あなたは許してくれるんでしょう、私がどんなにあなたを傷つけても
祈るひと(41
 
 
 
限られた時間、探られる温もりを、互いに忙しく確かめ合った。
束の間の触れ合いを終え、衣服を直しても、離れ難い。わたしは彼に寄り添い、いまだボタンのそろわないシャツの胸へ頬を預けている。
彼の、うなじに落ちた後れ毛をいじる指先が、ふと止まる。赤子の泣き声が、襖を通して薄く届いた。
「恭緒か?」
「ううん、あれは早百合よ。お昼寝から覚めたのね」
「え」
彼の疑問の声が、ほんのそばの耳朶をくすぐり、くすぐったい。それに、わたしはやや首をすくめるようにしながら、早百合が我が家に来ることになった経緯を、かいつまんで彼へ話した。
「は?」
ここでようやく、彼の中で川島さんの我が家への来訪の意味が、すっきりと腑に落ちたようだ。小さく舌打ちをし、
「あんた目当てに、あの極道が、女にまめになりやがったのかと思ったら…」
「まあ」
わたしは、彼のシャツのボタンを留めてあげながら、ほろりと、「川島さんは、わたしのような女は、お好みじゃないように思うけれど」と言った。
「歳が言ったのか?」
わずかに首を振る。ふと、妹御の名が口を出かけたが、ちょっと迷った末、それをまた胸に仕舞った。
「ねえ、恭介様」
そう、わたしはねだるようにし、彼の上海滞在の話をせがんだ。どのように暮らしていたのか、苦しいことはなかったのか。わたしなどに想像がつかず、無事に帰国が叶ったとはいえ、やはり気にかかる。
「ああ」
あちらへ渡り、一月ほど収監されていたという刑務所から出た後、ひどい風邪を引き、長く治らなかったことを告げた。
「こっちの空気とは違う。ちょうど変な気候で、あの暑さは堪らなかったな」
そう、笑いに紛らせた。
また、縁があって同居した英国人諜報員の、肌色の違う人間を見る、鼻持ちならない態度のこと。同居の際、部屋が足りなかったとき、その英国人は、なんとこちらに床で寝ろ、と言ったらしい。
「少尉が軍刀で奴に斬りかかるなんざ、何度もあった」
「なんて無礼な人かしら。恭介様も、嫌な思いをされたでしょう?」
彼は、「今更、幕末の京の都じゃあるまいし、斬るほどのことか」と、喉の奥で笑う。
「人の個性もあろうが、政府機関の人間の威勢は、そっくりそのまま国力を示すんだ。英国は同じ島国とはいえ、とんでもない大国だ。その国の威勢が、殊にシナでは顕著に国の機関の人間に現れる」
「あ…」
話題が難しく、相槌も易く打てない。わたしは留め終わった彼のシャツのボタンを、いつまでもいじっている。
「空威張りは、見る者にはすぐ知れる。国の底が割れて、余計惨めだ」
ぽつんと独白めいて落ちた言葉に、「え」と、わたしは自然問い返した。それに彼は、口の端で笑い、ゆらりと首を振るのみで、返事に代えた。
話の重さを紛らすように、
「その英国人が、俺らが帰国間際、ある罪で捕まった」
散々こちらを侮辱した口が、手のひらを返し、ちゃっかり助けを求めてきたというのだから信じ難い。
「まあ、度し難い人」
いい気味とばかり、捨て置いたのだと思えば、中尉はその男を助けに、手を尽くしてやったのだというから、なお驚く。そのため、彼だけ帰国が二十日も延びたらしい。
「そういうのも、男の強さだ。面子だけじゃ、命が幾つあっても足らん」
と、英国人をかばうから、思わず娘時代のように、わたしは頬をふくらませてしまう。彼が、その頬をちょんと指の節でつつき、「そう、ふくれるな。別嬪が台無しだぞ」と言うから、頬がじゅんと熱くなる。
「英国の一線の諜報員に恩を売ることは、長く見て、決して損じゃない。のち、何かの役に立つだろう」
「そうなの…」
次いで、軽い口調で物価の安さを言った。「あっちは何でも旨い」とも。
「そうだ、またかえるを食った。覚えているか?」
「まあ」
言葉尻に笑みをにじませ、話にも苦労の痛々しさは少ない。それは、彼がわたしへ告げる言葉を選んでいるからだ。その証拠に、任務の内容や機密については、一切触れていないではないか。
また、わたしも口に出すことが、憚られるのだ。
ぽつぽつと、彼が語る異国の話は、市井のわたしが耳にしても、きっと当たり障りがないのだろう。紫様にも、せがまれて似た話をしたのかもしれない。
腕の中で聞きながら、話す彼を見上げ、少し面差しが変わったのを感じ取る。以前とどこがどう違う、とは表現できない。同じ顔立ちの、その何が違う、というのではない。
彼の経た経験が、ほんのりそこに加わったのだろう。精悍さに少しだけ色を増し、逞しさにもまた深みがにじむのだ。
変わったのではない。また一つ、彼は大人になったのだ。
わたしは、寄り添いながらそれらを感じ取り、瞳の離せないまぶしさにときめき、より増す慕わしさで胸をあふれさせている。
好き。恭介様が、好き。
 
