その眼に誰が映っていようとも、
祈るひと(38
 
 
 
宿から戻ってきた母へ、恭緒を任せた。
赤子を抱きながら、母の口元が、緊張に固く結ばれている。母にも、妹御の来訪の意図が、易く知れるのだ。おそらく、兄上の遺児を引き取りに、またはその説得にやってきたのだろう、と。
わたしも同じ緊張を抱え、客間に向かった。
わずかに、襖を開ける手が震えた。彼女の中にある、忘れがたい中尉の面影を見ることが、新たにまばゆく、また再びちくりと胸に痛いだろうから。
霧野中尉の妹御、紫様はしっとりとした浅紫の和装だった。
このお人には、どうしてか洋装であることを何となく期待してしまう。初めて会ったあの夜会の、貴婦人然とした印象が、わたしの中で鮮烈であったためだろうか。
爺やは庭へ降りているらしい。遊んでもらい喜ぶ、シロクロのはしゃいだ鳴き声がした。
対面して、短い挨拶のみを交わせば、言葉が途切れた。中尉にしろ、そう多弁な人ではなかったことを思い出す。彼が、あれこれ話をしてくれたのは、わたしがそのように問うたからだった。
彼の声が聞きたかったのと、二人きりの沈黙が、耐え難かったのと。黙っていれば、ときめいて鳴る胸の高鳴りが、彼にさえ知られそうに思えた……。
やはり、緊張に昂ぶるわたしが、ここでも折れた。黙って、やんわりとわたしを見つめる彼女へ、何の前置きもなく、こう告げた。
「恭緒でしたら、お渡しできません」
それに妹御は、「あら」とでもいうように、わたしを見、ちょっと笑みのように瞳を瞬かせた。やや首を振る。
「お詫びに、来たのですわ。先日は、大変な失礼を…」
「随分、嫌なお使者でした」
「簡単に詫びて済むことではないでしょうけれど、お詫びするしかないわ。ごめんなさい、知らなかったこととはいえ、館の者が、出過ぎたことをしました」
彼女の言葉に、わたしは「え」と息をのんだ。知らないはずが、ないではないか。彼女が子を引き取りに、こちらへ送った使いの者であろうに。
わたしの驚きと疑問に、妹御はまたゆらりと首を振った。その仕草が、いつかの彼に似ていて、わたしの目がぴたりと彼女から離れなくなる。
「違うの。わたしではないわ。子爵が…、わたしがそう望むだろうと」
わたしからの手紙で知った恭緒の誕生を、彼女は子爵にも告げたという。子爵は兄の死に悲しむ彼女へ、その遺児があるのなら、引き取ることで慰めになろう、と先走った愛情を見せたらしい。
「あなたから、子供を奪うつもりはありません。以前、障りがあれば引取ると言ったのは、あなたに障りがあれば、の話よ」
そう言われれば、使者の態度は、子爵家の威光をふりかざし、あまりに高圧的であった。それが頭にき、腹に据えかねもした。あれが妹御の使いであれば、確かにもう少しこちらを思いやりそうな気もする。
紫様は、最後に「申し訳ないわ」と、頭を下げた。きれいに結われた頭がまた戻るまで待ち、わたしはそこでやっと、「わかりました」と言葉を返した。
