天涯のバラ
28
 
 
 
幼い頃から、他人が普通に持つ喜びを、彼はあまり持たされずに育った。成長し、義父のほぼ期待通りの男にはなった。そのことに費やした少年期から青春期に人として犠牲にしたものは、思いがけず多く、気づけば、やはり他人が当たり前に持つ幸せを、手に出来ないままでいる。
かつて必要ないのだと断じた、ささやかな幸福を、彼も今は、それが要る要らないの選択肢ではなく、人の本能であると知っていた。情愛あるやりとりや、人肌のぬくもり、愛し愛される充足感…。
(それが人の幸福の基礎を形作る)
基礎がない上に、他で埋め合わせたものを重ねたって脆く、いつかは崩れ、偽りの残骸が残るばかりだ。
それが、これまでの彼の人生そのもののように感じられた。
(これからも…)
そうやって、年を重ねて無為に老いていくばかりだ。
不意に、耐え難い虚しさと悲しみがこみ上げてきた。衝動的に人をかき分け、廊下の奥へ進み、エレベーターを使わず、階段で駆け下りた。ひと気のない二階の踊り場で立ち止まり、自分が泣いているのに気づいた。場が場であれば、切なさに泣き叫びたかった。
(嫌だ、もうたくさんだ)
と、背後から人が下りて来る。エレベーターを待つのを避け、階段を選んだのだろう。彼は壁を前に立ち背を向け、人をやり過ごした。壁に押し付けた額がひんやりと冷たい。そうしながら、指の節をきつく噛んでいた。
人が行ってからハンカチを出し、涙をぬぐった。噛んだ指にはくっきり赤く歯形がついていた。強く噛んだため、じんじんと痛む。後で腫れるかもしれない。どうでもよかった。
彼は髪をかき上げ、気を落ちつけてから階段を下り切った。幾つもの会の終わりか、ロビーにはスーツの男が群れている。
さっきの懇親会で見た主催者側のスタッフを見つけた。近寄って、この後の食事会を欠席すると告げた。
何か言いたげなその男に、言葉を許さず、「緊急の用で申し訳ないと、先生によろしくお伝え下さい」と身を翻した。抱えたコートを着、足早に大都芸能に戻る。
このときには心は決まっていた。
(今を逃せば、自分は一生このままだ)
何の喜びも得ず、衰え朽ちて、惨めに果てて行くだけ。
エントランスで、守衛が彼を見てお辞儀をする。その彼へ「これ、捨てて下さい」と手の紙袋を押し付けた。そのままロビーを突っ切り、エレベーターで地階に降りた。下には駐車場がある。
自分の車に乗り込んでから、ケイタイを取り出した。彼女へコールする。待ちながら、胸が高鳴った。彼女へどうしようもなくのめり込むおのれを、愚かだとも思う。のち、この自分の選択を悔やむかもしれない。
でも、何の代えも効かないのだ。
(彼女でなくてはならない)
何度目かの呼び出し音の後で、彼女が出た。
『あ、どうしたんですか?』
後ろでにぎやかな人声がする。どこにいるのかを訊けば、○××劇場だという。友人が出演していて、舞台後の楽屋にいるのだと言った。
「予定があるのか?」
『いいえ、この後帰ります』
彼はその小劇場を知っている。ほど近い。その先の花屋の前で拾うから、待っていてほしいと伝えた。
『いつ?』
「いつでも。十五分で着けるよ」
『…はい、わかりました』
電話を切り、煙草をゆっくりと一本吸った。それからエンジンをかける。ふと、車を変えようかと思った。仕事の他、彼には身を入れる趣味らしいものがなく、そのせめてもの代わりに頻繁に車を変えてきた。
彼女に好みを訊いてみようと思いついた。
待ち合わせに着いたのは、彼女の方が早かった。彼がその路肩ヘ滑り寄り停車すると、すぐに後部座席のドアを開けて乗り込んでくる。
乗り易いのはわかるが、普通そのドアは選ばないだろう。
「俺は君の運転手か?」
「あ、ついタクシーの癖で」
彼女は運転席の彼へ身を乗り出してくる。いい匂いがふわっと鼻に届いた。一晩中腕に抱いていた、彼女の髪と肌の香りだ。
「今日はどうしたんですか?」
「座りなさい、ベルトを締めて」
食事はどうかと問えば、まだだと言う。なら一緒に食べようと、リクエストを訊いた。彼女はちょっと悩んだ後で、
「水城さんがはまってる、ベトナム料理のお店がいいな。会社の帰りに寄れるって言ってたから」
「どこだ?」
「名前は、何とかガーデンとか…」
いい加減なうろ覚えだ。「電話で訊いたら、迷惑かな?」
「構わないだろ、俺も用で、この時間聖にかけることもある」
彼女はケイタイで、秘書の番号に掛けている。耳に当てる様が、ルームミラーに映る。
「あ、ごめんなさい、水城さん。今いいですか? …すいません。大した用事じゃないんですけど…。前に水城さんがおいしいって教えてくれたベトナム料理のお店って、どこの何てお店でした? ああ、そうですか。○○法律ビルの裏、『カーサ・ハノイ』ですね、わかりました。ありがとうございます。」
(おい、何とかガーデンはどこに行った?)