「あんたは、変わらず、きれいだな」
 
わたしを見る瞳に浮かぶ笑み。頬の線。ふと、わたしが指を伸ばし触れる顎の先…。
すぐ傍にある彼を示す、わたしの目に映るすべて。瞳に映すだけで、愛しさに、胸が痛くなる。彼への愛しさが、つきんと、絶えず胸を刺すのだ。
込み上げる、堪らない彼への思いが、涙を呼んだ。理由などない。ただ好きなだけ。愛しいだけ。それだけで、瞳が潤む。
まなじりを彼の指が触れ、涙を拭ってくれる。泣きながら、口をついて出るのは、何も混じらない心の声だ。そこには、これまでの悲しみも、孤独も、切なさもない。
「恭介様が、好き」
「ああ」
指先が絡む。きつく結ばった指先ごと、わたしの顎を捉え、口づける。
父の生前、彼が我が家に滞在していた頃、もう随分前の頃、こんな風に見つめ合ったのを、わたしは覚えている。互いの何も知らず、けれど惹かれ合い、秘めやかに口づけた、あの純粋なひとときのように……。
何度か唇を触れ合わせるその狭間、またおぎゃあ、と赤子の声がした。彼がわたしの唇をやんわり噛みながら、
「あれは、歳の子か?」
「ううん、あれは…」
そこで、ここのところ恨みに思っていた、外務省の海部氏の存在を思い出した。自分の都合のため、我が家を利用しているのだと、精々憎んでいた彼が、嘘でなく、中尉の生存を真実告げていてくれたことに、今頃思い至ったのだ。
「あのね…」
手短にこれも事情を話せば、中尉は、川島さんの子の早百合と同様に、「は?」とまた驚くからおかしい。
子を産んで一月を待たず、気が咎めるのか、まちえは、もう何か仕事をさせてくれ、と言い言いしていた。なら、以前から図々しい海部氏が望んだように、宿の方で仲居働きをさせてあげようか、などと機嫌よく思う。
憎んだお詫び、恨んだ埋め合わせに。
母に聞いてから…、とそんなことをちょっと考えると、襖の向こうで、おみつの遠慮がちな声がした。
「お内儀さんが、じきいらっしゃいます。宿の手が空かれたので…」
あ、とわたしは、とっさに彼から身を引いた。自分の髪へ手をやり乱れがないかを探る。そうしつつ、彼のシャツのボタンを検めた。
「わかったわ」
ほどなく、廊下を踏む足音がし、襖が開いた。
母の目は彼を認め、驚きに見開かれている。
 
