恨めしいのは誰よりも、疎ましいのは何よりも
祈るひと(32
 
 
 
手のひらに薄い油紙のような電報がある。それを、わたしは知らず、握りつぶしてしまっていた。
心も頭も空になる。
知らせの衝撃も驚愕も大き過ぎ、ひととき、何も考えられないのだ。その間に、わたしを気遣うおみつの声がしたようにも思うが、それも定かではない。いや、聞こえたのだろう。けれども、そうと意識できずにいた。
五分ほどもそうしていたのか。
我に返ったとき、ほんのちょっとの夢を見ていたような心地だった。しかし、手のひらに確かに残る電報の存在に、すべてが現実に起こったことであると、目を突き刺すように悟らされる。
深く息を吸い、吐く。朝食もまだというのに、もう胃の辺りが重くもたれていた。それに、軽い嘔吐感がせり上がる。
「お嬢さん…」
電報の中身を見ずとも、気配で彼の訃報を察したらしい、おみつの声ははばかって低い。わたしは彼女へ、投げやりな気分で電報の用紙を差し出した。
着替えようと思った。袖を通したなりの付け下げには、小さなしみがある。それがなぜかひどく気に障り、急ぎ脱いでしまいたいのだ。
「あじさい柄のもの、あれでいいわ。出して頂戴」
「…はい」
着替えながら、壁の時計を睨んだ。七時を回ったところ。まだ電話するには早いだろう。
夏には決まって白粥の朝食を、食欲のないまま無理にすする。お茶を飲んで、まだ三十分にもならない。今日は八時には宿へ出向き、早立ちのお客を見送る仕事がある。
居間を出、母の部屋に向かい、襖越しに声をかけた。
「お母さん」
返事の代わりに、既に目覚めていたらしい母の、身を起こす気配が音になり伝わった。
「お客様のお見送りの後で、出かけたいの。何時になるか、あちらのご都合で、まだわからないけれど…」
やはり返しはない。母の斜めにした機嫌がうかがえる。ふしだらに未婚のまま身ごもり、その身重の身体で、どこへ出かけようというのか。そう罵りたい、母の無言の叱責を、襖越しに感じた。
代わりに聞こえたのは、無知なわたしを悲しむ、ため息に似た母の嘆きだった。
「…よつきにも入れば、…敏い人はそれと気づくものなのよ……」
母の慧眼にはっとなりつつも、適当な返しも思いつかず、わたしは、霧野中尉の妹御に合いに行くつもりなのだ、と答えた。
「恭介様が、お亡くなりになったって、…今さっき、紫様が電報を下さったの」
それに返事はなく、わたしは、「お願い。だから、行かせて」と、それを潮に、腰を上げかけた。そのとき、畳をする足音がし、襖がさっと開いた。
母が立っていた。藍の朝顔の柄の浴衣の肩へ、解いてまとめた髪を片側流してある。
このとき化粧気のない母の顔にも、恐怖と驚愕が見えた。立ちかけた中腰のわたしへ問う声は硬い。
「本当のこと?」
わたしは頷き、手に持ったままの電報を母へ差し出した。間もなく、読み終えた母の手から、電報が舞うように床に落ちた。
しゃがみ込んだ母が、わたしを抱きしめた。
成長し、大人になり、わたしは長く母にこうされていない。最後はいつであったろう、何年も前女学校で、何かの賞をいただいたときだったかもしれない。懐かしい母の肌と髪のよい匂いが、かぐわしく鼻をくすぐる。
「文緒、あんた…」と、途切れさせてしまう言葉に、ふと、頭を震災の夜の母の嘆きが甦った。
 
『家が潰れてしまったわ…。何もかも、あの中にあったのに…』。
 
頼みにしていたもの、かけがえなく思っていたもの。それらがあっけなく大きな力で奪われてしまうのを知った、肝の冷えるような、哀れで心細い母の声。
あのとき、暗い蔵の中で、わたしはその母の声を聞き、切なさに堪らなく思った。その一方、自分までもが母の悲痛な嘆きに飲み込まれそうで、妙に苛立ったことまでを覚えている。
かつての母のその声音を思い出しながら、母も彼の一刻も早い帰国を頼みにしていたのだ、と知った。それで、わたしがお腹の子と共に、彼の傍で幸福になれるのだ、と。
娘のふしだらな振る舞いを、憤り悲しんだ末の、やむを得ずの選択かもしれない。けれども、母は既にその解決を、密かに願っていてくれたのだ。わたしのために。
願いが絶たれた悲しみの声は、寂しく尾を引いて消えず、耳に残る。
 
