千鳥格子のスカートの
祈るひと(7

 

 

 

何ら変わらない日常のはずなのに、落ち着かず、わたしはときを持て余したりした。

女中を伴った習い事の行き帰り、甘味屋への寄り道。輪郭が出来上がってしまうと夢中で、時間を忘れて没頭した刺繍すら、枠を膝に置き、手を休めては物足りなさに吐息をつく。

その日、母が外出に誘いをかけたときも、わたしは断った。気が乗らず面倒で出かけたくなかったのと、母と二人連れではその道中、最近持ち上がった例の話題を口に出されそうで、避けたかったこともある。

母が女中を連れて出かけ、少し閑散とした屋敷内で、わたしはやはりあふれた時間を持て余して、ため息などついている。

自室の棚に飾った薔薇を挿した磁器の花瓶はもうない。

五日もして、もう薔薇は萎れていけなくなってしまい、わたしが知らない間におみつが捨ててしまったのだ。

一言あってもいいのに、とおみつの勝手に腹を立てたが、何も言わないでおいた。

言えば、どのような勘でか彼女が嗅ぎつけた、わたしの霧野中尉への思いを、茶化されそうな気がしたから。

先日、こんなことがあった。

「お嬢さんのお好みを、あたし、ちゃんと心得ていたはずなんですけどねえ。ふふ、あの霧野様とは意外でしたけど。ほんと、事実は小説より奇なりとは、このことですね」

わたしの髪をすきながら、鼻歌交じりに楽しげなあのおみつの声を聞かされて、そのときわたしはまったく面食らって、言葉を失ったのだ。

前に据えた鏡の中のわたしは、おかしなほどに赤くなりうろたえてしまっていた。

「そりゃあ霧野様は、軍服がよくお似合いの男前でいらっしゃいますけど、最初は、お嬢さんも随分と嫌がっておいでたのに、何がきっかけなんです? お稽古事で二人きりのとき、何をお話しになったんです?」

興味津々と言葉を向けられるのが堪らなく恥ずかしく、わたしはつっけんどんに、「うるさい」と、ぴしゃりと叱った。

それでも蛙の面に何とかで、おみつはけろりとつないだ。

「ほら隆一さんは、健気な感じがしましたよねえ。あたし共にも優しかったんですよ、いい人で。それに、お嬢さん第一の人でしたからね。尽くされて気持ちよくなってその気になるのは、同じ女としてわからないでもないなあって、お常さんも話していたんですよ」

お常というのは、おみつと同じ女中の一人だ。

何が、「尽くされて気持ちよくなってその気になる」だ。

怒りの芽はぷちっとそこで膨らんだ。けれども、おみつの言葉は明け透けであるが、外れてはいない。わたしの心内を捉えた、ほぼ真実だ。

ぺちゃくちゃとした彼女のお喋りに、朋輩同士で好き勝手なことを、と呆れもしたが、おみつの性分はからりと陽気で、陰にこもったところがないのは承知している。わたしは唇を噛むだけでやり過ごした。

そのおみつが、

「とっときを教えて進ぜますよ」

と、鏡越しにわたしへにんまりと微笑んだ。「あたしだけがとっても面白いことを知っている」といった、見慣れた彼女の楽しげな得意顔だ。

話の流れで、彼女の「とっとき」が、霧野中尉に因んだことであるのが感ぜられ、わたしは息をのんで先を促した。

「何?」

「これは、お静さんから聞いたんですけど」

お静というのも、上女中の一人。聞けば、お静は彼が起居している離れの担当をすることが多いという。

食事を運んだり、掃除、布団の上げ下げ、そういった雑事の際、本の間に挟んだ一枚の写真を、彼女は目にしたらしい。

「お静さん、女優さんかしら、と思ったらしいんですよ。それくらいきれいだったって、言ってました」

「ふうん」

「きっと女優さんですよ。多いんですよ、今。玄人の芸妓衆でも、写真を撮って売るのが流行らしいですからね。霧野様もお若いんだし、一人くらい贔屓の女優さんがいたっていいじゃありませんか」

