ひとしきり考えて、考えて、涙した君が花のよう
祈るひと(6

 

 

 

何度も寝返りをうち、明け方も近い頃にようやくうっすらと眠りにつけた。

朝の仕度に女中のおみつが部屋に現われたとき、もう辺りが明るく、一日が始まっていることに、わたしは呆然とした。

単衣の寝間着から、銘仙の着物に着替えるとき、ふと背へ回した首がぴくりと止まった。流れた視線の先に、飾られた薔薇の花瓶があるのに、今更、はっとするほどに驚いたのだ。

幾分か、芳香が残る。

水を替えてやれば、しばらく数日は元気でいてくれる。昨日この花を不意に渡されてから、花瓶に挿し、眺め、そのことが嬉しかった。思いがけない褒美をもらったように、変に気が高揚したのを覚えている。

けれど今朝、その薔薇の可憐な様子も淡い香りも、わたしのどこかを悩ましく締めつけるような、やるせなさを運んでくるのだ。

それは、夕べのいきなりの抱擁を、鮮やかにわたしのまぶたに甦らせもする。肩先が、その記憶だけでやや疼くのを感じる。

「文緒お嬢さん、お加減でもお悪いんですか?」

わたしの身支度を手伝い終わると、彼女は既に床を上げていた。押入れにしまいながら、そんなことを訊く。

「ぼんやりなさって。お花ばかり眺めて」

「え」

わたしはおみつのからかいの交じる言葉に、慌てて花瓶から目を逸らした。そうしながら、彼女へ髪を結い直してほしいと頼んだ。おみつは、わたしの髪を今朝、頭頂部を少しすくい結い、後は肩へ垂らして仕上げた。それは昨日と同じ様だ。

「きれいになっていますよ」

「ううん、今朝は結い上げてほしいの。…変に首にこそばゆいの、髪が」

昨日と同じ髪が嫌だったのだ。それを誤魔化すため、適当な理由をくっつけておいた。

早々と登庁する霧野中尉を、朝餉の後見送るのは、いつからか父がそのように決めた。その方が、「お気楽でいいだろう」と、既に日課になっている。

そのとき、彼の目の先に、夕べと同じ、肩に落ちるわたしの垂らした髪があることが、堪らなく恥ずかしくもあり、気まずいのだ。

その髪に、彼は何気なく触れた。離れてしまうその指先が悲しくて、ついわたしは、自分から彼の指先を捉えてしまった。長く、節の高い指をしていた。

ほんのりそれが結ばった後に、不意に抱き寄せられたこと。瞬くほどの抱擁のすぐ後に、彼はわたしを突き放した。それきり背を向けられた。

酔いの他愛ない気紛れに、ちょうど手近なわたしを選ばれたようで、驚きと惚けの取れた後は、腹立ちが続いたのだ。

何の言葉もなく、許しもない。そうやって気安く触れられることに我慢がならなかった。

彼がときに買うという安女郎とは、わたしは違う。

そう、いまだわずかに憤りながら、彼が抱き寄せた腕の強さも、その軍服にしみた煙草の香も、胸に真新しいのだ。

 

 

妙に喉がひりひりとし、お膳の食事が進まなかった。母が勧めるので無理におみおつけの豆腐を口に含んだ。

食事の間は、居間の襖を隔てた隣りに設えてあった。居間に沿った廊下からは距離があるのに、耳が敏く霧野中尉の足音を見つけてしまう。

彼は毎朝、襖を開けずに、やや声を大きくわたしたちへ声を掛け、出かけることを伝えた。

「行ってきます」

その声に、父はわたしへ視線だけで命じる。もう日課のことで、否応なくわたしは腰を上げた。

遅れて店先へ出ると、帽子を脇に置き彼は靴を履いていた。店はがらんと人気がない。清掃と準備の後で、奉公人たちは遅めの朝餉に向かっている頃合いだった。

「行ってらっしゃいませ」

自分でも無愛想に感じる声で、彼の背を投げかけた。

彼は肩越しにちらりとわたしへ視線を向けた。

こめかみの傷跡と相まって、彼のまなざしはちょっときつくもあった。それが急に緩んだ。

不意のことで、「あ」と、わたしは虚をつかれてしまう。このとき、何もかも忘れた。苛立ちも、腹立ちも、はにかみも、それら胸の屈託が、一瞬で消えた。

どうしてだろう。

何がおかしいのだろう。

「何、付けてる?」

と、彼は口許で笑う。

「え」

彼の指先が、わたしの唇に伸びた。口角で止まり、何かをつまんだ。それは、白いご飯粒だった。最前、わたしがちょっとだけ朦朧としながら箸を運んでいたとき、おそらく付けてしまったのだろう。

