甘えてないで、両の足で立ちなさい
祈るひと(34
 
 
 
「恭介の代わりにはならんが、力になる。何かあったら、頼ってくれ」
そう言った川島さんの手が、わたしの結った髪に触れかけ、一瞬だけ迷い、肩に落ちた。
肩に置かれた手の重さ、大きさが嬉しかった。それは、彼の優しさをありがたいと思ったためではなく、その行為に中尉の影を見るからだ。
「さっきのあの女のことは、気にするな。またな」
上着を羽織り、背を向けた彼を、わたしは歩を早め追った。意味もなく、だらりと下げた右の腕を引いた。
「ん?」とこちらを振り返った彼へ、ありがとうでもなく、わたしはまた意味もないことを口にしていた。
「前に、わたし、恭介様に手ひどく振られたことがあるの。川島さんは、ご存知でしょう、きっと。小石川まで追っかけて行ったの、会いたくて、馬鹿みたいに…」
そこで、彼は身をこちらへ返した。やや怪訝そうに目を細めて、わたしを見下ろしている。
「お偉い中将閣下のご令嬢との縁談が決まったからって…、それは嘘だったのだけれども、そんな方便を言って、あの人、わたしを遠ざけたの。「もう終わりにしたい」って…」
意図の知れないわたしの話にやや倦んだのか、川島さんは、ちょっと嘆息した。それでもまだ、その先を待っていてくれるのがわかる。
この人は、見かけよりきっと優しい人なのだろう。多分、自分で気づく以上に優しい。
「…そのときの方が、今より辛かったように思うの。わたしでない、別な誰かを選んだ彼の方が、きっと悲しくて憎いわ。今は…、もう会えないけれど、誰にも奪われない、わたしだけの人だから…」
「まだましって、訳か」
そこで川島さんは、口の端を緩めて少し笑った。最前の梅若の姿が浮かぶのだろう。恋しい人を失って尚、競い合う女の浅はかさが、おかしいのかもしれない。
「死んだら、それまでだ。何もできん」
 
え。
 
「死んだら、終わりだ。もうあいつですらない」
それきりで、彼はまた身を返した。肩の辺りに、挨拶代わりにちょっと手をあげる。
わたしはその姿を見送り、ややほうけたように、その場にたたずんでいた。宿の方から夕食の仕度の匂いがふんわりと漂ってきた。少し前までは、懐妊のため、その匂いに気分を悪くさせたが、もう何ともない。空腹さえ感じる。
自然、帯に手をやった。
空腹を感じるとき、おなかの子を思うことが癖になった。初産で、知識もない。ただ単純に、自分が口にしたものが、腹の子を育んでいるという程度の捉え方だ。
「おなか、減ったねえ」
こんな風に、小さく話しかけることもたびたびある。
夏の夕暮れの甘い風に当たりながら、さっき川島さんに告げた、彼にとってはどうでもいい話を反芻していた。あれは嘘の混じる事実だ。
確かに以前、彼に別れを強いられ拒絶されたとき、わたしは絶望を味わった。死にたいとまで願ったことすらある。その悲しみの辛さは、震災の夜の再会まで尾を引き、結局癒えることなどなかったのだ。
けれども、それが中尉を失った今の悲しみを上回るというのは、嘘になる。辛さの質が違い、きっと比較などできない。
ただ、選ぶことができるのであれば、わたしは、今を選ぶだろう、ということ。
わたしでない誰を選び、妻とする彼。また、わたしでない誰かを求め、愛する彼を、許せず、認めるなど絶対にできない。もうそれは、わたしの愛した彼ではないから。
 
なら、失った方がまし。
 
この覚悟は、もしかしたら腹の子が育ててくれたのかもしれない、ふと、そう思う。
わたしが口にしたもので赤子が育つのであれば、わたしの中の悲しみや切なさ、辛さだって吸収し、何かの糧にしていることもあり得るのではないか。
母の負の感情を、小さな小さな赤子が吸い取って溜め、何か別種なよいものに変え、送り返してくれているのかもしれない。命を守るために。
どうであれ……、
わたしはため息をつき、その場にしゃがみこんだ。
感傷に溺れ、身勝手に死ぬ訳にはいかないのだ。それは、腹の子をも殺すことになるのだから。
またシロクロが、吠え出した。撫ぜに行ってやろうと、わたしは、重く感じる腰を上げた。
 
