同じ空の下、同じ空気で呼吸をし、同じ時の流れのなか、
祈るひと(5

 

 

 

霧野中尉が、店先から極道連中を追い払ってしまったのを聞くや、父は「ほお」とつぶやき、相好を崩して喜んだ。

職業軍人らしい襟の正しさだ、と褒め、

「霧野様のおっしゃる通りに、次から次へと極道の新手に来られては、きりがない」

「でも、逆に恨みなど買っては…」

母の不安げな声に、父は「そのときは、先から保護料を払っている安達組の衆にそう言えば、その筋同士で話しを決めてもらえばいい」と、それ以上は取り合わなかった。

湯上りの団欒のひとときで、女中に運ばせた甘い紅茶を銘々飲んでいる。柱の振り子時計が、ぼーんと間延びした音で鳴る。十時を指していた。

小さな頃は、その音が恐ろしくもあったが、時計の音は今では生活を区切る、妙な号令に似て、我が家の誰彼もに親しみがあった。

「文緒までが、面白がって見に行くんですよ。それはひやひやしました」

母は紅茶の碗を長火鉢の縁に置いて、わたしをちょっと睨んで見せた。

面白がっていた訳ではない。恐ろしくあったし、怯えてもいた。ただ、知らん振りしておけないような強い興味もあったのは確かだ。

「何も危ないことなんて、なかったわ。隠れていたし」

「あの連中に、文緒の顔を覚えられては事ですよ。どんな厄介があるか……」

大事な嫁入り前なんだから、と母はこぼす。

うちは、子はわたし一人。どうせ家に婿を迎えるだけなのに、と母の言葉は大層に響き、おかしくもあった。

父や母が、婿に迎える気に入った男性を見つけてくる。その人は、おそらくどこかの奉公人であるだろう。それだけの話だ。花嫁御寮が荷を連ねて他家へ嫁ぐのとは、訳が違う。

肩先が冷えてきた。両親におやすみを言い、わたしは居間を出た。襖を隔てた廊下は、息が白くなるほどに冷えている。手に、ほうっと息を吹きかけた。

母の手製の毛糸の足袋の足を前へ運んだとき、襖向こうから父の声が薄く届いた。その声はちょっと笑いを含み、

「霧野様に婿に入ってもらえば、どうだろう。文緒もなついてきたようでもあるし」

そう、聞こえた。

胸の奥が、驚きにどきんと鈍く痛んだ。

父の声を母はあっさりとたしなめた。

「何をまた…。霧野様は軍人ですよ、戦争するのがご商売の。文緒とは世界が違います。冗談でも妙なことを言わないで下さいよ」

「いやしかし、家柄も学歴も、風采も文句がないじゃないか。将校軍人に入り婿に入ってもらえれば、こんな名誉なことはないし、界隈でも、鼻が高い。資産なら我が家にある。なに商売も、わたしが元気なうちは、まあ大丈夫。お前も勘違いしないでおきなさい。ほしいのは、文緒が産む子供だ。わたしの跡継ぎではないんだよ」

父の話に、わたしは夜目にも頬を赤らめていただろう。耳朶までが熱い。

どことなく真剣味のある父の言葉は、胸に、堪らない恥ずかしさと、こそばゆいような嬉しさを連れて呼んでいたのだ。

襖越しにややこもって母の反対の声が続いたが、よく耳に留まらなかった。昂ぶったままの頬の熱と、止まない鼓動の激しさに、それはかき消えてしまったのかもしれない。

聞き耳を立てていたことを悟られないよう、ゆっくりと歩を運んだ。

寒さは、もう気にならなかった。

 

 

不意の来客があったのは、騒動から二日置いた後のことだった。

午後遅くから、その人は店先のあがりがまちにゆったりと掛け、店の者が出すお茶を飲み、ときに煙草の煙をくゆらせている。

口にするのは、「先だって、うちの若い衆の相手をしてくれた、あの男を出してほしい」と、「留守なら、帰るまで待たせてもらう」とのみ。

そういった事の次第は、対応に困り果てた番頭が、奥内に伝えに来て知れた。

わたしは母との芝居の帰りで、居間で土産のお団子を開いたところだった。母はさっと表情を曇らせた。父に、どこかなじるような目を向けている。

「わたしが出ようか」

「とにかく「あの男を出せ」とそればかりで。旦那様が応対にお出になっても、ちょっとやそっとじゃ、埒が明かないかと……」

「どんな男だね?」

番頭が言うに、客の男は縞の背広を着て、流行の型の帽子をかぶった、まるで「洋行帰りの旦那衆」のような洒落者だそうだ。

「声も穏やかで、物腰も慇懃ですが、どすが利いているというんですかね、その筋の衆だと、すぐにぴんときました。年の頃は、三十手前といったところで」

父は立ち上がると、番頭を連れ、店へ出て行った。母とじりじりして待つうち、ほどなく父が戻ってきた。

肝心の霧野中尉に会うまでは、腰を上げない様子であるという。

問いたげに視線を向けるわたしや母へ、「手に負えない。放っておきなさい」と話を打ち切ってしまった。

手の編み物を、幾度も編み目を落としては母の手を煩わせた。気が騒いで、身が全然入らないのだ。

暮れなずむ頃、店の方から声が聞こえた。それは既に耳慣れたざわめきで、「お帰りになったのだわ」と、知れる。

編み物を駕籠に戻し、わたしは廊下へ出た。背に、母の甲高いほどの制止の声がかかる。

「ちょっとだけよ」

甘えた声で返し、そのまま店との境の硝子戸まで早足で来てしまった。やや遅れて、背後に父の来るのが知れた。

わたしの場所から、斜に霧野中尉の姿が見えた。軍服の、普段の五割増にも素敵に見えるすっとした姿勢のまま、今腰を上げた例の客と相対している。左の脇に何か抱えているようだが、こちらからはよく見えない。

