偶然に打ちのめされるほど繊細じゃないのさ
祈るひと(40
 
 
 
「恭介だ」
 
川島さんの口にした、あり得ないその名に、わたしは瞬きも忘れ、ひととき、呼吸すら止めた。
川島さんの数歩向こうに背を向けて足を投げ出す男は、ほどなく立ち上がった。群青の上着の目立つ土汚れを、払いもしない。頭を無造作に振るだけ。それで髪の水滴が辺りに散った。
そのとき、斜にこちらへ視線を落とす男の硬い瞳を、わたしは初めて認めた。そこにある、知ったあのこめかみの弾傷を見た。
 
あ。
 
瞬時結ばった互いの視線を、彼が先に、引きちぎるようにして逸らした。顔を背け、背を向けて足早に去って行く。わたしから離れ、どこかへ行ってしまうのだ。
 
どうして……。
 
「ほら」
動かないわたしの腕を、川島さんが、ぽんと叩いた。行け、と促しているのだろう。けれども、わたしはその場に縛られたように、動けずにいた。ようやく取り戻した呼吸を、浅く繰り返すばかり。
 
行かないで。
 
先ほどまで鮮やかだった視界が、なぜだろう、白く薄いもやがかかったかのように、ぼやけて見える。
女中が、ぬれた顔や肩を拭く手ぬぐいを持って現れた。それを受け取り、川島さんは、大股に中尉の後を追っていく。「おい」と。
おみつが何か、わたしへ言った。ろくに耳に届かない言葉を、わたしは肩先で、意味もわからず手で払った。
彼に追いついた川島さんが、その肩に手をかけた。歩も止めず、雑にその手を中尉が払う。敷石が果て、彼はもう、門の外へ出ようとしていた。
心の、音にならない声が叫ぶ。
 
行かないで。
 
「あれは、お前の子だ。会ってもやらないのか?」
その言葉に、初めて彼の歩が止まった。え、と怪訝そうな表情を返す。
「勘違いしやがって、馬鹿野郎が」
「…え」
撫でやりもしないさらりとした髪が、またやや伸び、額に触れ流れているのが目に入る。
この日彼は、身に合う濃紺の上下の中に、白いシャツを着ていた。硬い軍服姿を目にすることが多かったため、尋常な装いの彼に、わたしはすぐに気がつけなかったのだ。
着流しをだらりと着れば、浪人のお侍のような風情の人なのに。姿がよく、何を着せてもすっきりと映えるから、お得な人。少し痩せたのだろうか、それともわたしの思い込みだろうか……。
また、瞳が合う。
彼がわたしを、今度は逸らさずに見ている。
わたしの膝が震える。長く歩いたように、そうでもないのに、膝が笑い止らない。
「あ」
不意に力が抜け、膝が崩れ、わたしは地面に横様に座り込んだ。ぺたりと両手を敷石についてしまう。またおみつが後ろから何かを言ったが、それも耳を通り過ぎていく。
御影石の敷石から、落ちた目を戻せば、こちらへ歩を返す彼が目に入った。足早にやって来る。短い距離だ。すぐに果てる。
彼は、わたしに何も言わなかった。言葉の変わりに、片膝を折って屈み、わたしの身体へ腕を回す。あ、というほどの間、わたしの身体を抱き上げた。
「あ…」
いきなりの高みに、ちょっとくらむ。
胸に抱き寄せられるその感覚を、わたしは覚えていた。もう、一昨年になる。最後彼に触れた、あの夕暮れの逢瀬で、わたしの身体を、彼はこんな風に抱き上げた。
それを、わたしは肌で、気配で、また彼の温もりで覚えていたのだ。
「大丈夫か、あんた」
うつろなわたしの瞳を受け止め、彼がそう問う。それにわたしは、瞳を涙であふれさせながら、頷くこともままならない。
ただ、再会の最初に、わたしの名でもなく、凝った思いの断片でもなく、どこにでもありふれた問いを、「あんた」とこちらへ投げる、彼の無粋さにふくれたのだ。
馬鹿。
「恭介様…」
ふくれながら、わたしは彼の胸に顔を押し当てた。
嬉しいのだ。どんな彼も。
「文緒」
わたしの名を呼ぶ声。聞き慣れたはず。思い起こし、何度も耳に甦らせた声のはず。
けれども、間近で耳にするそれは、長く耐えた冬の後に聞く、和らいだ春風のように懐かしい。また、巡る夏を迎えるときめきにも似た、瞳を伏せさせるほどの、感動を伴うもの。
そこにある、吐息に混じる、ほんのりとした熱。語尾の余韻。彼だけが空気に残せるもの、にじませることが適うのだ。
思い出ではなく、胸の面影でもなく。
 