 
九月も半ば過ぎ、暑さも和らいだ。昼日中はまだ残暑を感じるものの、朝晩にはすっかり秋の気配だ。
まだ目立つほどではないが、おなかがふくらみ始め、わたしは宿へ顔を出すのを控える日が続いている。
屋敷の女中は元より、あちらの人間にも、わたしの懐妊は薄々気づかれているはず。誰も口にせずとも、「あれ?」といった様子の異変は、とうに嗅いでいることだろう。
奉公人らに知れてしまうのは避けようがなく、これには母も腹を括ったらしい。心配なのは、外へ噂が広まってしまうことだ。たまさかに、自嘲気味に二人して、「知った人のいない神田に越したのは、正解だったわね」などと言い合うこともある。
腹がふくらんでからは、母とはより実際的な話を交わすことが増えた。お産の場所や、頼む産婆など。そして、産んだ子を里子に出す件も、母の話にちらりと混じるようになる。
「横川の叔父さんの知った人で、子を望んでいる地方の夫婦があるのですって。文緒の子だとは、言っていないから安心して」
そんな話を、わたしはうなだれて、聞いているよりない。横川の叔父とは、母の弟に当たる人物だ。我が家とは大きな揉め事があったようで、以来盆暮れすら行き来がない。
疎遠になっている不仲の弟を頼ってまで、里子の先を探してくれたのかと思えば、口答えのできるはずもない。
家にいて、一人刺繍をし、本を読み、縫い物をする日が続く。娘だった時分には当たり前だったこういった日常が、数年を経た今繰り返せば、どこかぎごちない。シロクロを連れ外へ出たいが、人目もあり、控えている。
あるとき、犬の散歩帰りか、宿の仲居頭の幸子がふらりと顔を出してくれた。縁側で日に当たりながら縫い物をするわたしのそばに、朗らかな様子でやってきた。
彼女はりんごを持ってきて、それを剥いてくれるという。通りがかったおみつに声をかけ、手のりんごを見せながら、
「ねえ、おみつさん、お皿を出してもらえない?」
一方的に幸子を嫌っているおみつは、返事もせずに「ふん」と出て行く。ほどなく持ってきた白い皿を、乱暴に幸子へ突き出した。
その様子を見、幸子と目を合わせて笑った。
膝の縫い物を脇にやり、剥いてもらった皿のりんごをつまむと、幸子が、
「呉服商のお嬢さんでいらっしゃったから、やっぱり違いますねえ、手ずから、さらっとお縫いになるんですもの」
わたしは単衣を仕立てているところだった。
「あら、さっちゃんは、着物縫わないの?」
「あたしは不器用で、雑巾すら縫えません。お姑さんに、それでいつも笑われるんですよ、女じゃないって。家の外で動いてお銭を頂戴するのが、よほど性に合ってます」
「手先も器用に見えるのに、人それぞれねえ」
如才なく朗らかで、仕事のできる彼女は、着物ぐらいすいすい縫うように思えたのに。
甘酸っぱいりんごが喉を通るとき、幸子が「男地ですね、きれいな柄」とつぶやくのが聞こえた。それに目を伏せる。
父の死で、呉服商を辞めるとき、男地でもいい反物は、わたしが彼のために縫うだろうと、母が以前分けておいてくれたのだ。
手すさびに縫っている単衣は、中尉へのものだ。着てくれることのない彼を見立て縫った品が、実はもう幾つもある。自分のものを縫うよりも、気が向くのだ。
聡い幸子なら、わたしが縫う膝の男物の単衣を見るだけで、それがおなかの子の父親であると知るだろう。彼女は、歯音よくしゃりしゃりりんごを噛みながら、それ以上、何も問わなかった。
咀嚼し終え、ふと、彼女がもらしたのは、わたしの分まで毎日宿へ顔を出し、仕事をする母のことだった。
「今朝方、女将さん、宿の者を集めてお話をされたんです」
「え」
母がしたその話の内容は、告げなかった。幸子が言ったのは、その場で母が、わたしの身の上に起こったことを決して口外してほしくないと、頼んだことだった。
「「お願いします」って、頭を下げられて…」
え。
「何か、変に涙が出てきて、…あたし、仲居部屋でちょっと泣いてました」
幸子は、ふふっと何でもないように笑った。
耳に、ばんばんと、干した布団を荒く叩く音が聞こえた。おみつだろう。「宿へ早く帰れ」と、仕草で、幸子へ無言で訴えているのかもしれない。
その音に、「あら、おみつさんに急かされてるわ」と、また口元を緩ませ、幸子は立ち上がった。
「お嬢さんに、これをお知らせしようとうかがったんです。ご承知の方が、きっといいと思って」
「…そうね。ありがとう」
皿に残ったりんごは、ほどなく黄ばんでしまった。下げに現れたおみつが、わたしがもう手を伸ばさないのを見るや、ぱくっと口に入れた。
一人になり、幸子の話に、わたしが今度は涙ぐんだ。
わたしは、主である母が、奉公人に頭を下げたことなど、見たことがない。その必要などないからだ。「頼むわね」、「お願いね」といったものはよく聞いてきたが、それはやんわりとした彼らへの命だ。
母に頭を下げさせる自分を、強く恥じた。情けないと思った。父が存命であれば、そんなわたしをどう思うだろうか。
そして、わたしのために必要とあれば、主の見栄も誇りも脇に置き、そうしてくれる母のありがたさに、涙は止め処もなかった。
母は自らの行いを、口になどしないだろう。血の通う親子の甘えで、わたしもその礼を口にできないのではないか。
父が亡くなり、震災を経験し、宿屋を始めた。母と二人でやってきた。二十歳を越え、いつしか自分を、自立した大人の女であると思い込んでいた。
けれども、わたしはいまだに変わらず甘ったれたお嬢さんで、母の温もりのこもる厚い庇護の羽織を、その身にしっかりと着ているのだと気づかされる。
その温かさに、ありがたさに、今、心が震えた。
 
