大丈夫と云って肩を抱いてふたり泣いた
祈るひと(33

 

 

 

ほうけたような日が、数日あった。

 

人目を避け、部屋にこもり切る。わたしは、蒔絵の小箱に詰めてある霧野中尉からの手紙を床に広げて眺め暮らした。

これまでも、繰り返し読んだもの。内容も、文章もほぼ頭にある。読むというより、目に付くところに散らし、ところどころを、瞳がさまように任せるのだ。

目が捉えた文字の一つ一つに、その手紙をもらった頃の自分を、ぱっと思い出す。彼への思いに夢中になり、まるで舞い上がるように日々を送っていた、あの頃の幸せな自分を。

また、指で便箋に触れ、彼が指を置いたであろう紙を、なぞり辿るのだ。そうしていると、いつかのように、ひっそりと彼と指を絡めているような錯覚を覚えた。

その錯覚に、彼が折に触れ口にした言葉を甦らせ重ね、面影を思い描く。その中の彼は、ひたすらにわたしを見つめ、求めている彼だ。その面差しに、淡く胸をときめかせている。

乱暴にあんた、と呼び、またときに、文緒、と名で呼ぶ彼。そうだ、はっきりいつから、わたしは彼の使う「あんた」に、ふくれなくなったのだろう。眉をしかめなくなったのだろうか……。

思い出というものは、こうも甘い。

わたしは、窓も閉めた暑い部屋に一人きり座り、その甘さに逃げ、溺れていた。それしかできなかった。

食事は、三度ごとおみつが部屋へ運んでくれたが、食欲がまったく消え、ほとんどを残していた。口にしたものといえば、お茶とスイカの小さな切り身に、氷菓子が幾つか。

お湯にすら浸かっていない。肌は、ぬれ布巾で拭うばかり。情けないほどに、そんなことすら、やる気がおきない。

ちゃんとしなくては、母に心配をかけては、といった普段の理性が利かない。気持ちも、身体も言うことを聞かないのだ。自分が、ぐにゃりとした妙な人形にでもなってしまったような、腑抜けた心地がしていた。

「文緒」

母の声が、襖の向こうからした。

中尉の妹御の館から帰った日より、部屋にこもるわたしへ、日に何度か、母は声をかけてくれた。「珍しい果物をいただいたから、食べましょう」、「面白い物語だって、評判なのよ。出かけた折に、買ってきたわ」、「氷水を作らせたから」…、と、中のわたしをうかがうのだ。

それにわたしは、襖を開けもせず、「平気。少し一人にしておいて」と、そればかりを返してきた。

その「少し」、がもう五日にもなる。

この日も母は、「素敵な生地があるの。ワンピースに仕立てない?」と、静かに声をかけた。

「後にしてくれない、お母さん。平気だから」

答えながら、わたしは、畳の上に散らした、彼からの手紙へ視線を送っている。

それは最初にもらった手紙で、桜の散ったのすら、彼が気づかずに過ごした、といった内容のもの。どこか文章に、ちょっとした堅苦しさと距離が匂う。あんな彼の、遠慮がちな筆遣いの文面が、今は微笑ましい。

現実味のない、そんなことをぼんやり考えていると、不意に襖が開いた。母が部屋に入ってきたのだ。口実ではなく、腕にきれいな花柄の木綿地を本当に提げていた。

「まあ、なんて暑い…」

母は一瞬顔をしかめた。後ろ手で襖を閉め、二面の窓を開け放す。庭に面した窓から、何かにきゃんきゃん吠えるシロクロの声が届く。首筋に木々を通った風が冷たく通り抜けた。

わたしは、母の行為に何も言わず、まだ目を手紙へ落としていた。そこへ、母の手が伸び、手紙を粗く一まとめにし、文机に束ねて置く。

その勝手な振る舞いに、ふくれてわたしは、母をちょっとにらんだ。

「見ていたの。ただ、並べていたのじゃないの。順番があるのよ…」

「…なんて恰好しているの」

膝をついたそのまま、母の手は、わたしの浴衣を探った。「いつから着替えていないの…」。母のため息交じりの声がする。締めたきりの帯は、数日の汗にぐっしょりとぬれ、重く湿っている。

