母は憤ったか、傷ついたか、悲しんだか…。
わたしはそのことを想定していたはず。考えていたはずだった。
けれども、それは、わたしの人事で甘い思慮などを超え、逆に母の感情を突きつけられた今、馬鹿のように虚脱しているのは、母を悩ませたわたしではないか。
こんなとき、わたしは泣くしか能がない。
このときほど、自分を愚かだと思ったことはない。
「…ごめんなさい」
つぶれた涙声は、誰にも届かない。
あふれたのだ。
蓮の葉から、水の粒たちが、いっせいに今。
 
 
わたしの懐妊を知り、母がしばらく床についた。高い熱も出、渡会先生に往診を請うほどのもので、まわりもはらはらと、看病を努めた。
宿は夏枯れで、ややお客足が落ち着いているため、女中もそろう中、母不在の支障はない。
堪えたのは、母の寝間にわたしが入ってはいけないことだった。女中を介し、「お嬢さんに、夏風邪を伝染すといけないって、お内儀さんが…」と伝えさせる。
身ごもっているわたしへの配慮とも取れるが、おそらく、わたしの顔を見たくはないのだ。
生まれてこの方、ぴったりと寄り添い暮らしてきたわたしに、母のこの態度は、ひどく切なかった。
着替えの際、自室で、背の帯を締めるおみつに、わたしは母に知られてしまったことを告げた。
「まあ…」
鏡越しに、ひっつめて結った彼女の頭が見えた。首を傾げると、その表情ものぞける。それは真に驚き、事に戸惑っている顔だった。ちょうど震災の夜、彼女がこんな顔をして呆けていたのを、ちょっと思い出す。
わたしの懐妊を知ったことに、母の急な寝込みが重なったのだろう。鏡の中のおみつは、痛ましそうに頬を歪めた。
「母に問い詰められて、わたし、あんたを疑ったの。…ごめんね」
「いえ、そんな。そりゃ、あのことを存じてるのは、あたしきりですから、しょうがありませんよ。それより、お嬢さん、どうなさるので?」
あっさりと、わたしのかけた疑いを片付けてくれる彼女へ、わたしはもう一度「ごめんね、おみつ」と詫びた。
「どうしようも、ないわ。恭介様のお帰りを待つしか…」
おみつが回した帯揚げを帯に仕舞い、仕上げに帯締めを締める。そのとき、廊下を小走りに来る女中の足音が聞こえた。襖の前で止まり、声をかけてくる。
何とはなしに、おみつと鏡越しに目が合った。急なお客であろうか、とでもいった、軽い目交ぜだった。
「お嬢さんに電報が届きました」
電報を伝えるお常の声に、わたしは胸が弾んだ。手紙でなく、急ぎの電報を使う友人などない。
恭介様だわ、と心が跳ねた。襖を開けたおみつがそれを受け取り、薄ぺらい紙を手に渡されるとき、付け下げの袖に、血のような赤茶色の小ちゃなしみを見つけてしまう。
あ。
瞬時、着替えようか、この場でしのぎにしみ抜きをさせようか、迷った。着付けてしまってからのこういった発見は、縁起が悪いようで、胸が嫌なように騒ぐ。
「ねえ…」
おみつへ声をかけながら、目を紙へ戻す。カタカナの文字が硬く並び、慣れないわたしの目には読み辛い。
それでも短い文を追い、すぐ、それが中尉本人によるものでないと悟る。それは、中尉の妹御からのものだった。
 
なぜだろう。
 
電話でも、手紙でもなく、敢えて電報を選ぶのはどうしてだろう。
読み終えた後、その意味を知り、わたしは力なく膝を崩し、そのまましゃがみ込んでしまう。
 
『アニキョウスケ、シャンハイニテシボウセリ、トノシラセアリ。
キリノユカリ』
 
 
え。
 
 
視界全てが、このとき色を失くした。
電報を握るわたしの手に触れる、袖のしみだけが、赤茶色に濁り、そこにある。



          


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