甘い言葉と美味しい御噺
祈るひと(35
 
 
 
母の告げた話は、こうだった。
神社へ参拝し終え、境内を出、鳥居をくぐったところだったという。そこで、山本屋の淳平さんが母へ声をかけてきた。
母は、まず偶然であると思った。健康な青年が、昼日中こんな場所にいることが奇妙であったが、偶然とはそうしたもの。何かの用でもあるのかもしれないと。
「成田屋の小母様、屋敷から離れたこの神社に、何のご用ですか?」と、彼は、母の手にした紙の包みをのぞき込んだ。母はとっさに、腹帯の入ったそれを袂に入れようとしたが、少しのことで遅かった。
ちらりと目に入ったはずの包みの中身を、淳平さんは、敏くも見抜いたという。
「戌の日の腹帯ですか…」。つぶやくように言った彼へ、母が取り繕うため、「女中にお産を控えた子があってね」と、とっさにごまかした。
「成田屋の小母様、それはおかしいでしょう。小母様自ら祈願に訪れるのなら、それは文緒さんへのものではないですか?」。ずばりと言い当てられ、母はうろたえた。
「いえ。おかしなことを言わないで頂戴な。…ちょうど、奉公を辞めた女中の見舞いの帰りしななのよ。その家に生み月の近い嫁があるから、ふと思いついて…」。
母の声におっかぶせ、彼は、
「それは嘘ですよ、小母様。僕が見ていましたらからね。神田の屋敷から、女中を連れ、小母様がここへまっすぐに参拝に向かったのを、ちゃんと知っているんですよ」、
そう言ったという。
母は言い終えると、嘆きの声の混じったため息をもらした。わたしは母の手を取り、握りしめた。
なんて、気持ちの悪い人だろう。一体、何の目的で、屋敷から出かける母の後をつけたのか。
「何度も否定はしたのだけど、淳平さんったら、にやにやとしたり顔で頷くばかりで、信じてはもらえなかったわ。きっと、父親が霧野様であることも、見当がついているでしょうし。…お父さんは、あの人をぼんくら扱いして好かなかったけれど、妙なところにすばしこい人よ」
「それで、淳平さんは、何て?」
母は伏し目がちに、答えた。「近いうちに、お邪魔したいな」と、彼が言っていたそうだ。他、今日のことは決して他言はしないと、誓ってもくれたというが……。
「何をしに?」
「さあ、あんな馬鹿のことをしでかしても、あんたのことが、忘れられないのじゃないかしら。まだ独り身だって、ことだし…。気味が悪いけれど」
わたしは、ぞくりとした寒気を覚えて、ぎゅっと目をつむった。淳平さんが母をつけたという不気味な不快さは、怒りに絡まり、しばらく尾を引く。
母とは、確実な証拠がある訳でもなし、知らん振りでいよう、と頷き合った。
もし他方へ、わたしの懐妊を言いふらす心積もりであれば、こちらも、以前の彼から受けた被害を、黙ってなどいないつもりだった。あれには、川島さんという、証人もあること。
淳平さんとの嫌な再会の後、やはり不安な日がしばらく続いた。それが時間に薄まりかけた頃、淳平さんが、本当に我が家に現れたのだ。
 