ああ……。
 
その声は、ここまで堪えたわたしの涙を引き出すもので、わたしは母の肩に顔を押し付けて泣いた。
「お母さん、どうしよう…」
「ねえ、どうしよう」と、泣きじゃくるわたしの背を撫でさすりながら、母の流す涙に気づく。
「文緒…」
恐ろしい震災の夜も、同じように母とこう身を寄せ合い、不安に震えた。その目の前を暗くする恐怖の中へ、危険を顧みず、彼が駆けてきてくれたこと。身を投げ出し、わたしを救ってくれたこと。守ってくれたこと。
今、真っ暗に心を塗りつぶす不安に包まれ、わたしは知っている。
 
あの夜とは違うのだ。
 
どう願っても、どう未来を恐れても、彼はこのとき現れてはくれない。
襖奥からの風に、かさりと浮き上がる、落ちた薄ぺらい電報の音に、わたしは自分の心を知るのだ。
それは、願いかもしれない。また、望みなのかもしれない。
彼が、無事に生きていてくれること。
それをわたしは、祈りに代えて持ち続けているのだ。あきらめなどつかないから。
忘れることなど、できないから。
 
 
お客のお見送りを済ませ、わたしは我慢ができずに、妹御へ電話を頼んだ。回線が混み合うのか、長く待たされ、ようやくつながった。
受話器の向こうに、霧野中尉の妹御がいる、そう思うと変に緊張した。その雰囲気こそが、貴婦人というものか。彼女は、相手にそんな距離を感じさせるお人である。
電報の礼を言い、訪ねてよいかを問うた。どうであれ、直接会わずに済ますことなどできない。
『あなたに、お見せしたいものがあるわ』
と、彼女は諾をくれた。すぐにでもお邪魔する旨を告げ、電話を終えた。敢えて、互いに彼の訃報については触れなかった。
場合が場合で、手土産も用意せず、わたしはおみつを伴い屋敷を出た。
門を出しな、「あら、お嬢さん。お出かけですか?」と、宿の仲居頭の幸子が、シロクロの散歩から帰ってくるのと会った。
「ええ。なるべく早く戻るから、よろしくね」
「いいえ、このところ楽ですから、お骨休めにぜひごゆっくり。お気をつけて」
如才なく彼女が朗らかに返し、庭へシロクロをつなぎに去る。それを待ちかねたおみつの声が、つんけんと、
「今朝方からのお嬢さんの辛いお気持ちも知らないで、あの人、まるでお祭り気分の声じゃありませんか?」
「知らないのよ、仕方ないでしょう」
「知らなくたって、ちょっとお嬢さんのお顔の色をうかがえば、それと気づきそうなものなのに…。これだから、後仕えの人は…」
なぜかおみつは、仲居頭の幸子のことを、一方的に好かない。明け透けで明るい彼女と、理知的な感もある幸子とでは、性が合わないのかもしれない。
「わかる訳ないでしょう。千里眼でもあるまいし…」
「お内儀さんが風邪で寝込んでいらっしゃるから、お嬢さんがお留守したら、楽なのは、あっちの仲居たちですよ。自分が手抜きをしたいから、『ぜひごゆっくり』なんて、あんな見え透いたおべっかが言えるんですよ」
「おみつ」
「だって…。これ見よがしに忠義面して、シロクロの散歩までして。嫌らしいですよ」
「誰でもシロクロは、好きに外へ連れ出しているじゃない」
「あの人、まかないのちくわまでやって、なつかせているんですよ。犬を可愛がる振りすれば、お内儀さんとお嬢さんの覚えがいいから…」
「いい加減にしなさい」
いつになくだらだらと続く幸子への悪口を、低い声でいさめた。おみつはそれに、渋々といったように黙った。
おみつはこれで、わたしを気遣かってくれているのかもしれない。ふと、そんな考えがわいた。
気が紛れるように、普段よりずっと余計に幸子への悪口を言い募ったのかもしれない。そうでないかもしれない。上手いやりようではないけれど。でも…、そんな気がする。
彼女は誰よりも早く、わたしと彼との恋を見守ってきてくれている。その始まりも、その燃え上がり方も知り、また、彼の拒絶に打ちしおれた秋の、あのときの惨めなわたしをも知っているのだ。
危なっかしい、彼との恋を、おみつは傍で知りながら、どう思っただろうか。『お嬢さんのお味方ですから』と、彼女はいつも口にしてくれた。けれども、芯からそうであったのだろうか。
どうであろう。
履物をすり、後を付いてくるおみつの気配に、問いたい問いをわたしは飲み込んだ。
知っても、せんもない。そしてまた、せめておみつだけには、もろ手を挙げて、彼との恋を認めていてほしいという、わたしの甘えがあるのだろう。
木立の茂る塀の奥から、しゃわしゃわと蝉の鳴き声が届く。歩を進める地面から、午前だというのに、早々と熱が上ってくる。その道を、走り去る車の立てる砂埃が低く舞う。
雲さえ見えない青空から降る、夏の強い日差しは、差した日傘さえ通り抜けそうな気がする。風も吹かない。午後はきっとひどく暑くなるはず。
凧を持った子供たちが野原へ行くのか、前から駆けてくる。風も吹かないのに、あの少年たちは、どうやって凧を空へ飛ばすのだろう。
風もないのに。
不意に、のぼせたように頬に熱が上った。先だって冷えた麦茶を飲んだというのに、もう喉がひりひりと渇く気がする。
帯に挟んだハンカチを出し、口元に当てた。胸がむかつき、ちょっと息が詰まるような、きつい吐き気が込み上げた。思わず、歩が止まる。
「お嬢さん、どうなさいました?」
のぞき込み、おみつのこちらをうかがう声がする。陽炎のように目の前がやや揺らめき、わたしはくらむ思いで、そのまま膝を折り屈み込んだ。
慌てるおみつを制し、近在の車屋で、一台を呼んできてほしい、と言った。
まだ暑さもしのぎ易い午前のこと、と車を呼ぶ贅沢は避け、停車場まで歩くつもりだった。それが、隣町まで行かないのに、もうこんな風にへたり込んでしまっている。
「今日は、このままお帰りになった方が…」
「いいの、早く呼んできて。ここにいるから」
体調に負け、帰りなどしたら、そのままではないか。
何も知らないまま、しわだらけになった薄ぺらい、あの忌まわしい電報があるばかり。何も変わらないまま。
どうしても、今日妹御に会い、確かめなければならない。彼女も、何かわたしに「お見せしたいものがある」と言っていたのだから。
「お嬢さん…」
おみつに手を引いてもらい、塀の傍に動いた。着物の汚れを気にし、肩を触れさせず、手でもたれるだけにしておく。
やはり蝉の音がうるさく騒ぐが、木陰になり、やや呼吸が楽な気がする。
駆けて行くおみつの背を見送り、わたしはため息と共に目を閉じた。ふと、生ぬるい風が耳朶をくすぐって止んだ。
ものぐるおしい、夏の日。
 