聞かなければよかったと思った。あの人が美しい女性の写真を本にしまっているなんて、耳に楽しい話ではなかった。

ちっとも「とっとき」なんかではなかった。

それ以来、もやもやとした、小さな嫉妬がぶすぶすと胸にくすぶっている。

それだけではない。興味もあった。どのような美しい人の写真を彼が眺めているのか、本に挟み、しまうのか。それが知りたいのだ。

母も出かけ、父も按摩を呼び寛いでいる、静かで閑散とした午後の屋敷内。わたしはふと思い立って、部屋を出た。

かねてから、企んでいたのかもしれない。確かめたくて、その写真の人を検めておきたくて。

誰もいないのに、わたしは隠れるように、ひそひそと足音も気を配り、離れの襖の前に立った。

開けると、きれいに片付いた十畳間と次の間が目に入る。掃除も済んだ後で、埃一つ見当たらない。

壁に寄せた文机には、今は空だが一輪挿しがあった。彼が大演習から帰宅すれば、お静なりおみつなり、お常なりが水仙の花でも飾るのだろう。母が部屋の各室に花を活けることを、それだけは口うるさく言うのは知っている。

軸の掛かった床の間の端に、積まれた本があった。革張りのものや背表紙の厚いものが多い。わたしには読めない外国語らしい本もある。

一冊手に取り、中を粗く繰った。鉛筆での彼のものらしい書き込みが幾つもあった。

いつか霧野中尉は、大学時代は法律を学んだのだと、父との雑談のついでに言っていた。それに類した本だろうか。それとも今の軍務に関係したものであろうか。

それにしても、帝国大学で法律を学んだ彼が、どうして畑違いの軍人になったりしたのだろう。

彼くらい学のある人であれば、何も敢えて危険な仕事に就かなくても、どのようにも食べていかれるだろうに。

粒のような漢字が並んだ書籍は、わたしには難し過ぎて、ちらりとも内容がわからない。ただ、彼が書き殴るように頁の隅に書き入れた鉛筆の字を、指で辿り、何となく眺めているだけだ。

目当ての写真は、積んだ本の四冊目に見つかった。

その女性は、垂らした髪を一方の肩にゆったりと流していた。黒目がちの、ぬれたような瞳をしている。笑顔ではなく、唇の端でだけ機嫌のいい素振りをしているだけ、といった表情だ。