わたしに伝えに、女中が現れた。玄関に立っていると聞き、宿へ出ている母へ伝えるよう命じた。別な女中に客間に通すよう言った。
女所帯で、応接間もしつらえていないことから、普段、個人的なお客は居間へ通す。けれども、毎日の多くの時間を過ごすその場所を彼に見られるのが不快で、とっさに避けたのだ。
庭を抜け、母がすぐに帰ってきた。小走りに来たため、やや息が上がっている。
「とにかく、会ってみるわね、ただ単に、つき合いのあった我が家が懐かしいだけ、ということもあるかもしれないし…」
母は、そんなありそうもない希望を言いつつ、淳平さんを待たせた客間へ行った。
居間で待ちながら、客間の様子が気になって仕方がない。塗りの長火鉢の端を、こつこつと指で叩く。
何度も時計を確かめ、母が客間へ行ってから、十五分ほども経ったろうか。おみつが、母の命だと、わたしを呼びに来た。
腹はふくらんでいるが、突き出すほどもない。帯で隠せる範囲。冷えるので羽織を着ているから、まず、身ごもっているとは知られないはず。
母がわたしを招く意味を考えながら、客間の襖を開けた。小さな床の間を背に、淳平さんはいた。
黒縁の眼鏡をかけ、身に合った上質そうな背広の上下を着ている。相変わらず、裕福な家の御曹司といった、洒落たいでたちだ。
「久し振りだね、文緒さん」
やや神経質な感はあるものの、わたしへ穏やかに微笑んだ。以前のひどい振る舞いなど、なかったかのような澄ました態度には、まったく呆れてしまう。
わたしは彼の目を避け、挨拶もせず、母の隣りへ座った。
「山本屋さんは、今、奥様のご実家のある芝の方にいらっしゃるのですって。おばあ様が震災の際に亡くなられたそうよ」
わたしへ向ける母の表情も声も、思いの他和んでいるのに、ちょっと虚をつかれた。
「都心まであまりに遠いので、新聞社は辞めにしましたよ」
帝都には震災後も復興が早く、停車場もあり、都心へ電車も通う。辞めるほどの困難さは考えにくい。
かつて、偶然会った霧野中尉へ淳平さんが言っていた、「従軍記者に志願したい」ような新聞記者への熱意が、それほどのものではなかったということだろう。
「今、株屋に勤めているんですよ。ぶらぶらしていると、父もうるさいし。紹介してくれる人もあったので」
「若い方は、あれこれ経験するのがいいものですよ」
母は調子を合わせた。そこでわたしへ向き、「ねえ、文緒」と、膝の手に自分のを重ねた。母が言うには、淳平さんは、過去のわたしへ行った非道な振る舞いを、詫びに我が家へ現れたのだという。
母の意外な和やかさの意味が、それで解けた。
わたしは目を合わせるのも不快で、あちらを向いたまま、
「随分遅い改心ね、驚きました」
硬い声で返した。
母が、困ったように吐息するのが聞こえた。
「小母様、文緒さんが怒るのも無理ありません。まったく言い訳しようのないことをしでかしたんですから。それに、僕は資産家の息子で育ったいわゆる「ぼんぼん」です。意気地なしなんですよ、だから…、謝りたくても、その勇気がなかなか持てなかった」
思いがけない告白に、わたしは改めて彼を見た。膝に手を置き、ややうなだれながら、ときにわたしを見返す様子は、ちょっとだけ真摯なものが感じられる。まるで、宿題を忘れて、教師に叱られる生徒のようだった。
「それに、文緒さんには、どうせ、あの軍人の恋人があったでしょう、どうにもそれが面白くなくて。でも、あの彼には敵わない自分も知っていいて、…どうにも、敷居が高かった」
その高い敷居が、いきなり低くなったのはどうしてか。わたしは今も触れる母の手を感じながら、話し続ける彼を、冷めた目で見つめた。
多分彼は、どこからか、中尉の死を知ったのだろう。だから、その存在の消えた今、現れた……。
「妹の聡子も、震災からこっち、文緒さんを恋しがっているんだ。また以前のように、家ぐるみでつき合ってもらえると…」
やはり、ずるい人。意気地がないのではなく、ずるいのだ。詫びる気があれば、もっと早く、いつでも、手紙ですら詫びることができたはずだ。
目つきの悪い野良猫のような中尉が消え、ねずみのようにこそこそと小ずるい淳平さんが、目の前に姿を出す……。気味の悪いたとえが思いつき、それに、胸の中でちょっと嗤った。
「申し訳、ありませんでした。ひどいことをして、本当に、済まなかった」
淳平さんは、改めて座布団を降り、今度はわたしへ深々と頭を下げた。
どう言葉を並べられようが、頭を下げられようが、過日のことは許せない。いつか過去のものと忘れられても、この彼の顔は、見たくない。
「とりあえずのところは、淳平さんのお気持ちもわかりましたから、もう、どうか、頭を上げて下さいな。今後のおつき合いのことは、これから、追々…」
彼への嫌悪感は、理性ではなく、生理的なものだ。母が、日本橋の商家なじみの甘ったれた子息の詫び言にほだされ、優しい言葉をかけるのすら不快だった。
わたしは彼から目を逸らし、障子の入った丸窓に目を流した。母の言葉に、淳平さんは早速頭を上げる。形だけなのだろう、本気ではない。
本心からの謝罪であれば、何か形にして見せるもの。以前わたしを拒絶した中尉は、わたしへの真心を震災の夜、駆けて、駆け通して、救いに現れることで示してくれたのだ。
「お母さん、失礼するわ」
この場にいる何の意味も見つからず、腰を上げかけたとき、声がした。
「小母様、もう一度、文緒さんとの縁談を認めてもらえませんか。僕は、どうしても、文緒さんが好きなんです。彼女が身ごもっていることは、承知しています。それでもいい、僕がその子の父親になってもいいから…」
淳平さんの言葉に、上げかけた腰が落ちた。ひどく驚いたのだ。まさか彼の口からこのような言葉が出ようとは、思いもよらなかった。
母も驚きは同様で、固まったように前に座る淳平さんを見つめていた。
ちょっと時間が止まったようにも感じるひとときだった。
 