生の彼だけのもの。
 
わたしは、肌で感じられる中尉の存在に、魅せられたように弛緩し、身を委ね、彼という露わな幸福に、じかに寄り添った。それで頬に薄くはたいた頬紅を、彼のシャツに移してしまうことも、念頭になかった。
「恭介、後で顔出せ」
川島さんの声だ。わたしはぼんやりと彼へ顔を向けた。中尉に抱き上げられたままの姿を、恥じる余裕もない。子供返りしたように、甘えた気分になってしまう。
「ああ」
女中が上着を乾かすように勧めたが、彼はそれに首を振り、「大してぬれてもない」と、脱いだ上着を左肩にかけた。
「じゃあな」
背を向けしな、川島さんは、わたしの頬を、ちょんと指の背で叩いた。「待っていて、よかったな」と、優しい笑顔を向ける。その、どこかの映画俳優に似た濁らない、きれいな微笑に、彼も今、嬉しいのだと、気づいた。
「ありがとう」
返しに相応しい言葉が見つからず、ありきたりなものがつい口を出る。発したしばらく後で、結局、彼にあげるそれ以外の言葉などない、と思い直すのだ。
そこへ、中尉の苛立った舌打ちが降るから、面映ゆくすぐったい。わたしはぱちりと目を瞬いた。
「妬いてやがれ。死に損ない」
ちょっと手を上げ、川島さんが門の外に消える。
「霧野様、お嬢さんを中へ」と、女中が声をかけ、彼がわたしを玄関上がりに腰掛けさせた。
「平気か?」
わたしの前に屈み、彼が問う。それにわたしは首を前に振り、答えた。もう、目の前のもやは消えた。
けれども、彼へ問いたいことで、頭は疑問があふれている。そして、得難い今の喜びに、胸の震えが止まらない。それらが舌にもどかしく絡み、言葉を阻むのだ。
ふと、彼の瞳がわたしを逸れ、上がりにおくるみのまま寝かせた、傍らの恭緒へ移った。離れずに、見つめ続けている。わたしはその彼の手を取り、自分のそれと絡ませた。
彼は、空いた片方の手の指の節を、思案しているときの癖で、唇に押し当てている。奥から女中が、ぬれた髪を拭う手拭いを持ってきた。「どうぞ」と、それを彼に差し出すが、気づきもしない。
わたしが代わりに受け取り、中尉の髪と肩先を拭った。
「俺の…」
先を途切らせた彼の言葉を、わたしが補った。
「ええ。今年の春に生まれたの。名は、『恭緒』としたわ。ごめんなさい、恭介様のお名前を、勝手に一字いただきました」
彼はやや首を振り、それが相槌か、何も返さず長く嘆息した。わたしは彼の手を握り続け、彼の中の驚きが、ある波を越えるのを静かに待った。
そうすることで、共に自分の中の胸の震えも驚きも、昇華させることができるように思えた。
「てっきり、俺は、あんたが歳と…」
彼のつぶやきに、わたしはようやく、最前の彼の行動の合点がいった。どうして彼が、川島さんに殴りかかったりしたのか、そして、投げ捨てるようにわたしを置いて行こうとした訳を。
「まさか、わたしが…。勘違いしたの? 恭介様」
「…ああ、似合いの夫婦に見えた。そんなものを着て、赤ん坊を抱いてるあんたは、真新しい誰かのご新造みたいだった」
折り悪く、わたしは普段滅多と身に着けない、白い割烹着などをつけさげの上に重ねていた。
「まあ」
彼の勘違いが、おかしいようで、その底でちょっとだけ切なく胸に残る。果たせずにここまできた、娘時代からの自分の夢をふと思い出したのだ。
誰でもない、
 