「文緒、お風呂を立てさせたから、すぐ入っていらっしゃい」

わたしはそれに返事をせず、ぼんやり瞳を手紙が置かれた文机に流した。ふわり、と上の二〜三枚の便箋が、風に踊った。

「きれいにして、着替えなさい。さっぱりするわよ」

返事をせず、わたしはやはり、ふわふわと風に浮き上がる手紙の束を見ている。母の手に、すっかり順序が狂ってしまった。後で最初にもらった手紙から、並べ直さないと……。

そこへ、思いがけず、母の大きな声が降った。「文緒」と、叱りつけるような、ややきつい声だ。

「おなかの子は、大きくなっているのよ」

その声に、頬を打たれたかのようにはっとなる。ようやくわたしは、焦点の定まった目で、母をまっすぐに見た。

「元に戻すなんてできないわ。あんたがしゃんとしないで、どうしますか」

母は、口にした厳しい声を後でためらうように、瞳を伏せた。そうしながら、普段通り柔らかく、つなぐ。

「霧野様のことは、本当にかわいそうだけれども…、先のことも考えなくちゃ…。ねえ、文緒、お母さんの言うこと、わかるわね?」

目の前の母の姿、声に、はっきりと今の自分を思い出す。入り浸っていた、頭の中のどこかの甘く居心地のいい小部屋は、ぴしゃりと扉を閉じてしまった。

露わな現実の痛み、辛さと切なさが胸に甦り、堪らず、わたしは腕を抱いた。浴衣にしみた、自分のすえた汗のにおいが、つんと鼻を突く。

惨めだった。生々しいこの嫌なにおいは、わたしから発しているものだ。

随分前、両親と東京駅の雑踏を歩いた際、哀れななりをした浮浪者がいた。父が、施しの金をその男に与えた。離れるとき、嫌なにおいが流れたのを覚えている。そのにおいに、よく似ている。

「でも…」

その先に続きそうになる嘆きを、わたしはかろうじて飲み込んだ。母の告げた言葉が、思いがけず身にしみていたのだ。

「おなかの子は、大きくなっているのよ」と、母は言う。それは自明のことだ。けれども、その当たり前の事実を、わたしは、きちんと考えたことがあっただろうか。

誰でもない、自分のことであるのに。

「…ごめんなさい」

幾日も着替えることすらせず、自堕落にずるずると悲しみに溺れる自分を、母を前に、情けなく、恥ずかしく思った。

種は違えど、母も同じく苦しんでいるのだ。そして、その悩みの根は、わたしにある。

「わかっているわ」

今わかったくせに、こんなことを言う。

うなだれて、ふと、帯に手を触れた。汗でじっとり湿ったその奥に、わたしは彼の子を宿している。

彼の死を知らせた妹御を前に、わたしは知ったのではなかったか。自分の内なる思いを。

 

彼の子を産みたい、のだと。

 

妹御が手にしていた、姿を変えた彼の一部。ちゃりんと鳴るあの絹張りの小箱の代わりが、本当は、わたしもほしいのかもしれない。「こんな少しだから、…あげられないわ」と、独り占めする彼女が、ちくんと妬け、憎いのかもしれない。

それが、おなかの子の母となることを望む理由なのかもしれない。

過去にくれた手紙の束ではなく。

生な彼を感じられる、証がほしい。

 

せめて……。

 

わたしは思いを言葉にする前に、腰を上げた。

「お湯に入るわ」と言えば、母はそんなことに頬を緩めた。その微笑に、わたしは泣き出しそうになった。

ふしだらに子を身ごもり、母を悩ませた。そして、不慮の悲しみとはいえ、どっぷりとそれに浸りきる、身勝手なわたしのために、母はこんな些細なことを喜びとしてくれるのだ。

母親とはそうしたもの。代償を求めない深い愛情を、当たり前に子に注いでくれる。優しく、柔らかく、温かな、ありがたい存在。

わたしは、この母のような愛を、我が子に向けてやることが叶うのだろうか。いつか腕に抱き、笑い、子の仕草などに目を細める日がくるのだろうか。

そして、

 

彼を失った痛みが消える日が、果たしてくるのだろうか。

 

 

 

七月の末に、外務省の海部氏より電話があった。

やはり、今更、霧野中尉の死を知らせて寄越しただけの内容だ。

『探るだけ探りましたが、詳細はやはり知れません。外部へは、かん口令が徹底していますから。いやしかし、霧野は山ノ井中将の幕僚だったはずが、なぜか、上海行きでは、楠木大将の指揮下に入っている。きっかり閥が分かれる総参謀本部にしては、これは、ちょっと解せませんがね』