 
夕飯の後、お茶を飲みながら母と居間に向かい合う時間。わたしは、思いついて、婦人雑誌を眺める母へ声をかけた。
「何? 文緒」
「おなかの子のことだけれども…」
わたしの言葉に、母はすぐさま襖へ目を向けた。きっちりと閉められていることを確かめるや、目を戻した。
「あのね…」
わたしが母に告げたのは、里子の件だ。わたしのために、また別な誰かに下げずでもよい頭を下げさせるのは、しのびなかった。
以前、霧野中尉の妹御が、子を引き取ってもよいといった言葉をくれたことを、ふと思い出したのだ。
あのときは尋常な気持ちではなく、聞き流した言葉であったが、あのお人であれば、母が頭を下げる必要もない。また事情を知り、外聞を十分にはばかってもれるだろうからだ。
妹御へ子をお願いしては、のわたしの声を、母は言下に否定した。
「震災のときには、ひとかたならないお世話になった方だけれども、霧野様も、ああなられた以上、関わりのない方よ。もうおつき合いは、止めにしましょう」
母の拒否は、わたしにはまったく意外で、その顔をまじまじと見つめた。「そうね」と易く賛成してくれるだろうと期待していたため、母の反応にややあっけに取られた。
母は、その話はお仕舞い、といった風に、また婦人雑誌に目を落とした。
「お母さん、あの横川の叔父さんに頼むより、ずっと気が楽だと思うのだけど…」
母はもうわたしの言葉に取り合わず、婦人雑誌に載る洋装のデザイン画を見せ、「モダンで素敵だけど、ちょっと奇抜ね、素人には」などと話題を変えた。
かたくなにも見える母の態度に、わたしはそれ以上その話を持ち出すことをあきらめた。隅のかごに入れた刺繍を取り出し、膝に広げた。母の前ではさすがに大っぴらに男物の単衣など縫えない。
ちくちくと小鳥を縫いながら、わたしは母の言葉の意味を探った。母に妹御を避ける理由を問うても、おそらく口にしてはくれない。言っても、それは本音ではない別なものだろう。そんな気がする。
多分、わたしの気持ちをはばかって……、
 
あ。
 
不意にわたしは、母の気持ちに触れた気がした。
「…ねえ、お母さん、恭介様が嫌い?」
母はわたしの声に、顔を上げた。ちょっと黙って目を伏せる。小ぶりに首を振り、「そうではないけれど」とつぶやく。
「ただ…」
伏せた瞳のまま、頬杖をつき、吐息の後で告げた言葉は、ほっそりとしていた。
「霧野様が我が家にいらしてから、次々と…、あったでしょう、だから…」
わたしは膝の刺繍布を握った。針がちくんと指を刺した。
父の死に続き、成田屋を閉めたこと。
震災に屋敷を失い、着の身着のままで逃げた。
そして、一人娘の望まない懐妊。
母にはそれが、あまりにひどい負の連鎖に思えるのだろう。そして、今度は、彼自身が、わたしを身ごもらせた責任も取らず、逝ってしまった……。
すべて、中尉が現れてから起こったこと。
断ちたいのだろう、母は。その連鎖を。彼の死によって、もうお仕舞いにしたいのだ。
「ちょっとそんなことを、どうしても思ってしまうのよ。ごめんね、文緒」
わたしは首を振り、それに答えた。因縁めいて考えてしまうほど、連なる悲しみに、母は辛かったのだろう。
母が中尉をそう見てしまうのであれば、それはわたしの責任でもある。彼を選んだのは、紛れもなく、わたし自身だ。
「ごめんなさい、お母さん…。悪いのは、わたしよ」
彼と、わたし。
 