 
妹御の館では、一旦客間に通されたものの、お仕着せのメイドの案内で、庭の一隅にあるあずまやに伴われた。おみつは別で、館の小部屋でお茶の接待を受けているらしい。
ここは、心地よくかげり、木々を抜けた風がよく通る。布を張った籐の長椅子にかけ、わたしはもう一度ハンカチを取り出した。
ほどなく、冷えた紅茶が運ばれてきた。コップに汗の粒がびっしりと連なる冷えた様は、見るだけで涼やかな気持ちがする。一口口をつけ、甘い香りにほっと息をついた。
このあずまやは、おととしの震災後、こちらへ母らと共に厄介になっていた時期、訪れたことがある。
そうだ、あのとき不意に中尉が現れ、この影で、わたしたちは抱きしめ合い、長く口づけた…。
思い出を遮るように、砂利を踏む足音がした。半袖の、ふくらはぎまでの長さの瀟洒なワンピースを着た紫様だった。
白い裾をふわりとなびかせて、向かいにかけた。
登場がどこか劇的で、また優雅であったからか、ついわたしは席を立つことを忘れた。腰を大きなリボンで止める彼女のワンピースの意匠の愛らしさに、ちょっと目を奪われもしていた。
彼女は絹張りの小さな箱を、わたしとの間のテーブルに載せた。ちらりとわたしを見つめ、ふと、また瞳を避ける。
このお人には、兄の恋人であるわたしは、内心よく思われていないようだった……。と、かつての悩みを思い出すが、この再会に、それはどうでもよい些事だった。
互いに、彼を介した、彼を愛する女なのだ。
「あの…」
「夕べ遅くに、こちらに知らせが入ったの。早くに電報など打って、ごめんなさいね。やはり、あなたにはお知らせしないといけないと思って」
「いえ…、別に…」
自然、妹御の顔立ちに彼の面影を重ねてしまい、それに続く言葉を失っっていく。瞳の加減、鼻梁の辺り、頬からあごにかけての輪郭の線……。
嫌になるほど、二人は似ている。
彼と密なわたしだからこそ、それをより探り出すのかもしれない。けれども、知っていたはずの二人の相似は、こんなとき目に痛い。
彼と甘く口づけたこのあずまやでは、ふと、あの彼が目の前にいるかのような淡い錯覚を起こしてしまうのだ。
それが辛い。
妹御は、言葉を迷うわたしに代わり、知りたいことをほぼ教えてくれた。彼の死は、軍部の機密に深く関わり、詳細は知れないこと。亡くなったのは、先月の半ば頃であること……。
あ然とするほど、内容が乏しく、また曖昧なものだった。
「死んだことばかり、馬鹿みたいに強調していたわ」
「それでは…」
また言葉を途切れさせたわたしへ頷き、彼女は、テーブルをとんとんと指先で叩き、
「その程度の知らせではあまりにも杜撰だと、子爵がお怒りになって……。昨夜、詳しい報告と確認を軍部に求めたの。機密主義がお家芸の総参謀本部でしょう、穏やかな子爵が、青筋を立てて使者へ怒鳴っていらっしゃったわ」
「その、お返事は…?」
妹御は、ゆらりと首を振り、テーブルを叩いていた指を、傍の絹張りの小箱へ触れさせた。
「これよ」
彼女はそれを手のひらに載せ、それから握り、ちょっと振った。それくらい小箱は小さく軽げなものだった。ことん、とかすかな音が中からした。
「これが兄よ」
 