軍部の、しかも総参謀本部などという不思議な世界のことなど、市井のわたしにわかる訳がない。

『まあ、あなたもお気を落とさずに。では』

あっさりと軽く響く悼みの言葉に、腹が立ったが、この海部氏にすれば、ちょっとした知人の死に過ぎない。感情の込めようもないのだろう。

わたしに置き換えれば、宿のいつかのお客が亡くなった…、そういった程度のものなのかもしれない。気の毒ではあるが、自分とは遠いのだ。

 

八月に入れば、嘘のように吐き気が止まり、若干は食欲も戻ってきた。暑さにうだりながら気だるいものの、帯の下の子を思えば、小ちゃなおむすびの一つ二つは喉を通る。

産んだ後のそれからを、母とはいまだ話せずにいた。世間体も、わたしのこれからも考え、つてを頼り人を介し、母は里子の貰い手を、ひっそりと考えているはずだ。

それに異を唱えるほどの気構えも、覚悟も、今のわたしには、多分ない。どう繕うのかも見当がつかず、未婚の母への世間の視線の冷たさを思えば、身がすくんだ。

彼の証がほしいと産んだところで、それで終わらない。そこから始まるのは、証の成長だ。どう育てるのか、父のない不憫な子を。そんな母子を、人はどう見るのか……。

それらに怯えるほどに、お産を控えたわたしは、いまだ幼かった。こんなところに、お嬢さん育ちの脆い、地金がほろりと出てしまう。

いつか中尉は、「自分の食い扶持の心配をしないで済む人間は、どこかで脆い」と言った。彼が何気なく言っただろう、その言葉を忘れかね、震災後のわたしは、突き動かされるように先を模索し、今の宿屋をやることを思いついたのだ。

それだけに、この言葉はわたしには大きな意味を持つ。彼への強烈な憧れをわたしに植え付けた、そのものといえるかもしれない。

今もその言葉はときに甦り、わたしを前へと、叱ってくれる。

 

こんなにも、まだ脆い。

 

 

ぼんやりしているよりは動いていた方が、よほど気が紛れた。母には、「おなかの目立ち始める秋口まで」と、言われている宿へも、毎日足を運んだ。

客室の花を活け、お客を出迎え、見送る。母と食事の味見をし、額をつき合わせて帳簿をにらむ……。しみじみと、今のわたしは、何か役割・仕事を持つことのありがたさを噛みしめている。

仲居の一人が、若い板前と駆け落ちしたのもこの頃で、新たな人の面接に母と当たった。

女中のおみつが、噂を聞きつけるや、「まあ! 仲居頭の幸子さんは、何を教えていたんだか。やっぱり、お家仕えのあたしたちとは、仕込みが違いますね、お嬢さん」などと、鼻息を荒くして、母とわたしの苦笑を誘った。

静かな日々にも、ざわめいた忙しさがある。

そのひたひたとした毎日のざわめきに、ふと、ほんのわずか、彼の死を脇に置いている瞬間がある。悲しみをちょっと忘れているような、そんな感覚だ。

だが、改めて思い出したときの、揺り返しの胸のひどい痛さは堪らない。そんなとき、わたしは思わず、目をつむってそれに耐えるのだ。

そんな瞬間が、これから先、必ず増えていく。その間隔は緩やかに伸び、いつの日にか、わたしを苦しみから解き放ってくれるのだろう。隆一を戦地で失ったときのように、また。

それが救いのようであり、また、そのことがとびきりに切ない。

つきんと刺す、堪らない胸の痛みさえ、わたしの彼への恋の一部であるのだから。

 

 