 
母は、膝をついて腰を下ろし、彼の前に手をつき頭を下げた。
「ご無事で、…本当によろしゅうございました」
長く頭を戻さなかった。その仕草に、母の驚きと喜びが、強く現れているようだった。もらす嘆息が、耳に届きそうに思えた。
「上げて下さい」
彼が制止し、やっと母の姿勢が戻った。
何の意図もせず、この日は母わたしと共に下ろしたてのお召しをまとっていた。秋らしく菊の花車を描いた柄違いの互いのそれが、まるで何かの吉兆を表すものであったかのように、今は思われるのだ。
母が中尉の無事を喜び、彼は簡単に帰国のあらましを告げる。内容は、わたしへ話したものを更に簡単に端折ったものだ。
母はそれに大きく頷き、わたしへ笑顔を向けた。
「本当によかったわね、文緒。恭緒には、会っていただいた?」
「ええ、さっき。でもほんの少しよ。あの子、すぐむずがったから、寝させたの」
「そう…」
母はわたしへ、子の様子を見てくるように言った。彼へ抱かせるため、こちらへ連れて来させるつもりかと思いきや、すぐと腰を上げたわたしへ、ふっと首を振って見せた。
「あんたは、外して頂戴」
「え」
母の返しに、わたしは指を畳みについた、中腰のままやや固まる。そのわたしを、やんわり襖の外へ押しやるように、母は手を払い「あちらへ」と促した。
「お母さん?」
「いいから、あちらへ行っていらっしゃい。お母さんは、少しだけ、霧野様に、お話があるのよ」
「なら、わたしもいるわ」
母の意図が全く読めず、わたしは上げかけた腰をまた畳を落とした。そこへ、今度は中尉が顎で襖を示す。
「おふくろさんの言うようにしろ。あんたは外してくれ」
腑に落ちないまま、二人に押し切られるように、わたしは客間を出た。襖を閉め、子らを見に子供部屋に向かう。
起き出し、傍のおきよの手を焼いている早百合を抱き取り、少々あやすが、気持ちが落ち着かない。
母が、二人きりになり中尉へ何の話をするつもりなのか、皆目見当がつかないのだ。なぜ、わたしを外へ追いやったのか。
「見ていて」
早百合をおきよに預け、また客間へ戻る。途中、おみつから受け取った彼の乾いた上着を腕に抱いた。先、取り次いだおみつに、「ねえ」と、母が何か言っていなかったを、問うてみる。
「いいえ」
と、こちらはけろりとしたものだ。
歩を進め、客間にほど近く、廊下に立ち止まった。襖を通して、案外な声がもれていることに、はっとなったのだ。母の声だった。
木戸やドアと違う襖とはいえ、普通の声音であれば、そうもれることなどない。それが、数歩離れたこちらにまでもれ聞こえていることに、ぎょっとなる。
何を口にしているかまではわからないが、普段おしとやかな口ぶりの母の、意外過ぎる激昂の気配に、わたしは歩を踏み出した。
出ていろ、と言われた手前、入ることもためらわれたが、意味もわからず、このまま立ち聞きも焦れる。意を決し、上着を持った手を、声もかけず襖にかけた。
開いた襖の向こうの光景に、わたしは息を飲んだ。背で開く襖の音に、それがわたしだと母は悟るのか、振り返りもせず硬い声で、
「出ていらっしゃいと言ったはずよ」
あ…。
最前のように、母は膝をつき座っているのではない。立ち上がっていた。動かずに両の拳を握り、明らかにその背はこわばって見える。その母の前で、中尉は額を畳みにつけ、土下座をしていたのだ。
室内に入るや、わたしは後ろ手でぴしゃりと襖を閉めた。彼のこんな様も、母がそうさせる様子も、女中になど見せる訳にはいかない。
「お母さん」
母の握る拳を取った。そうして振る。そうしながら、中尉へ「止めて、恭介様」と声をかけた。
なぜ、母が彼にこんなひどい真似をさせるのか。
異国で彼は、お国のために任務で苦労を重ねてきたのだ。詳細を語ることはなかったが、わたしや母などの想像のつかない恐ろしい目にも遭ったに違いないのだ。
なのに……。
「お願い、止め…」
「いいんだ」
彼はわたしの制止を遮り、そのまま畳に額を擦り付けたままだ。わたしは母の手を放し、彼の傍に行った。跪き、その低く折った身にすがる。
父を始め、立派な大人の男が、こんな風に謝罪をする場など見たことがない。あの山本屋の淳平さんですら、ここまでの詫びをしなかった。母も求めなかったではないか。
それだけで、わたしは胸が驚愕に震えた。
二人のこの状況の訳が、わたしにも見えたのは、母の声を聞いてからだ。その声は、涙にぬれていた。
母はわたしのことを話している。
「亡くなったあの人と二人して、大事に大事に育てました。ありがたい縁談が、それは滝のようにあった娘ですよ。どこに出したって、恥ずかしくない……。それが…」
母の声はそこで涙につぶれた。「呉服屋の、綺羅に囲まれて育った娘なのに」と、辛うじて、わたしの耳がそう拾った。
 
お母さん。
 
母は、わたしの身に起きたことを嘆いているのだ。彼と恋に落ちたときから始まる、わたしのこれまでの経験を、彼を前に、涙ながらに憤っているのだ。
「可哀相に…、この子は霧野様が全てで、何にも見えなくなって、娘のとても大事なものを、あなたにどんどん奪われて…」
 