え。
 
目を見開くわたしを前に、彼女は子爵の詰問への軍部の返しが、この小箱だったのだ、と告げた。
中尉は任務上のある理由で負傷し、その傷が元で病み、名を偽り入院していた現地の病院で、先月亡くなったというのだ。
それを、追って上海入りした別の者が確認し、荼毘など死後の処理を行ったのだと……。
「こんなに小さくなってしまったわ」
彼女は話しながら、耳元でちょっと箱を振る。からからと、小ぶりな鈴の音のような音を立て、箱の中の骨は鳴った。
「あなたにも分けて差し上げたいけど、こんな少しだから、…あげられないわ。ごめんなさいね」
瞳を伏せて詫び、彼女は箱をわたしの手へ渡した。「持ってみて」と。
 
あ。
 
それは奇妙に軽く、脆そうで、両手で包むことがはばかられた。
「葬儀など、すぐには止められているの。軍の許可が要るのですって。おかしいでしょう? お国のために働いて、その結果が弔うことも許されないなんて…」
言葉をつなぐその狭間に、彼女の瞳からはらはらと涙の粒がこぼれ出すのだ。
瞬きのたびにそれは瞳をあふれ、頬を伝う。やや顔を傾げ、困り果てた少女のように彼女は泣いている。
「死に急ぐような、そんな人だったけれど、……本当に死んでしまったわ」
静かな彼女の悲しみを目の当たりに、わたしの中で、ようやく彼の死が生まれていくのを感じた。じわじわと徐々に、忌まわしく嫌なものに侵食されるように。
それは、彼への思いでいっぱいにしていたはずの、わたしの胸の深い大事な場所が、闇に凍りつき、堅く塞がれてしまうような心地だった。夏だというのに、着物の下のわたしの全身の肌が、やまない寒気に鳥肌立った。
信じ難いものを受け入れる、怒りに似た拒絶。言い知れない切なさ。未来も今も、全てを奪われた悲しみ……。
それらを一気に迎え、あふれる感情に、頭の中を抱えきれない激情の渦が舞う。
途方もない絶望は止め処なく、小箱を手のひらに載せたまま、わたしは顔を覆った。その拍子に、箱は手を滑りこぼれ、わたしの膝にころんと落ちた。ちゃりん、とまるでビー玉をぶつけたような音がした。
 