 
淳平さんはその後、母が宿の板前に急遽用意させた昼食の膳を平らげ、「また、お邪魔してもいいですか? こちらはとっても雰囲気がいいお宅だから、落ち着くんですよ」などと、適当なことを笑顔で言い、帰っていった。
居間に、母と二人になれば、わたしは頬をふくらませ、文句を言った。とうに驚きは去った。
「お母さんも、あんな人にお昼を用意してあげる必要なんてないのに」
「そう言えば、引き取ってくれると思ったのよ。「はい、いただきます」と返ってきて、お母さんが驚いたのよ」
母の声は、笑みを含んで和やかだ。淳平さんの来訪が、母には結果よかったのだろう。明らかに、彼のしたわたしへの求婚が、母の心証を、上へ跳ね上げたのがわかる。
元々、母は山本屋との縁談を望んでいたし、出自が我が家と同じ大店の資産家、という点が、母にとって何より懐かしさと慕わしさを感じてしまう要因だろう。
それは、母が、父の許で大きな苦労も知らず、鷹揚とお内儀に納まっていられた、幸福な時代だから。
「図々しい、人」
「そうね。でも育ちがいいから、おっとりとしているのよ。それに、図々しさでは、霧野様にはとても敵わないわよ」
確かに、母の言葉に抗うことはできない。見ず知らずの他人の家に、タダで三月も泰然と滞在していた、あのふてぶてしさは、貧乏ったれた生来のものだろう。
「…淳平さんとの縁談は、もう絶対に断って。嫌なの。あの人は絶対に嫌なの」
あの人は、わたしを暴行しようとする際馬乗りになり、頬を幾度もぶったのだ。あの生々しい卑劣さは、今も鮮やかに覚えている。易々と過去のものにできない。
わたしの尖った声音に気づくのか、母は「ええ」と何度も頷いた。「わかっているわ」と。
「ただ、ちょっとお母さんは嬉しいのよ。傷物になって、懐妊までしているあんたを、あの立派な資産家の山本屋の一人息子が、まだほしがってくれているなんて、それだけで嬉しいのよ、やっぱり」
「嬉しいの」。母の言葉が耳にしみる。
それに返す言葉も見つけられず、黙ったまま、わたしは母の言葉に、その心の重荷を思った。我が家も傍目には、「あの立派な資産家の成田屋」であり、わたしはその一人娘であったのだ。
母のわたしへかけた期待や夢の幾つが、砕けたのだろう、壊れたのだろう。
それを思うと、申し訳なさ、切なさで、胸がつまった。帯の奥の子をはらんだ部分がちくちくうずくような気がする。
 
