難しいことはわからないけれど目指すものはあったのだ
祈るひと(39

 

 

 

気が遠くなる傍で、海部氏の声がした。彼は聞いたことのない、慌てた声を出している。

女中らの急ぐ足音がし、襖の開く音までが、うっすらと聞こえた。

急なめまいのもやが、すっと晴れたのは、おみつの声を間近に聞いたときだ。彼女は、畳に倒れたわたしを抱き起こしながら、「お嬢さん」と声を荒げている。

「…もう平気よ」

膝を直し、おみつから身を離した。医者を呼んだらどうか、という海部氏の言葉に首を振った。

気が遠くなったのは、身体の変調ではない。海部氏の告げた、信じ難く、けれどもあまりにありがたい知らせのせいだ。

 

恭介様が、生きている、と。

 

その一事が、わたしを今の日常から放し、忘れずに胸に大事にとっておいた彼への恋へ、また瞳を向けさせた。そのまばゆさ、きらめき。幸福に、わたしは目がくらんだのだ。

「わたしの母も、ちょうどあなたと同じように急に倒れて、それきり、帰らずじまいでしたよ」

怖いことを言う、と目をやれば、「九十五でしたがね」とつなぐから、あきれる。例にもならないではないか。

「驚いただけですから」

「なら、結構。では、先ほどの女の件を…」

海部氏が、最前の厚かましい要求を、辞去の前に改めて持ち出したが、それはわたしの耳を、曖昧に過ぎていくばかり。

彼が帰った後で、おみつが問うてきた。

「あのお客様のおっしゃっていた、『女の件』て、何なんです? お嬢さんは、わかりましたと、お答えになっていましたけど…」

「え」

自分が、彼へどんな返事を口にしたかさえおぼつかない。母に相談もせずに、人を預かることを決めるなど、普段であればしないこと。大事を安請け合いをしたことに、気がとがめた。

おみつも、先の山本屋の淳平さんの一件以来、女所帯がつけ入られ易いことへ、警戒心を持っているのだろう。

「これは、大丈夫よ。安心して」

宿から戻ったら、母へ詫びておこう……。そう言い聞かせたところで、玄関の開く音と、声が届く。百貨店の配達だ。川島さんの子のための布団一式を届けるよう、頼んであったのだ。

子供部屋に運び、すぐに使えるよう部屋を整えないと…。

そこで気持ちが切り替わった。

立ち上がり、玄関へ向かう足取りが、ふっと軽い。心が浮き立つ。頬が自然緩む。何気ない仕草に、嬉しさが、わたしの心から全身へあふれてくる。

目に映る世界さえ、明るく広く変わったように感じるから、おかしい。

子供部屋の指図を終え、わたしは一人、仏間に入った。母の部屋に接した三畳ほどの小さな空間だ。父の位牌の置かれたお仏壇の前に端座する。父へ、喜びを知らせたいと思った。

朝、母がお供えした花が、みずみずしく開いたままだ。手を合わせ、目を閉じる。途端、生前の父の姿が、まぶたの裏にくっきりと浮かぶ。

どういう訳か、父は霧野中尉を気に入っていた。見ず知らずの彼を居候させ、一時はわたしの婿に、とも望んだほど。更には、万が一のときのため、大切な遺産の在りかを、彼へ示しておくなどした。

資産家で、家とよしみのある山本屋の子息を、わたしの相手にと望んだ母とは、対照的だった。

軍人であったから、出自が徳川期の大旗本であったから…、など好みがあるだろう。けれども、彼を好んだ本当の理由など、父にしか知れない。

果たして、彼は父が意図したように、震災にわたしや母を守り、遺産を無事、わたしたちの手へ渡してくれた。

だから、今の母とわたしがある。

まるで、父がそうあるよう、導いてくれたように……。

ふとそれを感じるとき、小さくない奇跡に触れるようで、胸がちょっとしんとなるのだ。

わたしは胸の中で、父に語った。今日の喜びの知らせと、包まない自分の気持ちを。

 

「いつも見守ってくれて、ありがとう。お父さん」

 

 

 

盛夏を迎える前に、いきなり女が現れた。

浴衣姿に大きな風呂敷を提げた、背の高い女だった。大きく突き出した腹で、「ああ」と、海部氏の愛人である彼女だと、すぐ見当がつく。

女中に指図させ、以前わたしがお産に使った部屋へ案内した。海部氏からは、カフェの女給をしていたと聞いたが、挨拶を交わせば、田舎なまりの抜けない、素朴な女のようだった。