凝らした瞳を、わたしは彼から離せないでいた。

いつしか唇を噛んで見守る。

不意に、「あ」という声が聞こえた。それは中尉の発したもので、客の何かに驚いているかに見えたのだ。

「川島か、お前」

「じゃあ、お前、霧野か?」

知り合いのようだ。不思議な成り行きに、「え」と虚をつかれた。

わたしはまどろこしい硝子戸を開け、少し前に出た。父が後ろから手首をつかんで止め、店先には出られない。

けれども声が鮮明になり、わずかに彼の近くになる。

「軍人になったのか、お前。あはは、あきれたな…」

「け、何がおかしい。食えりゃいい。お前こそ、親父殿の稼業でも継いだのか」

にわか親しげな会話が目の前で広がり、緊張は緩んだものの、疑問が増えた。どのような知り合いなのだろう。昔なじみでもあるのか。

「そのようなもんだ」

「で、ここで何している?」

「ある人を待っている。二日前、うちの者がそいつにここでいいようにあしらわれて戻ってきた。その男の面を見に来た。お前こそ、呉服屋に何の用だ?」

仕舞いの問いを、中尉は無視した。

「見てどうする?」

「は?」

霧野中尉はそこで小さく笑った。

「俺だ、それは」

やや弱まった父の結ぶ手を解き、わたしは店先に出た。すぐに彼の側に行く。

「霧野様」

はっきりと、彼が「川島」と呼んだお客の姿が見えた。番頭の説明通り、ぱりっとした装いの男であるが、紳士と呼ぶにはそぐわない。二枚目ではあってもどこか険しさのある顔立ちをしている。

その視線が、自分に注がれるのを感じた。

ちっと、中尉が不愉快そうに舌打ちするのが聞こえた。

「出てくるな」

彼はわたしの胸の前で、男からかばうかのように右の手を伸ばした。そのまま川島という男へ向け、

「あのときの男は、俺だ。この店には関係がない。話なら俺がつける、出よう」

彼の言葉に男は「やれやれ」と笑い、「その格好でか?」と問う。

「何がいけない? 帝国軍人殿だ。敬ってくれ」

中尉は男の背を押し、自分の前に行かせ、敷居際でことを見守る父へ軽く頭を下げた。

「ちょっと出てきます」

そう告げ、わたしに脇に抱えた花束を渡した。省庁で祝い事があったという。そのときの花だ、と言った。

「あんたにやる」

押し付けるように渡された花束は、珍しい早咲きの薔薇だった。蕾のものを含め、色彩に飛んだ呉服屋の店先ですら、それは見事に美しかった。

白い紙に無造作に包んだなりの花束を、わたしは胸に抱えた。

再び目を中尉へ戻したときには、姿がなく、もう彼は暖簾をくぐり出た後だった。

 

 

霧野中尉が帰宅したのは、夜の九時を過ぎていた。かすかな出迎えの女中の声を聞きつけ、わたしは自室を飛び出した。

離れに向かう彼を、中庭に面した廊下で捉まえることができた。わたしの姿にちょっと足を止める。片方の肩に外套を引っ掛けていた。

「どうした?」

彼へ告げたいのは、くれた花のお礼などではない。

「平気だったの?」

「ああ。随分歓待してくれた」

うっすらと酒の匂いがする。まさか、あの後ご馳走でもてなされていたのだろうか。あの川島という男は、中尉に因縁をつけに来たはず。

どういう成り行きだろう。

読めないわたしへ彼が、「川島とは、高校の同級だ」と言った。不意の邂逅に、こちらの心配をよそに、楽しんでいた様子がうかがえて、少し面白くなかった。

無事であったのは、ありがたいけれども。

「極道まがいもやるが、本業は土建屋だ」

「ふうん」

「きっちり言っておいた。もうここには来ないさ」

彼の手が、垂らし髪を上で束ねた飾りのりぼんに触れた。ちょっと引いてすぐに離れるその指を、わたしはついつかんでしまった。

「心配したわ」

なじる声には、ためらいとはにかみがにじんでいた。けれども一言、どうしてか言ってやりたかったのだ。

「心配してくれとは、頼んでいない」

あまりの返答に、わたしは唇を噛み、ふいっと顔を背けた。泣きたい気分になった。精一杯の気持ちで、わたしはこんな思いを吐露している。それなのに。

それなのに。

ふと、思いがけず腕が肩に回った。引き寄せられる感覚に、抗いよりもときめきが勝った。動けなかった。

あ。

軍服の胸からは、しみた煙草の匂いがした。

「すまん。ちょっと、酔った」

ほどなく、抱擁はあっけないほどに終わる。やや突き放すようにわたしを押し離し、彼は背を向けた。

部屋に戻れば、ふんわりとした電灯の光の下、磁器の花瓶に挿した薔薇の花が艶やかに咲いている。

甘い香水のような匂いが、ほんのり部屋にはあふれていた。既に延べられた床の傍らで、わたしは帯を解く。

解きながら、指はその動きを止め、彼がさっきわたしへ腕を回した肩先に触れた。そこはじんわりと熱を持ったように甘く疼き、わたしは吐息と共にしゃがみ込んでしまう。

あのときのように、動けずにいた。




          


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