西日が綺麗で、君の横顔も、死ぬほど、綺麗で
祈るひと(8

 

 

 

山本屋では、聡子さんの部屋ではなく、客間に通される。

大したことではないが、女学校時分とは違った待遇に、少しばかりの違和感を覚えた。

こんなところにも、もしや縁談の影響では、とそのきな臭さがにおう。

外からはうかがえなかったが、客間は洋風の設えになってい、絨毯を敷いた床に、椅子とテーブルがあり、壁には果物を盛った油絵が掛けられていた。

聡子さんはレコードをかけてくれ、蓄音機のらっぱから、ピアノの音が流れてくる。

純和風の古い商家の屋敷内に慣れた目には、それらがひどく新鮮に映る。

運ばれた紅茶とお菓子をテーブルの傍らに、久し振りのことで、お喋りは途切れない。

女学校の頃とまったく同じ早耳で、どういう経緯か、我が家に滞在する霧野中尉の存在まで彼女に知られていることには驚いた。

もしや、うちの父が彼女の父とも会う商家の組合の席ででも自慢をしたのか…、と恥ずかしくなる。

いかにも陸軍贔屓の父が、得意になって吹聴しそうな話題なのだ。

「どうして知っているの?」

「だって、曜子さんも裕美子さんも、刺繍のお教室の折りに、軍人さんが文緒さんのお迎えに来ていらしたって、言っていたわ」

刺繍教室の友人には、女学校時代の級友もある。うっかりしていた。彼女らの口から聡子さんへ噂が伝わるのは、ごく簡単なことだ。

今も、ちょっと前の女学校時代も、わたしたち女の子が面白く聞き耳を立てるのは、目を引く男性の話が最たるもの。

逆の立場であったら、わたしも興味を持って気軽く訊ねてしまうはず。

問われて、彼が逗留することになった訳を簡単に話した。

「羨ましいわ。素敵な将校さんだって言っていたもの」

「そうかしら、普段はお侍の浪人のような風よ」

事実だ。

それを努めて何気なく返す。本当はこんな話題すら、頬に熱が上る気がするのに。

まぶたの裏に、ふっと彼の横顔や、ならず者を相手にしたときの、あの胸のすくような颯爽とした様が、こんなとき甦ってくる。

「いいなあ、うちのお兄さんも、徴兵検査に落ちないで、兵隊に行ってくれていたらよかったのに。素敵な将校さんと親しくなって、うちに連れて来てくれたかもしれないでしょう」

