天涯のバラ
27
 
 
 
目覚めてすぐに、隣りに眠る彼女の姿を見つけた。瞬時に昨夜の情事を思い出す。寝覚めでぼんやりとしながら、彼女の寝顔を眺めた。
どれほどかして、彼女が目を開いた。側の彼にぎょっとした顔をしたが、すぐに照れ臭そうに顔を背けた。
(あれだけ口説いたくせに)
彼は言葉もなく、背を向けた彼女を抱き寄せ、口づけた。夕べ自分が触れた肌に、もう一度手を這わす。彼女は少し抗ったが、拒みはしなかった。
改めて、朝日の射す中彼女を抱き、新たに始まった甘い関係を頭と肌に刻み込んだ。それは彼の渇いた日常に降る、恵みの大雨だった。
超えた一線の後で、夕べ以前の彼が、どうしてこの誘惑を堪えて来られたのかが、自分でも不思議だった。愛する彼女は女らしく、こんなにも魅力的に完成していたのに。
誘って、一緒にシャワーを浴びた。抱き寄せれば、彼女の身体に簡単に彼は反応するが、さっきの後で、挿入後は長くかかる。それは彼女にきっと負担がかかってしまう。行為は止めて、抱きしめてキスするに留めた。
彼の出社はこの日午後からでよく、彼女も予定はレッスンのみだ。会って飲む日は、元々予定に余裕のある日を選んでいた。身支度をして、外出した。彼の運転する車で、少し先のカフェに入った。そこで朝食兼昼食を摂る。
互いに、ちょっとぎこちない。会話は少な目で、彼女は彼と目が合うと、はにかんですぐに逸らした。
その後は、彼女を自宅マンションまで送った。いつもの通りのことだ。別れ際、
「また連絡していいのか?」
ふと、そんな声が出た。彼女は彼をまっすぐに見た。「速水さんって、優しいのかそうでないのか、わからないときがあります」
「え」
「後悔、してるんですか? 夕べのこと…」
「まさか、そんなことはない」
「だったら、訊かないで下さい」
彼女はそれで、礼を言いエントランスの向こうに消えた。
 
仕事に集中しているときはいいが、それが途切れると、夕べのことが、頭に鮮やかに甦った。折々彼は、彼女との時間の余韻のような甘い記憶に、うっとりと浸った。
「いつか、速水さんの子供を産ませて下さい」。
あの声は忘れられない。金で提供を受ける精子ではなく、彼の子供を産んでくれるというのだ。あの衝撃と感動は、彼を震えるほどに感動させた。
結婚生活は破綻して更に鎖のようで、解くことも適わない。あの状態に、紫織を追い込んだことへ、彼はある責任も感じている。別れることは、もはや無理だ。紫織のぎらついた視線を受けることなく、束縛されず自由であるのが救いで、この現状に満足していたのだ。
(自分の子など、望むことすら思いも寄らなかった)
そうでなくとも、彼女と二人であるのなら…。
これからの未来の可能性は、彼に描けなった先の幸福を夢想させる。
甘い夢は日常にふつふつと途切れた。
「社長、お電話です」。
「社長、ご報告した企画の件で…」
「社長、◎○様との会食のお時間です」。
「社長、明日3時からの会議ですが…」
秘書や他の者の声に、頭を切り替える。幾度もそれを繰り返し、あるとき、ふっと理性が影のように心に差してくるのだ。
(今なら、まだ引き返せる)
一夜の過ちだと彼女に告げ、潔く身を引く。そうすれば、酒を飲んで魔が差した夜の間違いで、終わらせられる。彼女を不倫に引き込まずに済むのだ。今なら、まだ間に合う。
そうすべきであると、従来の彼が頑固に告げる。欲に溺れて、彼女を不幸の道連れにするのか、と。冷たい理性が囁くのだ。
(わかっている)
そんなことは、わかっていながら超えた一線だった。彼女が自分を思ってくれていた、その事実は、抗いようのない甘い誘いだった。夕べのあの誘惑を断つくらいなら、死んだほうがましだと思った。頭が真っ白くなり、自分の中の頑ななモラルが引きちぎられた。
(しかし、やはり…)
どれほど辛くても、関係を断つべきなのだ。
たとえ彼女が泣いても、彼をなじっても。それがこの先の彼女のためだ。
現実の彼女の肌を知ったことを唯一のよすがにして、自分はまたあきらめて生きていけばいい…。
悲しい決断に頭は傾いた。それでも、感情はどうしてもそちらへ沿わず、彼を途方に暮れさせるのだ。
 
秘書の水城が、午後六時半頃に社長室にやって来た。何もなければ帰宅すると告げる。子供を持ってからは、緊急時でもなければ残業なく帰すことにしている。
「ああ、いいよ。おつかれさま」
秘書が出て行き、そのまま仕事を続けた。どれほどか後で、時計を見て彼は立ち上がり、コートを持って部屋の外に出た。外出の予定が一つある。
階下にエレベーターで降りたとき、ロビーに聖の姿を見つけた。子供を抱き、ちょうど水城と社を出るところだ。子供の保育園に寄った後で妻を迎えに来たのだろう。睦まじげな様子は、幸せそうで微笑ましい。いい光景で、胸にしみた。
近いので、歩くつもりだった。十五分ほど歩いて、目的のホテルに着いた。ここでは七時から大物政治家が主催の異業種懇親会が開かれる。多くの企業家が招待され、参加者は受付で高額の会費を払い、薄い冊子と変な手帖が入った紙袋を渡される。
会場では種々の企業から、トップやそれに次ぐ人々が出席していた。主催者だけではなく、それにつながる若手議員らの姿も見えた。経営者に、政治家を引き合わせるための会だった。逆かもしれない。
本来彼はここに来る予定ではなかった。別の者に回したそれを、やはりと引き受けたのは、時間つぶしだった。ぽかりと空いてしまった時間がやり切れず、仕事を埋め込んだ。
退屈な公演を一つ二つ聞き、拍手をし、知った顔が多く挨拶を交わし合う。この後は、また高額な会費を払う食事会がセッティングされている。気は向かないが、出席するつもりだった。
会場を出るとき、誰かの声か似た服を見たからか、先ほど社のロビーで目にした、子供を連れた聖と水城の様子が、ふと思い出された。自分にないものを確かに持つ彼らの幸せが、ちっとも望まないこんな場にいて、芯から羨ましくなる。
それを素直に認める自分に対し、歳を取ったものだと思う。




           


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