彼女の仕業でないことと、恭緒を奪う気持ちがないのがわかれば、怒りは解ける。
再びの沈黙。
思えば彼女と、こうして落ち着いて対面したことは、これが最初になるのではないか。数度あったそれは、ごく短いものや、中尉の死を知らせる場であったりと、妙なものばかりだった。
場が持たず、甥っ子になる赤子を抱いてもらおうか、とちらりと襖へ目をやったとき、ほろっと彼女から言葉が聞こえた。
「偉い人は身勝手に出来ているのね。意のままに人を動かすことに、ためらいがないの。最初から、そうだった…」
「え」
何の話か、一瞬意味が取れなかった。ちょっと置いて、それが久我子爵のことを指すのだと気づく。
相槌もままならず、わたしはやや目を伏せ、それに代えた。中尉から、妹御の身の上のあらましは聞いている。兄の彼のため、自ら久我子爵の囲われ者になったことを。
その献身は、中尉の死によって、ぷつんと甲斐が途切れた結果となった。無駄ではなかったはず。けれど、後味悪く、彼女の中に残るだろう。
なぜなら、今もって彼女は、子爵の囲われ者であるのだから。
川島さんへの思いと、彼女はどう、現実との折り合いをつけているのだろうか。ふと、そんな同情に似た興味を持った。
「女学校のときよ、初めて子爵に会ったのは。校長先生の知人で、オルガンや本なんかを学校に寄付していたの。下校時に、待ち伏せされていたときは、本当にびっくりした、怖かったわ」
そこで彼女は、往時を思うのか、軽く唇を歪めて笑った。もしかしたら、それは笑みではなかったかもしれない。
わたしは、不意に彼女が始めた、こんな打ち明け話に面くらい、相槌も忘れ、その表情を見つめていた。
瞬きを話の接ぎ穂にし、彼女はまた話し出した。
十五歳であったこと。初めて近くで見た、子爵の優美な衣装、典雅な挙措。自分を見つめる目の色……。
それらをぽつぽつと話していく彼女を眺めながら、わたしは、何とはなしに、話すことが心地いいのではないだろうか、と思った。秘してきた過去であろうし、秘しておきたい過去だろう。
それを晒すことに、開放の心地よさを感じるのでは…、と。
わたしがそうだった。中尉との度の逢瀬の重さを秘していた、自分の心の窮屈さと、それをおみつに打ち明けた際の、重荷を下ろしたような心地よさを、わたしはよく覚えている。
ふと黙り込んだ彼女に、わたしはためらった末、言葉をかけた。彼女が自分の過去も、そしてこの浅はかな告白をも悔いているのでは、と思ったからだ。
「恭介様は、いつも妹御のことを気にかけていらしたわ。とても、感謝して、ありがたく思われていたのでしょう」
「兄は、ね」
そこで、はっきりと彼女は笑った。ふふっと、まるで楽しそうにも見えた。その笑みの意外さに、わたしはまた面食らう。何がおかしいのだろう。
「殿方は、たとえごく近い身内であっても、女を美化して見るものなのね。きれいな心を持って、汚れのないものだと思うの。思いたいのかしら…」
「紫様…」
「子爵の許へ行ったのは、自分のためよ」
 