気立てはいいようで、身重の身体ながら、女中らに「何か、仕事をさせてくれ」と頼むらしい。再三言うので、「じゃあ」と部屋の窓拭きなど、軽い手伝いを頼めば、バケツの水をひっくり返すは、障子を破るはの、粗忽者らしい。

まちえという、その女が着いた際に、わたしは外務省の海部氏へ、電話で連絡をしておいた。返事は素っ気なく、「ああ、そうですか。そのうち見に行きます。まあ、よろしくお計らい下さい」とのこと。

それから十日経っても、あの男はこちらへは現れもしない。電話もない。連絡すらないことに、体よく、身重の女の、都合のいい押し付け先にされたようで、甚だ面白くない。

それから数日して、まちえが早々に産気づいた。以前、わたしがお世話になった産婆を急ぎ請い、真夜中のお産となったのだ。

「おやまあ、こちらはお産続きで縁起がよろしいことで」

知らん振りして寝てもおれず、産屋を手伝いにのぞけば、しわだらけの例の産婆が、ちくりと皮肉った。

その言葉に、全身がぽっと熱くなる。口の堅いのは産婆の商売柄で、噂の不安は少ないものの、恥ずかしさに身がすくんだ。

この日に限って電灯がつく、明るい深夜に気が騒ぐのか、恭緒も川島さんの子の早百合(さゆり)も目が冴え、ぎゃんぎゃん泣き出すから、疲れた暑い夜に堪らない。

出産が無事済み、床に就いたのは朝方近かった。ぐずる子らを、母と二人して各々の布団に入れてやりながら、その日は眠った。

海部氏はのんきなもので、翌日、こちらが出産の知らせをやっても、「ああ。そうですか、近いうち、時間を作って…」などと、相も変わらずのらりくらりと返すから、あきれてしまう。

「放っておかれて、あの人も気の毒ですよ」

「そちらは余裕がおありなのだから、一つ、頼みますよ」

「お忙しいでしょうが、お顔くらい、出してあげて下さいませ。浮気なさるお暇は、ちゃんとあったんですから」

あからさまな嫌味を最後に、電話を切った。その後で、母へつい文句が飛び出す。

「手の余る愛人を預けて、その上、お産まで任せておいて、知らん顔なんて…。あの人、うちを体のいい陰産屋のつもりででもいるんじゃないかしら。もう、腹の立つ」

うちわを使う母は、わたしの言葉にふき出して笑った。

「『陰産屋』なんて、文緒、おかしな言葉を引っ張り出してきて、あんたったら」

「ちょっと、思いついたのよ。…だって、その通りでしょう」

「陰」と、つい付けてしまうのは、まちえと同じく、わたしも表沙汰にはできない、ひっそりとした出産を経験したことからの連想だ。

今でこそ母は朗らかに笑ってくれる。けれども、一人で命を産み出す、悲しくも切ない、通過点だったことは、我が身にしみている。

同情はしないが、自分を振り返り、自然、まちえをいたわる気持ちがわいてくるのは、仕方がない。

「愚痴愚痴とこぼすのなら、お預かりしなきゃよかったのよ。一旦預かった以上、無責任なこともできないでしょう。ここは、人助け、と思い切るしかないじゃない」

海部氏の愛人を預かる件は、わたし一人が勝手決めしたものだ。母には、事後承諾でのんでもらったに過ぎない。なのに、その勝手の迷惑をかけている母の前で、ぶちぶち愚痴るのは、確かにおかしい。

「そうね、わかったわ。ごめんなさい」

そもそも、この件は、霧野中尉の生存が知れたその嬉しさに、半ば呆然としてしまった取り決めだった。

今に至れば、海部氏の素気無い態度に、あの男が中尉の生存をえさにわたしを釣り、上手く女の世話を押し付けたでは、と邪推もしたくなる。

時間の空く昼下がり、呉服屋の応対に出た母に代わり、夕飯の献立を書いたものを渡した。母が婦人雑誌で見つけ、気に入った品を書き記したものだ。それに自分の好物も足し、頼んでおく。