屋敷へ、再び川島さんが訪れたのは、八月のお盆過ぎだった。中尉の死の後で顔を会わせるのは初めてのこと。

先だって、なりた家を利用してくれた、恩人の母娘が、また用で東京へやってくるという。その際また我が家を利用したいと言ってくれているらしい。

「『東京の本物のお嬢さん』に、歌舞伎見物をつき合ってほしいと、せがまれた。娘の…、佳代ちゃんが、女学校で自慢できるんだと」

「まあ、何の自慢かしら」

夫婦連れや女性のお客さんのお供であれば、これまで母も、芝居につき合いうなどすることもあった。軽く「ええ」と頷きかけ、いつのことかを問うた。

「顔見世がどうのと言っていたから、十月に入ってからのことか…」

十月ではどうにもならない。母の言いつけで、お産のため、わたしは九月にはもう宿を休むことになっている。歌舞伎見物など人目に立つ外出は、おそらく母が許さない。

母がいる宿の方へ目を泳がせ、曖昧に、理由をぼかし断った。川島さんは、あっさりと流してくれる。

「そうか、ならいい」

「ごめんなさい」

夕刻で、ようやく昼の日がかげり、座布団を敷き、席を設けた縁側は、よくいい風が吹いた。おみつが、お茶代わりに冷やしたビールを運んできた。

この日、洒落た縞のシャツを着た川島さんの寛がせた襟元から、いつか目にしたことのある、刺青の一端がほんのりのぞいていた。おみつが気づき、ビールを置いた後も、驚きに口をぽかんと開けて、目を離せない様子だ。

わたしは、下がるよう、手で払う仕草をした。

刺青を入れた男の人に慣れてしまっている自分が、ちょっとおかしい。父が存命の頃の、日本橋のお嬢さんの時分のわたしでは、きっとあり得ない。

暑い日のことや、暮らしのことなど何気なく他愛なくつないだ。川島さんのあっけない様子に、もしや、中尉の死を知らないのでは、と訝った。

探る目をしたのだろう。川島さんはちょっと笑い、口の端についたビールの泡を甲で拭った。

「知ってるさ、妹の紫ちゃんが知らせてくれた」

「あ…」

わたしは返事が見つからず、半分に空いたコップにビールを注いで、言葉の代わりにした。

「殺しても、死にそうにない奴だと、思ったがな…」

途切らせた言葉の先に、川島さんの親友を悼む心がにじみ、つんと胸が、しょっぱいようなもので切なく詰まった。

やはり言葉に詰まるわたしの前で、彼は、ほろりと中尉の思い出話をしてくれた。それは、わたしなどが知らない、高校時代や、大学生であった頃の軍人ではない彼の面影だ。

おかしくて、微笑ましいそれらに頬が緩む。瞳に涙を溜めながら、同時に微笑むことができる自分に、ちょっと驚く。

目尻をあふれた涙を指で拭ったとき、彼と目が合った。もちろん男の川島さんは、泣きなどしていない。ただ、傷ついた子犬でも見るような目をわたしに向けるだけだ。

どうしてだろう、この瞬間に、気持ちが和いだのだ。

この彼に会え、嬉しかったのではない。今が楽しい訳でもない。ただ、訳もない開放感があった。

どうしてだろう、と心を探すうち、その意味に気づく。中尉をよく知る人と、彼の死の悲しみを共有できたことが、わたしは嬉しいのだ、と。

川島さんも、そうだろうか。

ちらりとその横顔をうかがう。煙草の煙に目をやや細め、風が抜ける庭の梢を眺めている素振りだけ。

ビールを飲み干し、彼が簡単な礼を告げ、腰を上げた。「手洗いを貸してくれ」という彼へ、奥へ声をかけ、女中に案内させた。

もう行ってしまうのだわ、と、そのとき瞬時寂しさが、胸を走った。

縁から履物を履き、庭へ降る。川島さんが脱いだ革靴を、屈んでそろえた。そのとき、ひどくきゃんきゃんと鳴くクロシロの声がした。

怪訝で、犬をつないだ庭の隅へ目を向けた。威嚇しながらまだ吠えるシロクロからその目を戻したとき、こちらへやって来る人に気づいた。庭を横切り、早足で来るのは、女だった。質素な銘仙を着た若い女だ。我が家の人間ではない。

化粧気のないその顔の造作が、はっきりとうかがえるほど彼女が近くなったとき、不意に思い出した。

この女は、去年の夏、横浜へ帰国する中尉に会いに行った際、わたしに言葉をかけてきた。あの梅若という芸妓だ。

あのときの彼女は装いを凝らし、華やいだ雰囲気でわたしへ挑んできた。酔った彼へ膝枕をしてやり、また「共寝したこともある」のだと、誇らしげに口にしていた。

何の用だろう。どうしてここがわかったのだろう。

いきなりの登場に呆気に取られ、わたしはちょっと固まったように、動けなかった。何かを問う前に、押し殺した声で梅若が機先を制した。

「人殺し」

 