これが、恭介様……。
 
唇からもれるのは、悲鳴に近いかすかな嗚咽だ。右の中指に彼からのリングがある。それを指の腹ごと、強く噛んだ。
痛みはない。痛むのは指ではない別な場所。彼の思い出がつまる胸と、そして、彼の子を確かに宿したわたしの子宮だ。
つきん、と内からそれらが痛い。
わたしは膝の小箱を帯に押し当てた。その下には、彼との命が育っているのだ。いまだそれを知らない彼へ、大事な秘密を知らせるつもりの仕草だった。
 
「…わたし、恭介様の子を、身ごもっています」
 
沈黙の後での妹御の返事は、「…そう」と、彼女らしく素っ気ない。
それでいいのだ。他に、何の言葉が今のわたしを慰めるのか。
彼女は、わたしが差し出した彼の小箱を受け取り、やはり伏せ目がちに、唇を開いた。拭いもしない頬は今もぬれ、泣いた瞳は、それとわかるほど赤い。瞬時、彼女を可憐だと思った。
こんなところは彼とは違う、第一、あの傲岸なところのある中尉の涙など、わたしは見たことがない。けれども、泣かない人間などいない。必ずどこかで、人は泣くのだ。
強くても、弱くても。そうでなくても、人は何かに泣く。
 
彼は、いつ泣いたのだろう。
 
「お気を悪くしないで」と短い前置きをし、彼女は、「文緒さん」と、きっと初めて、わたしの名を呼んだ。
「……もし、重荷になるようなことがあれば、兄の子は、引き取るわ。おっしゃって」
妹御は小箱を手に立ち上がった。
感情の波の谷間にあり、いまだ椅子にかけたまま虚脱の態でいるわたしの肩へ、彼女は指を置いた。ちょっとだけ力を込め、
「お困りのことがあれば、何なりと、おっしゃって。兄に代わり、必ずわたしが力になります」
言葉尻に、風が去るように指を離す。
あっさりと、素っ気ないほどの振る舞いで、彼女はそのまま背を向けた。わたしを置き去りに、館へ戻っていく。
彼女の残した言葉にさえも、何の感情もわかない。不快なのか、ありがたいのか、それすらも判断がつかない。
砂利を踏み、飛び石の飾られる小道を歩んでいく彼女の歩は、揺らがず、危なげない。まるで、どこか野遊びにでも出かけている風に何気なかった。
その姿を涙の尽きない目で見送りながら、腰を上げる勇気さえ持てず、わたしはどれほど佇んでいただろう。
館を出れば、屋敷へ帰れば、否応なく現実が待つ。
彼がもういないという毎日、それが続く未来……。
そして甦る、妹御がかざした小箱の骨が奏でた、ちゃりんという、あの肌が粟立つような乾いた音。
ひどく厭わしい、忌まわしい、可憐な音。
それらが、全ての力をわたしから殺いでいくのだ。
 
メイドが、車の用意ができたことを告げに現れた。紫様の命らしい。素っ気なく冷たく見えても、彼女はぎりぎりのところで必ず優しい。
それは彼女の兄の中尉の仕草によく似ている。嫌になるほど、よく似ている。
メイドの声に、わたしは顔を覆っていた両手を外す。この場から、離れ難かった。
けれども、何事にも果てがあるのだ。
現実から目を背け、逃げることにも。
何気なく、帯に手のひらを当てる。しばしののち、引き剥がすように、わたしは椅子を立った。籐の椅子から腰を上げるとき、きゅっときしんだ音を立てた。
身を翻すとき、いつにない粗相をして、袖をテーブルのコップにぶつけてしまった。硝子のコップは石敷きの床に落ち、見事に砕けた。減りの少ない中身の紅茶も、辺りにこぼれてしまう。
「あ」
慌ててわたしはしゃがみ込んだ。「よろしいですよ、こちらで始末いたします」。メイドの制止を聞かず、紅茶にぬれた敷石の上から、割れた硝子片を指でつまんだ。
指先を切ったのを知ったのは、ぷくんと、そこからにじむ血の粒を目にしたときだった。
指先を唇に押し当てる。舐めた舌先から、鉄くさい血の味が広がった。
うっすらと赤く染まった敷石に、ふと、流れる血の色を重ね、嘔吐感が込み上がる。
それを、口元を押さえることで耐え、わたしは立ち上がった。
無意識に、また帯を抑えている自分に気づく。
あ。と思った。
こんなとき感じる。
 
わたしは彼の子を、望んでいるのだ。



          


『祈るひと』ご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