「仕上げを見るから、後で言ってちょうだい」

「はい」

恭緒を産んでから、忙しいときを除き、宿へは挨拶と様子を見る程度に出るようになっている。手の空かない母に代わり、子供の面倒の他、家事を見ることが多くなった。

届いた郵便の束を手に、目をやりながら、実は字面を追っていない。気持ちは、よそを向いてしまっている。気の乗らない手紙の始末に倦んで、わたしはそれを状差しにまた戻した。

先ほどの、海部氏の投げやりな電話の口調が耳に甦り、不快だった。

あれから、ほぼ一月。

ぷつぷつと、疑いの芽が、思いの端に顔を出す。そのことに、一人わたしは苛立っている。

中尉からの何の音沙汰もければ、当の海部氏ですら、あの手紙以上の情報を、何も知らせてはくれない。

ただ空っぽの希望だけがぶら下がり、落ち着かず、味気のない日が続く。恭緒の存在をよすがにしていたこれまでの日々と、実質何も変わらないのだ。

いや、それ以上に、辛い…。

 

あ。

 

わき上がる苦い思いを、わたしは飲み込んだ。それで、胸が詰まるような心地がする。

すぐに会えない理由があるのかもしれない。

何か、連絡の取れない障害があるのかもしれない。

民間人の知れない、軍の取り決めで…。

頭の中で、彼からの連絡すらない、自分への言い訳を、繰り返している。そうして落ち着くためだ。そして、「やはり」という恐怖から、目を逸らすためだ。もしかしたら、ぬか喜びなのではないか……。

という、あり得そうで、現実的な、もう慣れた悲嘆へ向きがちな気持ちを、何とか押し止めているのだ。

 

信じなければ、叶わないような気がするから。

夢見なければ、会えないような気がするから。

 

「大丈夫」と、祈り唱え、折った指の爪を、痛むほどその腹に押し当てて、不安に耐える…。

それが、日々の中、幾度か繰り返すわたしの小さな儀式になった。

わたしは母にすら、その事実を打ち明けられずにいる。言ってしまえば、手のひらにぎゅっと握った奇跡の粒が、指の間からこぼれ出してしまいそうに思えるから。

おかしいけれど、そんな風に思えた。

 

 

九月も半ばに入れば、折に涼風が感じられ、秋の足音にはっとさせられる。

この頃、紫様から、恭緒へと小さな革靴が届けられた。

大人のものを小さく小さくして作った、けれどもいっちょまえの出来をした姿がとても愛らしい。届いてすぐにまだ履けないそれを、子供部屋の小箪笥の上に飾った。

そうすれば、母が早百合が可哀想だと、恭緒に先んじてよちよちと歩き出した彼女へ、赤いエナメルの愛らしい靴を買って与えてやる。それもまだ履けないまま、同じ箪笥に並ぶ。その様は、ちょっと時間を忘れる微笑ましさだ。

この日、近くまで来たと、川島さんが寄ってくれた。この人は、寄る際には必ず、早百合へ何か、小さな手土産を持ってきているところが嬉しい。

この日も、洋人形の包みを手にしていた。

一時を幾らか越していたが、昼がまだだと言う彼へ、母が宿の板場に言い、食事を届けさせた。

恭緒や早百合とは違う、一層幼い赤子の声が届けば、うな重を口へ運ぶ箸を止め、怪訝な顔をした。

「ありゃ、何だ?」

母は含み笑いで、わたしはちょっとふくれながら、顛末を話す。

聞きながら、「物好きだな」などと、川島さんはにやにやとおかしそうにしているから、憎らしい。我が家を体よく託児所にしているのは、彼だって同じくせに。

母が宿へ仕事に戻ったのを潮に、わたしは彼へ、中尉の生存の件を持ち出そうとした。唇を開くが、舌が言葉を紡ぐ前に、また閉じてしまう。

胸に秘めていた方がよいのでは…、との例のまじないのような思いは、まだ強い。

けれども川島さんを前に、打ち明けたい衝動は、抑え難いものとなってもいる。

そのじりじりとした迷いが、胸を焼いていた。

食事を終えた彼が、煙草をくわえ、

「何か言いたげだな。また何か、厄介事か?」

と、ちょっと笑いながら促した。

「違うわ、そうじゃないの」

見透かされていたことに恥じらい、わたしはやや瞳を下げた。「あの…」と途切れる、幾度かの逡巡の末の、

 