恭介様、わたしは、あなたの妻になりたかった。
 
ちくんと胸を焼く切なさを、涙と一緒に喉奥へ飲み込み、
「川島さんには、大変なお世話になったの。我が家が困ったことになったとき、助けて下さったのよ」
そこで、ふと、今中尉といるこの玄関にいつぞや、金貸しの無頼な連中がやって来たことを思い出す。あの男どもは、女所帯のこちらを散々に脅し、置き土産に、陶器の傘たてを派手な音を立てて割って行った……。
あの途方に暮れた時間。川島さんの助けを借りてでも、世間知らずの脆弱なお嬢さん育ちのわたしや母が、よくも乗り越えてこられたものだと思った。
あのとき、わたしが霧野中尉が傍にいてくれたら、と願ったことは、不思議となかった。生来の気の強さからか、度を失うほどの緊迫感からか。何とかしなければ、と、ただがむしゃらに身重の自分を奮い立たせていたのみだ。
「何かあったのか?」
中尉の問いに、わたしは微笑んでかわした。
過ぎたこと、それらの過去は、わたしの中の一部になり、おそらく今浮かべる笑みの源の一端となっている。
きっともう、わたしも母も、脆弱でも、世間知らずでもないはず。
涙も、身を焼くほどの悲しみも、ない知恵を絞ることも、身を寄せ合い寂しさに耐えたことも…、
その数では、決して人に劣りはしない。
「なあ」
中尉の探る視線をまた微笑でやり過ごし、わたしは彼へ、恭緒を抱いてやってほしいとねだった。
「いいのか?」
「どうして?」
「いや…」
彼はわたしと結んだ指を解き、ぎごちない仕草で子を抱いた。
初見の父親の慣れない腕の居心地が悪いらしく、それまでおとなしくしていた恭緒は、大きな声を上げ泣き出した。わたしも手を出し、あれこれあやしてみるが、泣き止まない。
「あら、川島さんは抱くのがお上手なのに」
「あいつと比べるな」
「ふふ」
「…おい、文緒」
珍しく、戸惑った声を出す彼の腕から子を抱き取った。女中を呼び、寝かせてやってくれと頼む。この日、あの子は昼寝が浅く、まだ根足りないはず。
恭緒が、お常に抱かれ、子供部屋に帰ると、わたしは彼の手を取り、「上がって」と中へ促した。客間へ通し、肩と背のぬれた上着を脱がし、預かった。
それを、おみつに汚れを落としてから、掛けて干しておくように言う。おみつは、らんらんと光る詮索したげな瞳をわたしへ向け、
「お嬢さん、生きていらっしゃったんですね、霧野様は。足がちゃんと付いていますもの。これ、て訳じゃあないですよねえ」
などと、両手をだらりと幽霊の形に下げて見せ、おどける。
「まあ」
おみつはにこにこと、宿の母へも知らせに行ったが、華道の会のお客様でまだ当分手が放せない様子だった、と続けた。
「もう一度、あたしが走って行って参りましょうか? お内儀さんも、そりゃお喜びでしょうから、やっ…」
「いいの」
わたしは彼女の言葉を途中で遮った。「母へは、お客様のご用の後でいいわ」と、付け足すように言い訳をした。
割烹着を外し荒く畳み、声を落とした。瞳を伏せながら、
「お茶をお運びしたら、しばらく二人にしてほしいの」
「え」
ちょっとだけ、おみつが絶句した。その小さな沈黙に、ぽっと頬を血が上る。
「お願い」
重ねて言えば、物分りのよいおみつはすぐに潔く頷いてくれる。「ええ、わかりましたとも」と、わたしの言葉があるまでは、お客間に人を寄せないと約束をくれた。
「ありがとう」
身を返したとき、背におみつの声がかかった。明るい、朗らかな彼女らしい、はきはきとした声が、終わりに涙声につぶれ、端折るように消える。
「ようございましたね、文緒お嬢さん、本当に、ようございま…」
「ありがとう、おみつ」
背を向けつつも、わたしは袂を胸の前で重ね、後ろの彼女へ、もう一度、今度は心でつぶやいた。
ありがとう。
 