 
思いがけない便りがあった。
それを届けたのは郵便配達人ではななく、十歳ほどの少女だった。縁側に腰掛け、シロクロを撫ぜてやっているとき、おみつがその子を庭へ案内してきた。
「文緒お嬢さんに、直接お渡しするよう言いつかったと言ってます」
「誰から?」
頬を赤くした少女に目をやってから、おみつを見た。彼女は首を振り、「それも自分が言うってききません」。
子供の手には白い封筒が見えた。膝が出た古い継ぎのあたった着物を着ていた。我が家では、奉公人にももっとましなものを着せる。そう裕福な家の小女ではないらしい。
おみつを下げ、小さな使者から手紙を受け取った。表書きに、『ふみおさま』と平仮名であり、裏書はない。
少女の前で封を切った。短い手紙で、しかもすべてが仮名書きだった。先日の無礼の詫びと、わたしの無事の出産を心からお祈りする、といった内容が、拙い文章で綴られていた。
「あ」、と息が一瞬止まったのは、最後に記された名だった。『梅わか』と記されている。
わたしは手紙を封に仕舞い、前に緊張して立っている少女へ目を向けた。
「あんたは、梅若のところの者なのね?」
問えば、こくりと少女は頷いた。こちらの返事を待つつもりか、少女はじっと立ったままだ。
郵便ではなく、敢えて子女を走らせて手紙を届けさせたことや、直接わたしへ手紙を渡すよう命じたことなど、十分な梅若の配慮がうかがえた。
先だって、我が家へ乗り込んできた際も、装いを凝らすのが通弊の芸妓の彼女が、あんなに質素な素人風に作ってきた姿も、併せれば、あの女なりに、こちらを気遣ってくれていたのだろう。
「読んだ、と伝えて」
それを少女に言い、女中を呼んだ。何かお菓子の余りでもあれば、包んでやってくれと頼んだ。ふと思いつき、おみつを呼び、わたしの古い銘仙を二〜三枚も出すように言う。
きょとんとした様子でわたしを見やる少女に、女中に運ばせた菓子を渡し、銘仙を包んだ風呂敷を持たせた。
「肩上げして、はしょればいいから。お正月にでも着なさい」
使いに出た先で、なぜか色々と褒美をもらい、意味がわからないながらも、嬉しさは露わだ。嬉々として礼を言い、少女が帰っていった。
もう一度、手紙を開いた。
彼女には、ひどく罵られた。聞き流せるものもあれば、今も胸にしこりをもつものもある。
『あんたのせいでしょう。あんたがねだったんでしょう? 偉い男じゃないと嫌だって…』。
川島さんは、これらの言葉を気にするな、と言ってくれた。多分、親友の彼には、中尉のその心情がくめるのだろう。
けれども、今も胸が痛い。
私は中尉に、「偉い男が好きだ」など言ったこともない。そう願ったこともない。ただそばにいてほしくて、早く彼の妻になりたかっただけだ。
でも、
わたしは、彼のその思い込みを否定したことはない。そう思わせ続けた。理由があるとすれば、ひたむきにわたしを求めてくれる、その彼の声の熱が、うっとりと嬉しかったのだ。「あんたのために」と言ってくれる、彼の恋情のまっすぐ先に、わたしはいることを好んだ。
 
それは、わたしの大きな罪ではないだろうか。
 
もう、償えない。
償いようもない。
梅若の寄越した手紙には、過日の無礼を詫び、出産を気遣う他、暴言はない。今は、彼女が、わたしへのあの振る舞いを過ちとしている。
でも、
正しいのだ。彼女は。
 
わたしが、恭介様を死に追いやった……。
 
平仮名ばかりの手紙の文字は、あふれる涙でにじみ、ぼやけた。手紙を顔に押し当て、わたしは声を殺して泣いた。
便箋からは、ほのかに椿油の匂いが香った。
 
 
十月のその日、母は女中を連れ、人目をはばかり屋敷から離れた神社へ行っていた。わたしの戌の日の腹帯をいただくためだ。
その母が帰宅後、自室のわたしを呼んだ。神棚に腹帯を上げ、お参りしていた母が、こわばった顔を向ける。
「お母さん、ありがとう。疲れたの? 出かけて」
唇を噛み、母は首を振った。わたしのそばに腰を下ろし、ふと手を握る。秋の風に当たり、母の手のひらは冷たかった。
「文緒…」
「お母さん?」
母の不安げな態度が訝しい。具合でも悪いのでは、と案じた。額を母の頬に当て、熱を見るとき、母がつぶやいた。
「会ったの、山本家の淳平さんに。…ずっと、つけられていたのよ」
 
え。
 
母の頬からは、熱さではない、恐れと緊張が量れた。それを知り、わたしは母へ額を当てたまま、同じ種の不安をわき上がらせた。



          


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