お愛想ではなく、淳平さんは十月の内に三度も家にやってきた。有名な菓子舗の包みを提げ、「こんにちは」と玄関を入ってくる。
「山本屋の若旦那がいらっしゃいましたよ」と、女中が告げに来れば、そのまま無言で宿の方を顎で示した。母に任せろ、という意味だ。
仕事の最中呼び出すのは気が引けるが、彼を家に入れる許しを与えたのは母だ。それにわたしは、やはり彼がどうしても苦手で、顔を合わせたくない。
昼の勤務の途中を抜けてくるのか、「ちょっと息抜きに」、「お顔を見に来ました。母も気にかけていて」など言い、訪問はごく短く、十分〜三十分程度のあっさりしたものだ。
十一月に入ってもその伝が続く。母も彼に慣れ、お昼に合えば、いつも宿から食事を運ばせるなど気配りを見せる。それが、わたしへの愛情に根ざした彼への厚意だと知っているから、そのことに関しては何も言わなかった。
内心では、「そんな甘い顔をするから、ずるずると交際する羽目になるのに」と、思ったが。
しかし、逆にそういう母であったからこそ、以前我が家に滞在していた、お侍の浪人者のような中尉へも、細やかなもてなしをしてくれたのは、否めない。
その間、わたしは顔を合わさずに済むよう、庭でシロクロの相手をしたり、居間で縫い物をするなり、勝手に過ごしていた。
屋敷にそんな小さな変化があったその頃、薄い手紙が届いた。流れるような女文字で綴られた長くもない手紙は、霧野中尉の妹御からのものだった。
中尉の墓を館の庭に建てたので、「好きなときにいらして」とのこと。返事のしようのない内容で、わたしはその手紙をすぐに自室の塗りの小箱に仕舞った。
仕舞いながら、次、川島さんが来ることがあれば、伝えようと思った。けれども、もう紫様が知らせ、知っているかもしれない。彼の死も彼女が告げたのだから、兄の友人とのつながりはきっとあるのだろう。
「川島さん、いつ来るのかしら?」
梅若の騒動があって以来のことになる。一家の看板を支える人だ。そう暇もないはず。そのように思いながら、わたしはやはり、次、いつ彼が来てくれるのだろうか、とひっそりと待ちわびている。
極道でありながら、彼のまなざしはどこか甘さが匂う。端正な横顔を思い出せば、よりそう思う。
涼しい顔立ちではあっても、目つきが悪く、こめかみ辺りに無頼な傷跡のあった中尉の方が、よほど極道は似合いそうに思えた。
「恭介様は、喧嘩も強いし…」
ふと、声に出しつぶやく。胸の奥が、しめつけられるように切なく鳴った。心がきしむような、痛々しい音だ。
それに、紫様が墓に納めたと教える、絹張りの彼の小箱を思い出した。あの小箱は、揺れれば、ちゃりんと、可憐な音がした。あの音に、切なさに鳴る心の音は似ている。
瞬きのせいで、頬に瞳に浮かぶ涙が伝った。
 
自分は、とても寂しいのだと知った。
 
 
 