 
客間へ戻ると、霧野中尉は窓の障子を開け、そこから庭のシロクロを眺めていた。
お茶が届き、女中が下がる。彼が煙草をくわえた。わたしは何気ない素振りで、障子をすっと閉めた。開け放していては、西日が差すから、と。そのまま彼の傍に寄り添った。
焦がれていたはずなのに、時間を置き、こうして二人きりなれば、何を、何から訊けばよいのか、頭の整理がつかない。
「手放さなかったのか? 俺がいなくても。死んだと聞かされたはずだ」
「え」
ふと降る問いに、わたしは彼の腕にもたれていた顔を上げた。何のことを訊いているのか、瞬時に量れなかった。ちょっと間を置けば、恭緒のことを指すのだと、気づく。
「紫は、何も言わなかった。あんたのことは、自分の目で確かめて来いとしか…」
「え」
彼は数日前に、妹御と再会していることを告げた。
上海からの帰国が、実は一月ほども前であったこと。その間、ある事情で軍の施設に留め置かれていたということを、さらりと補足した。「機密の塊みたいなものだったから」と、ちょっと笑う。
再会の際、妹御は兄の無事を奇跡のように喜んだという。けれど、彼がわたしのことに言及すると、顔色を曇らせ、「ご自分で、ご様子をご覧になったら」とのみで、言葉を濁してしまったらしい。
それが、彼の川島さんへの誤解の元になったのは、易くつながる。
「あいつ…」
紫様は、わたしが兄上の子を産み育てていることを、とうに知っている。なのに、なぜそれを彼に教えなかったのか。
「紫様は、恭介様のお骨を、お館にお墓に立てて、納めたっておっしゃっていたのよ。わたし、そのお知らせの手紙をいただいたわ」
「知るか」
そこで、彼は短く笑う。
「あれは、犬の骨だ。後追いで応援に来た少尉が、本国へ擬装用に送るため、器用に見繕ったものだ」
「まあ…」
あまりの言葉に絶句する。
無事であることが、全てを水に流してしまうが、その犬の骨を、愛する兄上の遺骨と信じ、お墓に納めた紫様のお気持ちは、いかばかりであろうか。
その仕返しに、わたしのことを秘して焦らす痛烈ないたずらぐらい、兄へ企みたくなるというもの。
兄上の焦れた表情を見、彼女はきっと涼しい顔をして、ひっそりほくそ笑んでいたに違いない。その、つんと澄ました美しい面差しが、すぐに目に浮かぶ。
おかしな兄妹。やはり、嫌になるほどよく似ている。
「死を偽装するなど、騙すようなことをしたが、許してくれ。上の命だ。従う他に、しようがなかったんだ」
中尉は手短に、上海に着いてほどなく、一月もあちらの刑務所に収監されていたこと、任務が重なり、思いの他手こずったことなどを教えてくれた。
わたしが、彼の経験した恐ろしい話に表情を蒼ざめさせれば、やや砕けた口調で「英語ばかりは達者になった。事情で、一年も英国の諜報部の男と住んだ」などと言い、頬を笑みで緩ませた。
「なあ、文緒…」
と、彼が先の問いかけを促した。恭緒のことだ。わたしがなぜ手放さずにいたかを、彼は訊いていた。
「うん…」と、わたしは曖昧に首を振った。その仕草に、意図せず、かつての自分が抱えた大きな迷いが、にじむのを知る。
「恭介様にとても似て見えたの、あの子。母も紫様も、わたし似だと言うけれど、産んですぐにそう思ったわ。だから、…とても手放せなくなったの」
彼の腕がわたしを引き寄せた。すぐに胸に抱きしめる。
「すまん」
「あ」と、抱き寄せられるその狭間に、彼の胸にうっすらと移った、わたしの頬紅の桃色が目に入った。
「恭介様は、お国のため、異国でご苦労をされたのだもの」
「すまん、何もかも、あんたに押し付けてきた。何にも知らずに、俺は…」
「でも、帰ってきて下さったわ。ちゃんと生きて、こうして無事に…」
結ったつむじ辺りに彼の頬が触れる。その懐かしい重さ、感覚に、涙が瞳をあふれ出す。
 
「待っていたの、本当は」
 
疲れても、くたびれても、そのことに倦んでも、信じ難くても…。
わたしは心の奥底で、ひっそりと、自分にさえも秘すように、彼を待ち続けていたのだ。
好きだから。
忘れられないから。
「文緒」
彼が名を呼び、わたしの頬を両の手のひらで挟んだ。見つめ合う。互いの瞳に、それぞれの影が宿る。
「あんたに会いたかった」
触れた唇の温もりに、じゅんと胸が熱く疼いた。彼を置いて、誰のためにも開かなかった唇が、彼のために自然、やんわりと開いた。
「恭介様…」
長く、密に触れ合う口づけは、わたしを緩やかに、溶けるように、彼に夢中でいた、あの日々へ誘う。
彼の指が、わたしの首筋をなぞる、辿る。衿で留まって焦れる指先のくすぐったさに、わたしは腕の中で「いやいや」をするように、ややも身をよじらせた。
彼の唇が、やんわりとわたしの耳朶を噛む。その甘い仕草に胸が跳ね、頬を熱く染めながら、堪らなくときめくのだ。
触れてほしくて、触れたくて。
「誰も、来ないから…」。ためらい、恥じらいながら、ささやくように彼に告げた声は、自分でも嫌になるほど熱を帯びている。
それに返事はない。
言葉の代わりに、襟元を中尉の手が、強く割り開いた。明るい中、露わになる肌を恥じ、わたしは羞恥に身をすくませる。そうしながら彼にすがるのだ。
「文緒」
畳に身を倒し、感じている。
煙草の香の混じる彼の吐息。
シャツを寛がせた鎖骨に並ぶほくろ。
肌の熱、その匂い。
それらを、こんなにも深く覚えている。肌に織り込むように、鮮やかに。それは、わたしのものだ。わたしだけのもの。
息が詰まるような、甘く性急な愛撫の狭間、
「あんたが、俺を待っていることを…」
彼がわたしを見つめ、低くかすれた声でつぶやくのだ。
 
「祈っていた、ずっと…」



          


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