あ。
 
「もう少し、文緒の身を思いやってくれていたら…」
あ……。
未婚のまま身ごもったこと。
ひっそりと、その子を産み落としたこと。
嫁がずの母となり、今あること。
「女親が、一人娘に花嫁衣裳も着させてやれず…。どれほど惨めか……。おわかりになる? もう文緒は、二十三にもなりました」
「申し訳、ありませんでした」
額を畳みに押し当てながら、詫びる彼の傍で、わたしも頭を垂れた。母を前に自然、頭が下がった。
こうして母へ詫びる、その一時間も経たない過去に、わたしは同じ場所で、彼と肌を触れ合い重なっていた事実。それが痛烈に身を刺した。
不意の再会の後の、歓喜の激情にのまれたとはいえ、それは二人にしか通じない、安っぽい言い訳でしかない。それが胸にしみるから、よく理解できるから、彼も頭を上げることが叶わないのだろう。
床の間に、りんどうを差した花器が映る。花の色は母のお召しに似ていた。花はそこにずっとあったのに、そのことに今、ややも驚くのは、羞恥のせいだ。
母の告白に、今更ながらの自分の親不孝に、身を焼くような恥ずかしさと、いたたまれない罪悪感が身を襲うのだ。
彼も悪い。
でも、傍にありながら、裏切りを重ね、思いやれずにいた、わたしはもっと悪い。
ずっとひどい。
「ごめんなさい」
きっと、母はこれまで耐えてきたのだろう。わたしにかけた期待や夢が、次々と破られるのを味わい、どれほどの胸の痛みを感じたのだろうか。更に母は、そのことを、わたしに愚痴ることも嘆くこともなかった。
記憶を辿る必要もなく、思い起こすまでもない。
ただ、ひたすらに、常に母は優しかった。
「ごめんなさい」
今改めて気づく、揺らがない母のわたしへの愛情の強さ、深さ、温かさ……。
いつか、わたしがもっと大人になったとき、この母と同じほどの思いを、恭緒へかけてやることができるのだろうか、と、ふと自分の弱さに怯えがわく。
母の、涙をのむ気配がした。それを、わたしは垂れた頭のつむじ辺りで知る。
「もらっていただけるのですか?」
もう一度同じ問いが降る。
「え」
彼がやや顔を上げた。言葉の意味がわからない、といった胡乱な表情をしている。
「文緒を、奥方にもらっていただけるのか、とお訊ねしているのです。どうなのです?」
母の詰問に、彼が顔を上げ、わたしもおずおずとそれに倣った。互いに目を合わせた。わたしと彼にとって、将来夫婦になることは、自明のようなものだった。言葉に誓い合ったこともある。信じてきた、ずっと。
けれども、それを母に正式に告げ、報告したことなどない。彼へ娘の操を許したことも、その子を身ごもったことも…、全て母の優しさと許しを当て込んだ、事後報告だった。はしたなく、自侭にふしだらを突きつけたに過ぎない。
 
「お許しをいただけるのなら、彼女を僕に下さい」
 
「そう」
彼の告白の後の、それへの頷きの声と長い吐息。
母の何かが弛緩したのを感じた。握りしめていた手を顔に当て、瞳へ押し当て、涙声で言うのだ。そこに、軽い皮肉が混じる。
「親の許しなんて…。あなた、もう奪って行ったくせに」
ぬれた瞳から手を放し、母が裾を払い、腰を下ろした。その仕草は、娘のわたしが常日頃見慣れ、手本にしてきた、母らしい、しとやかな振る舞いだった。帯にねじ込んだハンカチを、目に当て始末しながら、
「霧野様」
呼びかけに、伏し目でいた彼が、顔を上げる。そこにあるのは、既に憤りや嘆きを手放した母の顔だ。
やんわりと唇に笑みを乗せ、
「文緒は、お嬢さん育ちの、わがままなところもある、気の強い娘です。もう、ご存知でしょうけれど…」
そこで深く彼へ頭を下げた。
「どうか、幸せにしてやって下さい、もう泣かせないで下さい」
お願いします、と結んだ母の言葉に、わたしは息が詰まり、声が出せなかった。
長い屈託を解放する、一連の所作。許し。彼へ紡いだ言葉。
母を美しい人だと思った。
この人の娘であることの誇らしさが、ぽんと胸を喜びで一杯に満たす。
手に持つ彼の上着を抱きしめ、嬉しさに涙を浮かべ、それが頬を伝うのに任せ、彼へ身を寄せた。
涙の紗を通して瞳に映るもの。自分を包むもの、手にするもの。
「はい」と、母へ誓う、彼の言葉が耳をつきんと打つ。
 
「共にあり、何もかも、全て彼女に捧げます」
 
これまでの過去も、現在も、そして未来も。
二人の全てを、彼と。
きゅっと心を結んで、離れずに。
 
永久に、あなたとありたい。



          


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