え。
 
「きれいな着物が着たかった。流行のように可愛いリボンで髪を結いたかった…。家事や畑仕事で手を赤く荒らしていたのは、級友の中で、わたし一人だったわ」
それは、言葉を失わせる告白だった。
彼女は、兄の中尉が自分を美化している、とややも嗤ったが、彼の話を聞いていたわたしも、同じく彼女を美化していたのだ。
わたしには到底出来ない選択を、兄のために行ったのだ、と。自分を犠牲にした尊い行為だ、と。
ゆらりと彼女は首を振り、
「兄のことがなければ、人の妾になるなんて、選ばなかったかもしれない。けれど、それはいい口実にもなったのよ」
「恭介様は、それを…?」
「何度も言ったわ。余計な呵責を負ってほしくなんて、ないから。けれど、信じてくれないの。わたしが、気遣って、敢えてそんな嘘をついているのだと思うのね。あんな現実的な人でも、ひどく純粋なところがあるの」
それは、あなたを愛しているからだわ。
喉から込み上げた言葉は、舌の上で消えた。そんなこと、この妹御には、百も承知だ。
「兄が軍人になったのは、きっとわたしのせいよ。わたしには、都合よく便利に進路を変えたようなことを言っていたけれど、兄は、戦地にでも行き、早く死にたかった、のじゃないかしら…」
 