それは、母が宿から早いお昼に、宿から帰ってきたところだった。
十一月も半ばに入り、冷えが厳しくなった。冬も間近で、吐く息が白く、火鉢が恋しくなる。
簡単なお昼には、小さな銘々鍋にうどんを煮込んで出させた。青菜や卵、焼いた小餅を入れるのが気に入り、よく二人で食べた。
それをふうふう言いながら、半分も食べない頃に、来客があった。知らせに居間にやってきた女中のお常は、いつにない硬い表情で、玄関のお客の様子を告げた。
「ガラの悪いのが、四人もいるんですよ。変な色眼鏡をかけたのや、派手な着物をずるずると着崩したのが」
お常の言葉に、意味がわからず、わたしは母と顔を合わせた。そんな男共がやってくる理由が知れない。
「おねだりの、例の衆かしら」と、母が言った。この界隈を縄張りにしている極道連中が、保護料だの言い、幾ばく科の金を商家に出させるのは、慣例のようなものだ。日本橋にあった頃、成田屋へもその手の者は現れた。
それかもしれない。神田に越し、宿を開業して以来、確かにそういった筋の衆に、金を支払ったことなどなかったのだ。
母が、ちょっと茶を口に含み、棚の小引き出しを開け、財布から数枚札を、白い封筒に収めた。それを袂に仕舞い、腰を上げた。
「渡してくるわ、それで帰るでしょうから」
わたしは、居間を出て行く母を見送った。食事に飽いた、というより女の身であのような衆に対応する母が気がかりで、食べるどころではなかった。
箸を置き、ぬるまったお湯飲みを手に取ったとき、母のものらしい、女の抑えた悲鳴のようなものが届いた。
わたしは腰を上げ、襖まで行った。廊下に出、そのまま玄関まで小走りに進んだ。身重であるとか、無頼の衆がいることの恐怖より、母の悲鳴が恐ろしかった。
母が、へたり込んだように、床に座るのが見えた。それを、お常とおみつが両から支えていた。
母の前の、あがりがまちに腰をかけた、太った年配の男は、帽子をかぶり、銀鼠の着物に黒い羽織を着ていた。その後ろには、立ったままでこちらを威嚇する、奇妙でだらしのない格好をした若い男が三人もあった。
一目で、極道者とわかる。
新たに現れたわたしへ、男たちは興味深そうな目を向けた。気味の悪い視線だった。
「文緒…」
母が出てきたわたしを咎めるような目をしたが、蒼白な顔をし、叱る気力すらなく見えた。屈んだわたしへ手を伸ばす。
「あんたは、ここの娘さんか。もう一度言うから、聞き分けのないおっかさんに、よく教えといてくれ」
銀鼠の男は、手に持った紙切れをわたしの前で広げた。それは縦書きで、まず右に、『金銭貸借証明書』とあった。十万円の金額を示した後に、小さな文字がずらずらと続く。
意味不明なその用紙を、ざっと目で追った。十一月末日の返済期限の横、用紙の最後に、山本屋の淳平さんの名を見つけた。
あの彼が、この極道たちから金を借りたのだろうか。しかし、山本屋は金の唸る資産家と有名だ。十万円は大変な金額であるが、その彼が、なぜ、いかがわしいこんな輩から金を借りなどしたのか。
それに、借金をしたのが、彼であるとはっきり証文は示しているのに、筋違いに我が家へやってくるのは、なぜか。
次々にわく疑問に、目の前の男は、パイプ臭い息をしながら答えた。
「山本淳平は、投機で失敗し、客の大金をすった。その他自前の借金も幾らもあるらしい」
「だったら、山本屋に金を請求に行けばよいでしょう。なぜ、関係のない我が家に…」
その問いに、男は証文の裏に重ねていた、もう一枚の紙を出した。そこには母の名が記されてあった。成田綾子。間違いなく、母の文字だった。
「これが…」
わたしの手を握りしめる母へ、振り向く。どうして、こんな紙に母の名があるのか。まるでわからない。金を借りたのは、あの淳平さんではないか。
母は涙ぐみながら、
「淳平さん、仕事の他、救護院の支援活動をしているって、それで古着を幾らかあげたのよ。その受け取りだって言って、わたしの名前を書かせたの。まさか、こんな風に使われるなんて…」
母の言葉の仕舞いに、男がつないだ。
「署名のこっちに、保証人と書いてある。保証人っていうのは、言うまでもなく、お嬢ちゃん、借りた奴が支払えない場合、代わりに返す役目のある人間のことだ。あんたのおっかさんの名がある以上、この十万は、あんたのおっかさんが借りたのも同じことだ」
「でも、淳平さんの実家は資産家で…」
「勘当されたとさ。何度も懲りずに、こんな額の借金の尻拭いをさせられちゃあ、甘い親でも嫌になろう。もらえるのは母親からのわずかな涙金ばかりで、飲み代くらいにしかならん」
それで、我が家を思いついたのだ。折りよく、中尉の姿もない。だから、今頃になって、都合よく詫びに現われなどしたのだ。
奥様然とした、人のいい母を騙すことなど、彼には易いことだったのだろう。
「事情はのんだな。期日は今月の末だ。この家なら、あの山本の話じゃ、金もたんまりあるってことだし。…なきゃないで、この屋敷と隣りの宿屋を売っ払えば、ことがすむ。好きな方を選んでくれ」
男が腰を上げしな、背後の背広をだらしく着崩した若者が、玄関隅の傘立てを蹴り飛ばした。陶器のそれは、たたきに倒れ、派手な音を立て砕かれた。
「払うまで、何度でも」と、銀鼠は傘立てを蹴り飛ばした男を顎で示し、
「こんなのが、お上品なこの屋敷に来ることになる」
涙を流す母へ、止めを刺すごとく言った。
男共が去り、しばらくは女中も動けずに、玄関前にへたり込んだままでいた。若いおみつがまず立ち上がり、玄関たたきの片づけを始める。それにお常が続き、おっかなびっくり奥から気配をうかがっていたおきよが、塩を巻きに玄関先へ出た。
わたしは母を支え、居間へ戻った。
まだ温みの残るうどんには、二人とも手をつけないでいた。とても食べ物が喉を通る状態ではない。
二人になれば、母は袂で顔を覆い、声を上げて泣き出した。
「…お父さんのものが、遺してくれたものが、…皆、とられてしまう…」
わたしは母の傍に行き、肩を抱き、背を撫ぜた。
母には、小悪党の淳平さんに騙された悔しさより、父の遺産の多くを失ってしまうことが、どうしても辛いのだ。
十万円。
吐き出せば、きっと、払い切れない額ではない。でれどもそれでは、母の言うように、ほとんど何も残りはしないだろう。家が残ればいい方。間違いなく宿屋はとられてしまう。
株券も、通帳に残る預金も、母とわたしのダイヤや宝飾品、着物にまで及ぶかもしれない。すっからかんになったわたしたちが、その後、どう暮らしていけばいいのか。
蓄えもなく、商いをする術もない。
いっそ山本屋へねじ込んでやろうかとも思った。でも、母の直筆の署名がある限り、勘当した息子の尻拭いを敢えて、あの家がしてくれようとは思えない。
 