「恭介様、生きていらっしゃるかもしれないの」

 

喉元から吐き出した告白に、川島さんは、長く返事をしなかった。ゆっくりと、無言で吸った煙草を灰皿へ押しつぶし、

「なら、何で、嬉しそうにしていない?」

さらりとした調子で返す。そういう本人も、喜びが感じられない。普段と変わらない表情。やや口元に、笑顔の残りのようなものがわずかに見えるだけ。

「信じていないんだろ?」

その声に、わたしは強く首を振った。違う、そうじゃない。信じている、信じているのだ。

でも、わたしは……。

 

そうだろうか。

 

「…わからない」

川島さんの顔色に変化がないのは、もっともだ。わたしが白けた顔つきで、中尉の生存を打ち明けたところで、彼がそれを信じ、喜べるはずがない。

中尉を失ってから、息も絶え絶えに過ごしてきた日もあった。それは、長くあったように思う。

懸命に自分を建て直し、子の母としても強くあろうと、歩いてきた。休んでも、止まらずにきた。毎日毎日、前を見て、ひたすらに……。

その日々のわたしの側面なりを、この川島さんは、きっと知ってくれているはず。それに、ひたひたとした彼への慕わしさを生み、そこへ添うように、ほんのりとした甘えも生み出すのだ。

だから、不安を打ち明け、答えのない迷いをさらしている。

「始めは、嬉しかった。まっすぐに信じていたわ…」

わたしは言葉を選び、白い割烹着の裾を指でもてあそんだ。こんなものを着物に重ねているのは、新調のつけ下げで、先ほど赤子の相手をしたからだった。

海部氏のもたらした、中尉が生きている、という知らせに、わたしは狂喜した。自失するほどに、わたしを喜びで押しつぶした。

けれども、その後はどうか。海部氏は、女を押し付けたばかりで経過すら知らせない。また、肝心の中尉からも全く、連絡がないではないか。

一向に叶えられない希望の揺り返しに、わたしは今、ぐったりと疲れを感じ、これからの日々を倦んでさえいるのだ。

まるで、見てはいけない甘い白昼夢に酔い、幻惑されでもしていたかのように。

望みつつ、祈りつつ、願う日々。果たされない夢……。

 

「疲れたの…」

 

こぼれた言葉は、わたしの本音だ。信じることにも、待つことにも。わたしはもう、くたびれてしまったのだ。

まなじりからこぼれる涙を、ふと指先で拭った。人差し指の腹の一部は爪を食い込ませることが重なり、内部で出血して黒くなっている。右だけではない、左もそう。

その、自らを痛めて作ったしみを目に留めると、また涙が浮かぶ。

 

どれほど信じていたのだろう。

どれほど信じたかったのか。

 

「もう止めとけ」

声に顔を上げた。涙におぼろな瞳が、川島さんを映す。きれいに撫で付けた髪が、一筋二筋、額にこぼれていた。ちょっとだけ凝らしてこちらを見るその面差しが、名の浮かばない、どこかのいなせな映画俳優を思わせた。

「生きてりゃ、あいつのことだ。這ってでも、あんたに会いに来る。だろう?」

そのニセ映画俳優が、軽く首を振り、

「いい加減、恭介を放してやれ。あんたにつかまれたままじゃ、あいつ、いつまでたっても成仏できねえだろ」

あ……。

「放してやれ、もういいだろう」。川島さんは、そう重ねた。

その言葉は、わたしの背をとんと押すように響く。「もういいだろう」と、それはさらけ出すことへの許しに似ていた。その言葉の和らぎに、溜めて押し殺していた嗚咽が、喉から込み上げるのだ。

堪えた涙を開放してやりながら、わたしは、自分がまだしていなかったことに気づく。

「…そうね」

知っていたはず。

認めていたはず。

なのに、恋しさと、一人残された自分への哀れさから、わたしはそのことへ思いを及ばせられずにいた。

 

わたしは、中尉へ、さようならを言えていない。

 