え。
 
彼が妹御に告げた、軍人を志した理由とおそらく同じものを、わたしもかつて、彼から聞いた。それに、疑いなどなかった。単純に、利己的で保身に勝った、合理的な彼らしい選択だと受け入れた。
その根には、妹御の将来を、自分のために犠牲にしてしまったという、拭えない罪悪感と呵責があったのだろうか。
彼は、わたしとの最後の逢瀬で、こうもらしていた。
 
「あんたのことを思うと、死ぬのが、怖くなった」と。
 
気づかずに受け止めた言葉の底に、別な深い意味を見つけてしまう…。思い起こすことでしか、辿れない、触れられない、過去。不意に襲う、やるせない思い出に、ちょっと慄然となる。
目を戻せば、彼女は、もう随分温まっただろう煎茶を口に含んでいた。新たなものに変えさせようとして、腰を上げかけ、あ、と気づく。
 
同じではないか。
 
妹御が兄の心情を思い、懸命に彼のせいではないと言い募るのと、彼が軍人になった保身的な理由を、妹のため、と取り繕うのと。
おかしなくらいに、似ている。
彼女は、今の境遇を選んだ訳を、ごく利己的なものと定めている。それに、兄への思いやりを都合よく利用したのだ、と理由付けてもいる。
それは事実だろう。でも、兄への献身もあったはず。必ずあったはず。それを嗅ぐから、中尉は苦悩したのだ。
妹御も、そう。どこかに、嘘の中の彼の真実を嗅いだのだ。
「お茶を、替えます」
「いいの、ありがとう。もう失礼するわ…」
茶碗を指先で撫でながら、紫様は、「だから」と、どこからつながるのか、そう、つなぐ。
「あなたみたいな人の前に出るのが、…わたし、…恥ずかしいの」
「え」
「まっすぐに正しく日々を送ってきた、あなたのような人が、恥ずかしいの。曇りなく、ぴかぴかときれいに生きてきて、兄のような人と恋をするあなたが…」
「曇りなく、ぴかぴかした女が、親を泣かせて、未婚のまま、子を産むことはないでしょう」
唇の端を緩め、そう返す。そう自嘲気味に笑みながら、わたしは、彼女の言葉に、これまでの彼女がわたしへ向けた、素っ気ない態度や無愛想さを重ね合わせているのだ。
嫌われている、と感じてきた。少なくとも、兄の恋人であるわたしを、好意的に見てはくれていない、と。理由などなく、ただ存在が肌に合わないのではないか、と悔しくも思ってきた。
けれども、それで平気であったはず。構わないと、中尉の存在の傍ら、脇に置いてきた。
なのに、彼女の告白は、わたしの胸の奥深くを、やんわりと揺するのだ。真の意味で、彼女に対してこわばっていた自分の心のどこかが、ゆるりと和らぐのを感じた。
どうしてだろう、わたしは、嬉しいのだ。
「兄のような人」と彼女は言った、それはどのような人を指すのだろうか。問うて知りたいような気もし、またその意味など、わたしはとうに知っているような気もするのだ。
颯爽と凛々しく、聡明で強い。野良猫みたいに身勝手で、あてどなく、粗野な人でもあったけれど、まぶしいほどに素敵な人だった。瞳がその姿を捉えれば、離せず吸い寄せられてしまう……。
そして、「兄のような人」というその表現にこそ、彼女の中尉への愛情が知れる。にじむように、そこからしみてくる。
ふと、涙ぐみそうになり、わたしはそれを紛らせるため、立ち上がった。恭緒を、紫様に抱いてもらおうと思ったのだ。
「誰か、ねえ、恭緒を連れてきて」
子を抱いてきたのは母だった。いぶかしむ目をわたしへ向ける。わたしはそれに首を振り、「大丈夫」と答えた。
おとなしい恭緒を抱いた妹御は、ふっくらと肥えた頬に指を這わせ、
「文緒さんに、よく似ているわ」
「え」
意外な言葉に、わたしは紫様へ視線を向け、その後で確認するように母を見た。うっすら笑っている。
「そうね、顔は文緒似ね」
「そう…?」
これまでわたしは、恭緒を眺めるたび、小ちゃな顔の造作を、「なんて恭介様に似ているのだろう」と、思い思いしてきた。皆、当たり前にそう見えるのだと、思い込んできた。
あっけない事実は、目の前で、ぱんと手を打たれたような驚き。何よりも彼という存在の名残を示す恭緒に、わたしは無意識に強く求めていたに違いない。
彼との相似を、彼の面影を。探るように、こじつけてまで。
 