母が悪いのではないのに。
 
まんじりともせず、わたしたちは寄り添い、互いの悲嘆を分かち合った。どれほどか後に、女中がお昼の器を下げに来た。「お茶を入れましょうか?」との伺いに、頷くものの、届いたそれには結局手もつけず、冷めさせてしまう。
宿へ戻る時間はとうに過ぎたのに、母は腰を上げる気配すらない。しおれた朝顔のようにうなだれ、嘆いている。
「どうしよう…」
わたしの声は、母の涙にかき消された。やはり、山本屋へ、と電話を頼もうと、女中を呼んだ後で、ふと彼の顔を思い出した。
 
あ。
 
「頼ってくれればいい」、「力になる」とは言ってくれた。けれども、こんな難題を持ちかけるなど、むしが良すぎるようにも思われる。
川島さんは、ただ中尉の親友というだけではないか。それだけの縁で……。
梅若が罵った言葉が、こんなとき、甦ってしまうのだ。それはわたしの心に、忘れられない印をくっきりとつけた。
 
『涼しい顔して、またすぐ好きに動かせる別な男を見つけるんでしょう』。
 
いいのだろうか、頼りにして。
そう焦れて悩みつつ、彼に助けを請いたい、安易な甘えも確かに存在するのだ。
「どうしよう、とられてしまう…」
母のぬれた嘆きに、迷いはいずれにも傾き、心を決めたのは、暮れ始め、雨が振り出した頃だった。
 
 
同じ両国の同じ場所に、瓦を葺いた小ぎれいな平屋の建物が建っていた。震災の後に立て替えたらしい。看板が上がり、そればかりは以前の錆びた鉄のものがかかっている。
車を降り、おみつの差しかける傘に入り、それでも足袋先を雨に染めながら、玄関へ進んだ。
既にとっぷりと暮れ、玄関先に奥内の明かりがもれてくる。
おとないを求め、たたきを踏めば、見覚えのある若い衆が、大声で、「二代目」と奥へ呼ばわった。
「お客っす。若い女の、別嬪の。ほら、いつかの女です」
こんなときであるが、若者の言葉におみつと顔を見合わせた。ほどなく、別な男が現れ、「お呼びだぜ」と、わたしを奥へ誘った。おみつはあがりがまちに掛け、待たせた。
廊下を進み、男が光のもれる襖を開ける。
柔らかい照明のこもる部屋に川島さんはいた。布団を延べた上にうつ伏せに寝そべり、着流しの背を、腰まで露わにしていた。背には、竜が雲と絡む刺青が、青々と鮮やかだった。
あだっぽく襟を抜き、胸元を緩く寛がせた、ちょっと崩れた感じの女が彼の腰を揉んでいた。
「あ」
言葉を途切れさせる異形の光景に、わたしはわずかに息をのんだ。そこにはこれまで彼が見せなかった、極道の姿があった。驚きと共に、胸にごくささやかな落胆があるのを知った。
 
わたしは彼に、何を期待していたのだろう。
 
煙草をくわえたまま、川島さんはわたしへ顔を向ける。よく知る精悍な面差しには、部屋の柔らかい明かりで、左の頬へ暗く影が差していた。前髪に瞳が隠れかけ、少し眇めた目でわたしを見る。
唇に挟んだ煙草のせいで、問いの声が潰れて聞こえた。
「どうした?」
その声に、どうしてだろう、涙があふれた。
 
どうしてだろう、泣きながら、
わたしは安堵している。



          


『祈るひと』ご案内ページへ

お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪

ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