胸に残る彼の面影、仕草、言葉…、それらは真実のもの。この先ずっと、わたし一人のもの。

けれども、ご都合主義の嘘つきな海部氏のもたらした、あの知らせが見せたあえかな夢は、虚偽だ。そこに彼はいない。

わたしの望む彼は、そこにいないのだ。

「もう、あいつを待つな」

川島さんの促しに、頷いて返し、止まらない涙を割烹着の裾に押し当てる。布を通して、じゅんと指先がぬれていく。

待つから、辛いのだ。現れてくれない現実に、苦しむのだ。

胸の中の彼を抱きしめればいい。歳を重ね、頭に白いものが増え、恭緒がうんと大きくなっても。わたしは胸の中の褪せない中尉の、颯爽としたあのきれいな面影を宿していればいいのだ。

それは、真実の彼だから。

わたしが触れ、愛した、確かな唯一の彼だ。

 

「忘れないわ…」

 

ふと、回された川島さんの腕が、やんわりとわたしの頭を抱いた。煙草のにおいのしみた青いシャツに頬が当たる感覚に、また涙が浮かぶ。

悲しいのではない。

その中で泣くのは、切なくて、心地よかった。背をあやすようにぽんぽんと叩く指が、優しい。

この人に恋する紫様を、どこかで幸福だと、ほんのり思った。

 

 

昼寝していた早百合の代わりに、恭緒を抱いて、玄関先に出た。川島さんはたたきで靴を履いた。

「早百合が昼寝しているの。この子は起きていたから…。起こしましょうか?」

「ああ、いい。寝かしておいてくれ。また来る」

外はからりと晴れ、吹く風が乾き、秋の香りがする。川島さんの手のひらが、恭緒の頭に触れ、頬をぺちんと軽く叩いた。

「おっかさんの言うことをよく聞けよ」

「まだ、聞き分けなんてできないわ」

涙を仕舞ったわたしは、ほのかな笑顔で返した。この彼の前で散々泣いた羞恥はあるが、気持ちは軽い。みっしりと余裕なく詰まった胸の中に、すっと空気が通るような、わずかな隙間を感じている。

それが、少しだけ寂しくもあり、また軽やかでもある。

「じゃあな」

手に持った帽子を、彼がちょんと頭に載せたとき、それは起こった。いきなり男が、背を向けた彼へ、殴りかかってきたのだ。

不意打ちに、川島さんが前のめりに倒れかけた。その背に、男が容赦なく足蹴りをする。

わたしは悲鳴を上げ、下がった。腕に子を抱いている。恭緒を玄関の上がりに寝かせ、人を呼んだ。女中がわらわらと出てくるが、女では話にならない。

急ぎ下男の弥助を呼ばせ、目を戻せば、今度は川島さんが、男の顔を殴り返したところだった。きっと極道の筋の者に違いない。川島さんを、つけ狙っていたのだろう。

今日に限り、護衛の若い衆が見えないことに苛立った。

いつしか、二人は地面に取っ組み合い、似たような背格好が、交互に転がりながら、殴り合っている。こんなことが続けば、大怪我をしかねない。敷石から逸れ、互いの上着の背が白く土まみれになっている。

「死ね、この野郎」

「殺すぞ」

わたしは易く手出しもできず、はらはらと二人の様子を見守る中、ふと思いついた。同じくうろうろと怯える女中へ、バケツに水を持ってくるよう命じた。

「え」

「いいから、早く」

以前シロクロが、野良に絡まれた際、宿の仲居頭の幸子が、バケツの水を引っ掛け、犬同士の喧嘩を仕舞わせた聡いやりようを、思い出したのだ。

運ばれた水を、わたしは思い切り、二人にぶちまけた。

「わ?」とか、「あ?」といった間抜けた声に続き、このとき上になっていた男が、川島さんを突き放した。意図したよう、ちょうど喧嘩が中座した形になった。

「文緒さん」

彼が眇めた目の険しい顔を、こちらへ向ける。水をぶっかけたことを怒っているのだろうが、しょうがないではないか。

「文緒さん」

足を投げ出しへたり込む川島さんが、わたしをちょっと手で招き、また呼ぶ。もう一方の男も、背を向けているため顔は見えないが、同じく息を整えているようだ。

わたしは空のバケツを放り、彼の傍へ行った。殴られたせいか、荒い咳をしているから、不安になる。頬にはもう、あざが見えた。

彼は顎をあちらの男へ示し、血のにじむ切れた唇から、乱れた息を吐き、言う。

その声は、どうしてか、笑っているのだ。

 

「恭介だ」




          


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