彼女の兄の淳平さんは、二年前の徴兵検査で乙種不合格を受け、兵役を逃れたのだと、父か母が言っていたのを聞いたことがあった。

我が家の隆一とどこといって体格が違わないのに、どうして、とあのとき悔しい思いをしたことを、今もよく覚えている。

近しい誰かが戦争にも行かず、無事であるゆえ口にできるだろう彼女ののんきな言葉は、少し前なら、わたしにはひどく腹立たしかったかもしれない。

けれども、今は腹立ちともいえないわずかな引っ掛かりを胸に覚えるだけだ。

日々過ぎるときの経過、その癒しの作用もあろうが、霧野中尉の存在が、やはり大きい。自分でもそれを理解している。

新たな恋を知り、わたしは隆一を忘れかけているのだ。

それが心に余裕を生んでいる。彼のときは死の時点でふっつり止まり、きっとそこから、わたしはまた別のときを刻み始めたのだろうか。

遠くなる過去と、忘れゆく時間。

それらはどこへ消えるのか、何に変わるのか。もしかしたら、それらは経験という人生の重みになって、少しばかり人を優しくも賢くも、そして強くもするのかもしれない。

そうなのかもしれない。そうでないのかもしれない。

ただ確かなことは、「失ったことを、失いかけている」という事実があるばかり。生きていく者は、前を見続けなくては先へ進めないのだから。

ほろ苦いような気持ちの推移を感じながら、わたしは冷めた紅茶を口に運んだ。

冷たい液体が喉を流れ、不意に背を虫が這いでもしたような、嫌な悪寒が走った。寒気がする。この室内が寒い訳でもないのに。

慣れない洋服を着て、薄着をしてきたのがいけなかったのか。

「縁起でもない」

それだけを口にし、話題を変えた。

寒気が去らず、気分も悪くなってきた。

体調を崩しかけている、風邪の本格的な兆候のようだ。

棚の時計が四時を指し、そろそろ帰ろうとした頃、扉を叩く音がした。女中がお茶の換え持ってきたのだろうと思った。

「はあい」

お下げの髪を揺らして、聡子さんが扉へ振り返った。

ほどなく扉が開き、現われたのは女中ではなく、ズボンにセーターを身に着けた若い男性だった。髪を少し洒落たように後ろへ流してある。

「いらっしゃい、文緒さん。久し振りだね」

わたしへにっこりと微笑みかける柔和な顔に、しばらく遅れて、彼が聡子さんの兄の淳平さんだと気づく。

数年も前の詰襟の学生服姿の彼には見覚えがあったが、成人しすっかり青年となったその姿に、面影がなかなか結びつかなかったのだ。

大阪へ行っていると聞いたのに、どうして東京にいるのだろう。休暇ででも帰省しているのか。

「うるさく電話をして、お母さんが呼び返したのよ。ねえ、お兄さん」

わたしへの説明に聡子さんが言い、隣りの椅子に掛けた兄へ顔を向ける。

「忙しいのに参ったよ、母さんには。相変わらずワンマンで」

母上が彼を呼び返した理由には、わたしとの縁談があるのだろう。

にわかに居心地が悪くなってきた。

そもそも四つ上の淳平さんとは、これまで言葉を交わすことも稀だったのに、今日はどうしてか、この場に腰を落ち着けてしまっている。

しばらく雑談を交わしたが、どうにも気分が悪い。

「ごめんなさい、わたし、そろそろ失礼するわ」

「まだいいじゃないの。ねえお夕飯一緒にいかが? せっかくお兄さんも帰ってきているのだからって、母もそう言っていたのよ」

「ごめんなさい。また今度お呼ばれするわ…」

詫びを言いながら、わたしは椅子から立ち上がった。そのとき、スカートの膝に広げていたハンカチが落ちた。

「文緒さんは、具合が悪いんじゃないか。顔色が悪いよ。そうだ、僕が自転車で成田屋さんまで送って行ってあげよう」

「それがいいわ。歩くより楽だし速いわ」

ハンカチに気づいたが、淳平さんの言葉に気を取られ、頭が断りの言葉を引っ張り出すのに一杯になった。

「…そんな、いいわ、悪いもの」

「悪くなんかあるもんか、知らない仲じゃない。さ、遠慮せずに」

「でも…」

「おやおや僕に送られちゃ、迷惑なのかい?」

淳平さんのそれは、おどけた口調であったが、譲らない意思がのぞく。これ以上無理に断るのも角が立つように思え、わたしはしょうがなく頷いた。

厚意を無碍にすれば、彼が決まり悪く思うかもしれない。ちっと、軽い舌打ちでわたしの無礼をすぐ流してくれる霧野中尉とは違う。

確かに、わたしたちの間に縁談が持ち上がっているとはいえ、彼は仲良しの聡子さんの兄上なのだ。知らない仲ではない。

胸がむかむかとし出した。お菓子など、焼き菓子をほんのちょっとつまんだだけなのに。

見送りの玄関口には、聡子さんと母上の姿もあった。

「文緒さん、今度はぜひ、ゆっくりお夕飯を食べにいらっしゃいね」

「ありがとうございます、小母様」

淳平さんが裏から回してきたのは、ぴかぴかと光る真新しい自転車で、促されて彼の後ろの台に横座りに乗った。

そのとき、ハンカチを忘れたことに気づいたが、どうでもいいと思った。自転車を漕ぐ淳平さんのセーターの腰におずおずと手を回しながら、わたしが考えるのは、早く家に着き、早く横になりたい、そればかりだった。

淳平さんは二人乗りに慣れているのか、往来の人や自転車を避け、上手にハンドルをさばいていく。確かにとぼとぼと歩くより速く、ありがたかった。目になじみの看板が掛かった薬屋さんがもう近い。我が家はその角を曲がればすぐにある。