え。

 

女は、血の気を失ったような蒼い顔を怒らせ、低い声のままわたしを罵った。握り締めた拳を前に突き出し、

「あんたのせいで、霧野様は亡くなってしまったのよ。強欲な、お嬢さん面したあんたのせいで…」

「あ…」

芸妓の梅若が、中尉の死を知っていることに、まず驚いた。外務省の海部氏は、「かん口令が徹底している」などと言っていたではないか。

「あたし、知っているんだから、聞いて、皆知っているわ。霧野様が、出世のために志願して、シナに行ったことも。あんたのせいでしょう。あんたがねだったんでしょう? 偉い男じゃないと嫌だって…、いい気になって…」

突きつけられた言葉の醜さにたじろぎ、わたしはぎゅっと目を閉じ、開くと同じに、深く息を吸い込んで耐えた。

「どうして、知っているの? 恭介様のことを」

「たかが芸妓ふぜいが、と言いたげな顔ね。長くいらっしゃらないから、同僚の方に訊いたのよ」

中尉の同僚なら、総参謀本部の将校だ。芸妓を相手に、かん口令の敷かれた機密を、ぺらぺら口にはすまい。彼女がそれを耳にしたのであれば、おそらくその将校との同衾中であろう。

手洗いから戻った川島さんが、わたしの肩をちょんと叩いた。顎の先で梅若を示し、「誰だ?」と訊く。靴へ足を差し入れる彼へ、中尉を知っている芸妓であると教えた。

「何だ、あんた? ここでクダまいたって、一銭の花代もつかんぞ。帰れ」

川島さんの登場に、彼女は怯んだものの、剛毅に、ふんと冷笑でかわした。これで彼女は、あだっぽくもキップのいい芸妓なのかもしれない。贔屓のお客も多いはず。

彼の死を知り、恋心を抱えたままどうしようもなく、悲しみと怒りのぶつけ先に、わたしを選んだのだろう。「あんたのせいだ」と。そうすることで、楽になりたいのだろう。

嫉妬の混じる怒りの矛先を向けられることには、それほど堪えない。耳障りで耐え難いのは、身勝手な鬱憤をぶつける、その醜さだ。

わたしは、白くなるほど唇を噛んだ。

「あの方を死に追いやったくせに、涼しい顔して、またすぐ好きに動かせる別な男を見つけるんでしょう。苦労知らずのお嬢さんのやりそうなこと…」

ちっと、苛立たしげな舌打ちの後で、「いい加減にしろ」と、川島さんが一歩前へ出た。

わたしは、打ち明けるべきではなかったのかもしれない。

けれども、目の前の、易く他人に怒りをぶつける梅若の短絡さが、堪らなくうとましくて、憎たらしくて……。

胸の黒々とした悲しみの沼に、引きずられ、ときに溺れながら、わたしだって耐えている。人に言えずに耐えている。

誰のせいでもないからだ。自分の選んできたすべての結果、こうなった。

ふと、思い出す。

あの夕刻の最後の逢瀬を。彼の待つ部屋へ赴き、扉を開けると同時に、わたしは中尉に強い力で抱き寄せられた。易く、彼の腕にのめり込むように沈むその背中で、ばたんと扉が閉じた、あの重い音を。

あれは、これまでのわたしのすべてが、絶たれた音だったのだ。

 

「亡くなった恭介様の子を、身ごもっているわ」

 

「え」と聞こえた驚きの声は、川島さんのものだった。

絶句した梅若の蒼い顔が目に入る。切れ長の目を見開いてこちらを見ている。驚きに固まった顔。それが、ちょっと痛快だった。

「産むわ。だから、何?」

言葉を接げないでいる彼女へ、わたしはあちらへ手を払って見せた。「帰りなさい」と。

もう消えてほしいのだ。わたしの視界から。

 

梅若が消え、どれほどかの間の後、地面をとんと、爪先で叩く靴音がした。

「本当か?」

低く短い問いかけに、わたしはうつむきながら、更にこくんと首をうなだれさせた。先ほど、再来月の歌舞伎見物を断ったその訳は、彼の中で、新たな事実に、もうつながったのだろうか。

「ちっ」と、また不機嫌な舌打ちがする。

「恭介の、馬鹿野郎が…」

川島さんの顔を、わたしは見られないでいた。




          


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