きっと、人は、見たいように、ものを見るのだ。
 
紫様が帰りの際、爺やにも子を抱かせたいと、わたしへその許しを訊ねた。否やはない。
「小兵衛、いらっしゃい」
玄関を出て、紫様がそう呼ぶと、ふと懐かしい顔がするりと現れた。わたしとは、旧成田屋の蔵の品を運ぶ際に、手伝いに来てくれた折以来になる。
彼が子を抱けば、よく焼けしわの寄る、それでも頑健そうな顔が、くしゃりと歪んだ。泣き笑い、子の重さを腕で測るように抱き、
「若に、ほんによう、似ていなさる」
その言葉に、わたしは胸の奥がつんと疼き、まぶたが熱くぬれた。
 
 
初夏の頃には、恭緒を産んで初めて、川島さんが我が家に訪れた。
子供の誕生を手紙で知らせてより、何の音沙汰もなかったので、忙しいのか、足が向かないのか、そのいずれだろう、とややも気を揉んでいたところ。
問えば、「用で関西に行っていた」という。
「あら」
例によって、縁側に席を作り、夕餉も近い時刻。女中に冷えたビールを運ばせた。
「上の筋から、若いのを、うちの組で何人か預かることになって、その件で」
コップのビールを半分ほども一息で飲み、顎で門の方角を指す。なんと、今もその辺りで、目立たぬよう親分になる川島さんの護衛に立っているという。
わたしは腰を上げ、女中に、門の若い衆へ冷えたお茶なり運ぶよう言いつけた。
「気にしてくれなくていい。兵隊は、それも仕事だ。何年か修行すりゃ、自分の下ができる。この世界はそんなもんだ」
「そう…」
肌にじかに着た白いシャツの背から肩に、ほんのりと刺青の色彩が透ける。その腕で小さな恭緒を抱いてくれる。
男性の広い胸が珍しく、また抱かれ心地もよいのか、平素から愛想のいい子であるけれど、ことにご機嫌だ。
「おっ母さんに似ろよ。恭介に似るなよ」
「まあ、恭介様に似てほしいのに」
「あいつに似れば、平気で女を泣かすぞ。あんただって、その被害者だろうが。懲りないな」
「懲りてなんかいないわ」
恭介様に似て育ってほしい。そうして、うんと大きくなって、いつか疲れた母を、父である彼がかつてしてくれたように、大きな背で背負ってほしいのだ。
川島さんが子を抱く様子を、微笑ましく眺めながら、わたしは、ちょっと頃合を計っていた。先だって我が家を訪れた、紫様のことを切り出すきっかけを、探っていた。
「なあ…」
くずり始めた恭緒を、わたしへ返しながら彼が何か言いかけたのと、それを潮に口火を切ったわたしの言葉が、かつんとぶつかった。
「ねえ…」
わたしがまず唇を閉じ、川島さんへ譲った。「なあに」。それに彼は、頬の辺りがむず痒いように指先で掻きながら、受け、
「あんた、…子供を、見てくれないか。いや、養育費は払う。その面倒はかけない」
「え」
突然の、あまりの言葉に、意味がわからず、わたしはぽかんと口を開けたまま、ちょっと気まずそうな彼を見つめた。
川島さんは、我が家の雰囲気が、子供が育つに相応しいように感じる、と言った。「赤ん坊仲間の恭緒もいるし、ほら、女手があふれてる」と。
「うちじゃ駄目だ。引き取れん。危なっかしい野郎が、ごろごろしてる。討ち入りでもありゃ、事だ」
「川島さんの、お子さん?」
抱きながらあやし、ようやく落ち着きを見せる恭緒の頭にちょんと頬をつきながら、肝心な点を問う。
「ああ。女の一人が去年産んだんだが、母親の方が弱っちまった。そう長くない。子供を見るのは、もう無理だ」
「他の…女の方に任せることは?」
その問いには、彼は粗く首を振る。「子供を任せられるような女は、いない」。
その言葉に、以前我が家の借金のことで彼の元を頼った際、焼き餅をご馳走してくれた女を思い出す。根は優しそうだが、確かに玄人らしく、しっかりと子を見るような風には取れなかった。
「でも…」
安易に受け入れられる話ではない。他人の子を引き取り、育てる訳だ。その子にも、川島さんへも責任が生じる。
けれども、理性で渋る傍ら、幾つも大きな恩ある彼の頼みを無碍に断ることにも、小さくない迷いがあるのだ。
そして、中尉の親友であった、慕わしいこの彼との縁を、長くつないでおきたい、わたしの気持ちと…。
結局は、母とも相談の上、困った川島さんのため、可哀想な赤子を引き取ることに落ち着くのだろう。
そう、何となく先を見越しながらも、男気があり、顎で若い衆を使う、潔く刺青を肌に入れた、この精悍な男性の困った表情を、もうちょっとだけ見てみたい気がして…。
悪戯気を起こし、ふと、ここで紫様の名を出してみた。
「紫様は? お頼みしてみたら、易く引き受けて下さるかもしれないわ。恭緒のことも、何か障りがあれば引き取る、と約束して下さったのですもの」
「ああ、駄目だ。紫ちゃんは、一番に頼んだ」
「え」
聞けば、以前わたしと彼女が彼の家の前でかち合ったとき、川島さんは、ちらりとこの件を持ち出してみたそうだ。
「馬鹿、と言って、顔をはたかれた。望みなしだ」
「まあ」
その光景が目に浮かぶようで、頬が緩んだ。己の子を預ける話を、一番に持ちかけるのだ。二人はきっと、親しく気安い仲なのに違いない。
いつだって高貴な印象の彼女が、どう「馬鹿」と口に出し、さらに彼の頬を打ったのだろうか。
彼は、その振る舞いの訳を……。
「ねえ」と問いかけ、その先をわたしは戒めつつ、自ら途切らせた。詮索をする権利など、わたしにはない。知ることに、重さもない。
願うだけ。
結局この場では母と話してから、ということで確約はせずにおいた。
 