こんなこと、今までなかったのに。どうして今朝なのだろう。どうして今なのだろう。

恥ずかしさに、頬が熱くなった。頬の熱は、自分の粗相だけでなく、彼の仕草のせいもある。

ご飯粒は彼の親指の腹に残り、それを彼は何気なく舐めた。

それは磊落で、自然な仕草で、とって付けたような匂いがしなかった。なのに、わたしだけが、頬を染め、はにかんで、その意味にためらっているのだ。

「しばらく会えないな」

口許から戻した指で彼は帽子を頭に載せた。出会った頃より伸びた前髪が、瞳に触れかけている。

「え」

「言っていないか。今日から近畿で大演習がある」

大演習とは、これまでにも耳にしたことがあった。軍の軍事演習で、地域を定め模擬野戦を行うものだ。

不意のことに驚きで、わたしは見つめるだけで言葉を返せなかった。

そうなのか、彼とはしばらく会えないのか……。

その事実は、思いの他わたしの気持ちを沈ませた。肩すかしをくったような、期待が外れつまらないような、そういった不思議な空疎感があった。

「俺のいない間に、強姦殺人魔に遭うなよ」

それはちょっとした冗談だったはず。

「…遭うかも。乱暴されて、首を絞められて、文緒は死んでしまうかも」

どうしてか拗ねた気持ちで、わたしはそんなことを口にしていた。少しだけ唇を尖らせて。

何を言っているのだろう。

自分でも歯痒いのだ。彼はこれから大切なお国の任務で、遠くへ出かけていくのに。自分の中の形にならない靄を、ぶつけているだけ。そのはしたなさに、こうして気づいているのに。

彼の指がまたわたしへ伸びた。それは頬に触れ、やや留まり、ぺちりとごく軽くぶって離れた。痛みなど、ない。

「冗談でもそんなことは言うな」

「霧野様には関係がないでしょう? どうでもいいはずだわ」

「関係がないことはない」

彼の向ける視線の強さに、わたしはたじろいで、するりと瞳が落ちる。視線を感じる額が、まるで温石でもあてがわれたように、そこだけぼうわりと熱いのだ。

「あんたは大事だ」

ぽんと、つむりに落ちた彼の言葉は、わたしを動けなくさせた。

「代えが利かない」

それで彼は背を向けてしまう。

わたしは足袋のまま土間に降りた。降りて、彼の開いた指に自分のそれを絡ませた。長く節が高いその指は、わたしの指先をひととき固く包んで、解くように外した。

「怒っていないから」

背にそうつぶやいた。それは、夕べの彼の破廉恥な振る舞いのことだ。もう、わたしの中で、それはどうでもいい些事になり下がっているのだから。

意味を悟るのか、笑みのにじむ声が返ってくる。

「ふらふらとあんな仕草を男に見せるな」

まるで自分の仕出かしたことを棚に上げてしまっている、その言いように、ぷくぷくと憤りの芽が顔を出しそうになる。

「まあ」

「俺だけにしておけ」

膨れた頬が、言葉に、ほろりとはにかんで緩む。

暖簾をくぐり、出かけてしまう彼の背を見送りながら、わたしはまだ冷たい土間に立ち尽くしている。

空いた木戸から、往来を、自転車の通るのが見えた。急ぎ足に歩く人の姿、音。朝の当たり前の光景を目で追いながら、わたしは、胸に満ちるきらきらとした真新しい感情を腕に抱きしめていた。

 

あの人が好き。

 

いつしかふっくらと膨らんだ胸の思いは、こんな朝、わたしにその姿を気づかせるのだ。

意地悪なことを平気で言う。

下品なところがあって。

ふてぶてしくて、図々しい……。

負の要素は、指を折るまでもなく幾つも見つかる。

けれども、彼の影の中にそれら嫌だと思った面はなぜかすっきりと収まり、より立体的にあの人をわたしに浮かび上がらせていく。

そして、惹かれるその理由をあてどなく量りながら、自分へのそれを彼に求めている。

聞きたい。

彼がわたしを「大事」だと、「代えが利かない」と言う、その意味をわずかでもいい、あの声から知りたいと願うのだ。




          


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