小石をタイヤが踏んだのか、がくんと自転車が振動し、くらりと左右に一瞬傾いだ。体勢が戻るときのゆらりとした感覚に、急に吐き気が込み上げた。

喉元へせり上がってくる気持ちの悪い気配を、わたしは唇を噛んで耐えた。

どうしよう。堪えられないかもしれない。

もうすぐ家なのに、どうしよう。

「止めて」

迷ったが、このまま粗相をしてしまうよりは、と淳平さんのセーターをぐっと引っ張り、自転車を止めてもらった。

「どうしたの? 文緒さん」

振り返り、訝しげにこちらを見る彼に何も言わず、わたしは側の家の前の溝にしゃがみ込んだ。少し手の中に戻してしまった。白いブラウスがそれで少し汚れてしまった。

ハンカチを山本屋に忘れたことを思い出し、泣きたいような気持ちになった。

泣きなどし、気のどこかが緩めば残りの吐瀉物をこのまま吐き出してしまいそうで、必死にそれを堪えていた。

そこへ、投げるように青い格子柄の男物のハンカチが降ってきた。拾い損ね、わたしの目の前の地面にそれは落ちた。淳平さんが貸してくれたのだろう。

目を上げると彼は妙な様子で、もじもじとしていた。わたしから視線を逸らし、自転車のハンドルをもう来た道へ戻そうとしていた。

「それ、使われたら汚いし、返さなくていいから…」

尻すぼみにそれだけを言い、かれはそのまま自転車の身を翻した。その様子に、理由をすぐに思い至った。

淳平さんは、戻してしまったわたしを汚いと、逃げたのだ。

彼の何を汚したというのだろう。粗相してしまう前に、だから自転車を降りたのに……。

それは、目の前が暗くなるほどの恥ずかしさだった。気を緩めたくないと歯を食いしばっているのに、瞳を涙が溢れ出した。

暮れなずみゆく町の往来の隅で、ハンカチもなく人家の前の溝にしゃがみ込んでしまっている自分が、とても情けなく惨めになった。

じんと頭が鈍く痛み出した。通る人がこちらを見ている。おかしな娘だと、横目で見ているのだ。と、一人がこちらへ踏み出した。様子を見に来たのだろう。具合でも悪いのかと。

親切だろうが、それが煩わしく、わたしは地面に落ちた淳平さんのハンカチを拾い、内側を使って口許に当てた。

そのまま立ち上がり、走るのは苦しかったけれど、小走りにその場から逃げ出した。

風に頬の涙は乾いていったが、また新たなそれが次から次と、瞳を流れていく。

情けなかった。惨めだった。

自分も。

置かれた状況も。

あんな人が、縁談の有力な候補だなんて。

 

 

三日は高い熱が引かなかった。

かかりつけの渡井先生を往診に乞い、「スペイン風邪ではなかろうか」との診断を得た。

スペイン風邪の恐ろしい大流行は、以前から耳にしていた。高熱にうなされ、身体の弱い者は、命を落としてしまうと聞いた。現に数年前の新聞に、多数の死者が出たと報道があったのを覚えている。

わたしの部屋には、決まったおみつと母のみが顔を出した。二人は医師の指導か、出入りには盥に用意したつんとした臭いのする水で必ず手を浸していく。おみつは下仕事もするので母とは違い、口をふきんで覆ってもいた。

人に感染させる病気で、仕方のないことだが、自分が汚い者になってしまったようで、山本屋からの帰りから続く嫌な気分が抜けなかった。

熱に浮かされ、食欲もなく、喉を通るのはぬるいほうじ茶程度。それが三日過ぎ、四日目、ようやくお粥を食べることができたその晩また、熱がぶり返した。

熱のあるわたしの看病をしながら、枕辺の母が、涙ぐんでいるのが切なかった。このまま身体が弱って死んでしまうのかもしれない。

そうなのかもしれない。

多くの死者が出る病気なのだ。わたしがその列に加わらない保証はない。

「霧野様に、会いたい…」

うわ言に、わたしは幾度か口にした気がする。母がそれを耳にしたかも、判然としない。自分でもはっきりと知れないのだ。言わなかったのかもしれない。

夢の話かもしれない。

 