 
霧野中尉の子を孕み、悩んでいた、初夏。それから、彼を失った夏の日。悲嘆に暮れた秋、冬……、それから、恭緒を腕に抱いた、かけがえのない春。
一年と言う月日をめぐらせば、重くたちこめた迷いの解けた、新たな自分がいるのだ。歩むしかないことを、わたしはもう知っている。そうできることも、わたしは知っていた。
悲しみも、辛さも、すべて乗り越えたのではない。それらは今も、わたしの肌の奥に眠る。耐え難い状況を潜り抜けたのでもなく、きっとわたしは、それを体内に徐々に取り入れていったのではないか。
彼の死に起因する悲しみや種々の負を、吐き捨てるのではなく、飲んで、矯めて、咀嚼し、嚥下するのだ。
恭緒を腹に宿していた日々、知らず行っていたのは、この見えない行為なのでは……。彼から委ねられた命を育むことで、わたしは救われていたのだと、知る。
命は、彼が遺してくれたもの。
抱きしめ、口づけるだけでない、それも、わたしへの愛情のある一つのかたち。
そう思いたいのだ。
 
 
似たような話は重なるもの。
子が子を引き寄せるのか。
 
わたしはその男の存在を、記憶から消しつつあった。
おみつが来客を告げ、その人物の名詞が載った盆を一瞥したとき、「ああ」と、遅れて思い出した。あの逢瀬の夜、彼との時間を配慮してくれた外務省の海部氏であった。
今頃何の用だろう。いぶかしみながらも、怪しい人でもない。ちょうど夕刻で、宿にちょっと顔を出す頃合だった。それを女中に言い、遅れることを、あちらへ使いをさせた。
会いたい人ではないし、その理由も浮かばない。強いて、と探れば、中尉の遺品の何かがある、といったことではないか……。
海部氏は、ソフト帽を脇に置き、煙草を吸っていた。簡単に挨拶を交わし、直接に用件を訊く。時間などない。
「あなたに借りがあることを、覚えておいででしょうね」
いきなりそんなことを言う。あきれながらも往時を振り返り、「そうかしら」と返した。
それが了解の合図と取ったようで、彼は訳のわからない要求を求めてきた。
愛人に孕ませた子を、この屋敷で産ませ、母子共、しばらく見てやってほしいと。
「はい?」
どこにそれだけのことをのんでやる、借りなどあろうか。わたしはあちらを向き、引き受けかねる旨を、素っ気なく伝えた。海部氏は、それに頓着せず、
「母親の方が元気になれば、こちらの宿、そう『なりた家』で、仲居働きさせてやってくれませんか?」
「はあ?」
あきれた言葉に、わたしは返事も億劫になる。果物の切ったのを運んできたお常を、「いいから」と、そのまま廊下へ下げさせた。
閉じられた襖を見、
「それ以上をおっしゃる前に、お帰り下さいな。とてもお役に立てそうもございませんから」
「借りがあるはずですよ、わたしには」
何を言ってもぬかに釘、といったあのときの男の言動を、にわかに思い出す。それと共に、若干の羞恥もわき、わたしは顔を背けた。
彼にしろ、あの夜の逢瀬の段取りは、仕事で行ったことだ。面倒であったかもしれないが、それに、私的な見返りを要求するなど、まったくいやらしい。公人の成すべきことではない。
「お帰り下さい」
返事の代わりにわたしは、腰を上げた。失礼であからさまな態度は、母が見れば、仰天してたしなめるだろう。けれども、こんな恥知らずな要求をする男に、礼儀など構うことなどない。
無駄に使う時間などないのだ。この日は夜に、川島さんの子が、我が家へ初めてやってくる日でもある。
それでも、のんきに男はお茶を飲み、煙草を悠々と灰皿に押しつぶして消した。座布団を立つ代わりに、なぜか膝に載せた書類かばんを開けた。
しわの寄った、一枚の紙を紫檀の机に載せ、わたしへ滑らせた。
「霧野から、ある上官へ宛てた手紙です。日付が先月だ」
「え」
言葉に固まり、動けずにいるわたしへ、海部氏は「ほら」と、机の縁に滑った手紙を顎で示した。「控え程度の簡単なものだが、手に入れるのに骨を折りましたよ、まったく」といった、彼の恩着せがましく意味ない言葉は、わたしの耳を素通りしていく。
目が、走り書きに記した書面を探る。
嫌というほど、眺めた彼の筆跡が、そこにはあった。急いだときの彼の癖の、流れるように左へ走るその文字。
機密なのだろうか、理解の出来ない、文章だった。妙な記号も見えた。それでも目が離せずに仕舞いまで読み、最後にカタカナで記した簡単な書名にたどり着く。
 
キリノ。
 
「生きていますよ、霧野は」
 
 
あ……。
 
自分が抱える、何もかもをこのとき忘れた。
子も、母も、家も、仕事も。
自分ですら、ひととき消えた。
「あ…」
わたしの全身に、枯れずひっそりと息づいていた、彼への恋が、いっせいに芽吹く。それは、ある痛みをもって、息の出来ないほどの歓喜のうねりを伴い、わたしを「あ」と言う間もなく、飲み込んでいくのだ。
手紙の署名を目にもう一度焼き付ける。『キリノ』、とある。彼の字で、彼の名が。
そこで、ふつっと目の前が暗くなった。膝が崩れ、畳に倒れ込むのを感じながら、
 
わたしはきっと微笑んでいる。



          


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