友だちが持っていた仏蘭西人形に、どこかその女性は似ていた。ほっそりと首筋へ続く頤がそう思わせるのかもしれない。

年の頃は、二十歳を幾つか超えたところだろう。自分とそう開きもないだろうに、写真の中の人は、見事なほどに美しい。

誰かに似ている気がする。

誰かと、何か相似がある気がする。わからいけれど、見覚えがある気がする。

それがわたしを落ち着かなくさせた。

けれども、本当におみつが言ったように、わたしが知らないだけで、霧野中尉が好みの、有名な女優の一人なのかもしれない。

そう思いながら、指でつまんだ写真を、ふと裏返してみた。

「あ」

静かな室内に、わたしが驚きに上げた声は、思いがけず響いた。

写真の裏には、彼のものではない、流すような筆跡で、万年筆の文字があった。そこには、『紫』とある。

この人は、中尉の妹御だ。

先ほどから晴れない胸の引っ掛かりは、この事実に思い至り、流れていった。そうなのだ。誰でもない、彼にこの女性は似ていたのだ。

『紫』という名の横に日付が並んでいる。今日より、二年ほど前のものだ。その頃撮られた写真なのだろうか。

二年前といえば、シナへ隆一らの連隊が広島から出兵した頃合ではないか。

もしかしたら、兄への餞別の意味合いで、彼女は自分の写真を送り、彼はその写真の中の妹の影に、戦地において何がしかの慰めを見出していたのかもしれない……。

わたしは写真の女性を眺め、またその裏の名を目に留めた。

兄の学費を捻出するため、自ら某華族のお妾になったという彼女。尊い身分の方が見初め、囲い者にと執着させるほど、写真の彼女は美しかった。

けれど、彼女は笑ってはいない。ほんの艶めいた唇の端を上げ、その振りをして見せているだけだ。笑ってはいない。

その彼女を、中尉はどんな思いで見つめたのだろう。

何をかを思い、本に挟み、ときに見返すのだろう。女中が目に留めたのだ。頻繁ではなくとも、たまさかに、またはそれよりも多く取り出して、彼は彼女を眺めるのだ。

どんな思いで……。

あの瞳は、どんな影を宿して伏せられたのだろうか。

その影は、わたしが知る彼のものとは、ほんのり違う気がするのだ。その差異が知りたいようでもあり、逆にまた知らないでいたいとも思う。

知ってしまえば、彼の悲しみに、わたしは少し傷つくかもしれない。

 

 

三月に入り、梅もほころび始めた。店先の反物も、衣桁にかけられた友禅の大振袖も、華やいだ春らしい柄がそろう。

風も冷たくはあるが、お日様の光が、どことなくほのぼのとのどかにも感じられるのは、春先の効用だろうか。

その日わたしは、隣町の幼馴染の家に遊びに呼ばれ、向かうことになっていた。

米問屋の山本屋といえば、大層な身代だと、常々人の口の端に上っている。その家の娘の聡子さんとは、小学校からずっと同じで、仲がよかった。

女学校を出てしまうと、互いに行き来が少なくなり、たまに連れ立って芝居や買い物に出かける程度に落ち着いている。

彼女には兄が一人あるが、その彼は新聞記者になるのだと、大阪に出てしまい、そのため一人っ子のわたしと同じく、山本屋では聡子さんに目下入り婿を探しているらしい。これは母からの噂で聞いた。

肌寒い日だった。

ある話をこれも母から聞いてあり、それで向かう足は軽くない。久し振りに聡子さんに会うのは楽しみであるが、山本屋の暖簾をくぐるのが、気が重い。

その新聞記者に憧れて大阪へ行ったという兄の淳平さんとわたしとの間に、まだ定まらないものの、今縁談が持ち上がっているのだ。

以前母から話を聞き、ぷいっとそのときは顔を背けて不快を示した。

「進めるもそこで止すも、縁のお話だから。山本屋さんは、大層な身上だし、お話を持ってきた人もそりゃ乗り気でね。でも、文緒。縁談はあるだけありがたいのよ。いずれは、その中の誰かを選ばなくちゃならないんだから」

母は諭してそう言うが、その口調のどこかに「霧野様は駄目よ。世界が違うお人でしょう」という気配が匂うのが、辛いのだ。

やはり母親で、慧眼である。わたしの素振りで彼への思いを悟ってしまったらしい。

今回の縁談も、母なりの筋目で、霧野中尉に偏り過ぎるわたしへ放った、予防線のようにも感じる。

「世界が違う」。

それはどういう意味だろう。

商家の一人娘と、戦地へいつ出て行くかわからない職業軍人では釣り合わないというのだろうか。

けれども、商家の奉公人で、軍人でも何でもなかった隆一は召集されて、シナのあんな遠くで死ぬ目に遭っている。

 

何が違うのか。

好きだという気持ちだけではいけないのか。

 

抗う言葉を言いかねて、わたしはつい母の視線を避けてしまう。

咎めるのではない、責めるのでもない、その視線は、わたしに突きつけられた商家の家付き娘という逃れようのない事実と義務を改めて認めさせる。

誰のせいでもない。ただ、決められているだけのこと。

塞いだ気分を和ませるため、わたしはその日、普段の着物を纏わなかった。呉服屋の娘らしく、ほぼ和服で通しているが、流行の洋装にもやはり憧れる。

白いブラウスに紺のカーディガンをはおり、膝丈のスカートを身に着けた。それは着物にはない軽やかな着心地で、落ちた気持ちをほのかに高揚させた。

気紛れに買った、薔薇の香水をふんわり首筋に吹きかけてみる。迷わず薔薇の香りを選んだのは、中尉がくれた花束の香を思わせるからだった。

エナメルの真新しい靴を履き、山本屋への進物の京菓子を抱えたおみつを連れ、家を出た。

吹く早春の風に、素足が心細い。

風はわたしの肌を冷たくなぶって過ぎていく。




          


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