一週間がたった。

熱はまだすっきりと下がらないが、ひとときの物憂い気だるさも取れ、朦朧とする時間は減った。うわ言も、もう言うことはないだろう。

母にねだり、部屋にはいい匂いのする紅梅を、大きな甕にたくさん活けてもらった。目の慰めになり、また香りが気持ちを和やかにしてくれるような気がしたから。

おみつに熱いお絞りで身体を拭ってもらった。このころようやく彼女は、わたしの側では口を押さえるふきんを取ることが許されたようだ。

汗にぬれたネルの浴衣を新しいものに代えてもらうとき、自分の乳房が一回りも小さくなったような気がして、気持ちが塞いだ。

スペイン風邪で痩せ、貧弱になったわたしを見て、霧野中尉は子供のようだと嗤うかもしれない。また小さいと、からかうだろうか。

 

目が覚めて、寝返りを打った。

いつしか日が暮れ、既に夜になってしまっていた。

夕刻に早い食事を摂ったのを覚えている。まだ食欲もあまり出ず、青菜を入れたお粥と甘い卵焼きを少しだけ食べたのだ。

ころんと寝返りを打った先、薄暗がりの中、自分の枕辺にあるものに、わたしは「あ」、と小さな驚きの声を出した。

そこには、霧野中尉の姿があった。

夢ではない。彼の指はわたしの頬に伸びた。

彼は行儀悪く片膝を着いて座っていた。軍服の足先の靴下に、大きな穴が開いてしまっているのが見えた。この人にはそんなことはまったくの些事なのだろう。

元気になったら、繕ってあげたい。ごく造作ない。ついでに彼の浴衣も縫ってあげよう……。

ふと頭に湧き上がった思いは、わたしの胸をぽんと嬉しさとときめきで満たした。

起き上がろうとしたが、寝てばかりいたこの一週間で、腕に力が入らない。やんわりと彼がそれを押し留めた。「そのままでいい」と。

「よく頑張ったな、スペイン風邪は、男でも死ぬ奴があるのに」

思いがけず、その言葉は優しかった。

「細っこいのに、よくやった」

頬を滑る指も穏やかに優しいのだ。

ふと、彼の口から似合わない言葉がこぼれた。「夜会に興味はあるか?」という。

中尉にあまりに不似合いなそれに、わたしは唖然とし、返事ができなかった。

「まだ先の話だ。あんたがよければ、俺の連れになってくれ」

「ええ…」

目が慣れれば、うっすらと輪郭ときれいな鼻梁が浮かんで見える。

離れていた日々、会いたいと願った彼の顔を見たいと切に思った。けれども電灯をつければ、やつれたわたしの顔色も彼の目に入ってしまう。

彼には、こんな病床のわたしを露わに知られたくない。

よしよしと親しんだ猫にでもやるように、指は額際の髪に伸びる。

「あ」

髪に触れられたくなかった。もう長く洗っていない。汗で汚れてしまっているのだ。嫌な匂いもあるかもしれない。

このとき、淳平さんから受けた蔑んだ仕草を思い出さない訳ではなかった。あんな様子を中尉からも受ければ、わたしは死にたくなってしまう。

「止して、……洗っていないから」

わたしは首を振り、彼の指を避けた。

耳に小さな笑いが届いた。それは、子供の些細な悪戯を笑うような、あっさりとした笑いだった。靴下に大穴を開けて平気な彼は、こんなことなど気にもならないのだろうか。

そうなのだろうか。

「そのままで、あんたはきれいだ」

その声に、わたしの瞳を、涙が溢れ出した。止め処もない。

切なかった。

悲しかった。

辛かった……。

 

「霧野様に、会いたかった」

 

涙を含んだ声は、しっとりと暗がりに溶ける。

いいのだ。恥ずかしさも、身を取り繕ういつもの女らしさも。

このとき要らないと思った。

わたしは彼に電灯を点けてと、頼んだ。明るい中で、彼の顔を見たいのだ。わたしを見るあの瞳を、そしてこめかみのあの傷も目に映したいのだ。

不意に、身体をすくうように抱き起こされた。頬が彼の胸に当たる。まだ鼻腔の奥が覚えている。彼の軍服にしみた煙草の匂いを。まだ鮮やかに、覚えているのだ。

「文緒」

そう呼ぶ声がした。

それは思いがけない出来事だった。唇が触れる。合わさったその熱に、わたしはくらむほどのときめきを味わった。

触れ合う口づけは少しだけ長く続き、言葉のない抱擁はそれよりも長く続いた。

 

わたしは、この人が、やはり好きだ。




          


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