彼女の適当な記憶がおかしい。そう言えば、この子はワインでも同じことをしていたな、思い出し、彼は口元が綻んだ。
「あ、相手ですか? ううん、速水さんです」
彼女の声に、彼は綻んだ口元を引き締め歪ませた。明日が思いやられるのだ。この夜彼は、さっき抜け出した懇親会の後で食事会に回ることになっていた。こんな私用優先の予定変更は、彼にはまずない。あの秘書は、きっと勘繰りまくってあてこすって、彼の狼狽を楽しむのだろう。
まあ、結局その秘書には、彼女との関係を、早いうちに打ち明けておかなくてはならないのだが。
彼女は電話を切り、「聖さんとあっくん(子供の愛称)の声がした」とのどかなことを言う。
目的の店は行き過ぎていたので、大回りして戻ることになった。コインパーキングが五十メートルほど離れてあり、そこに車を停め、店に入った。
上はテナントのぎっしり入る、ビル一階の小さな店だ。九時前にしてはやや混んでいた。カウンター席に常連らしい客が店主と話しながら食事をしている。促された、窓際のボックス席に掛けた。
適当に、店のお薦めというものを頼んだ。
「ここ、会社の人がまず来ないらしいです。水城さんが言ってました。よく聖さんとご飯食べに来たんですって」
頷いて返し、確かに裏通りであるし、店も小さくわかり辛い。彼だって、こんなことがなければ知りもしなかっただろう。
「あ、速水さんエスニック苦手でしたよね。ごめんなさい…」
そういえば、彼女と再会して間もない頃、桜小路の父親の店に連れて行かれそうになり、そんな出まかせを口にした。
「いや、いいよ。水城君のお薦めなら、よほど旨いんだろう」
「大丈夫ですか? 香辛料のアレルギーとかじゃ…」
「それはない」
沖縄民謡が流れていた。店名もハノイとうたいながらスペイン語も入る。テーブルは幅が狭く横に広めで、座ると彼女の膝が自分の脚に触れるほど近い。
水城が恋愛中の聖とよく訪れた理由がわかる。ごく親しい人と顔をつき合わせ、気楽に食事を楽しむ場所なのだ。店内は清潔ながら雑多な雰囲気で、彼女を前にした緊張がふっと緩む。
程なく春巻きを蒸したものと白飯に鶏肉が載ったものが運ばれてきた。それぞれ多いが、分けるとちょうどいい量になる。
辛いが旨いと思った。食べながら、「どうしたんですか? 急に…」。彼女が問う。
彼はすぐには答えずに、彼女の唇の端につけた飯粒を指で取った。何気なく自分の口に運ぶ。それに、彼女が目を逸らした。照れているようだ。
「急に君に会いたくなったんだ。それじゃ駄目か? 話したいこともある」
「え」
「そう、君は、俺と会わない日は違う服を着るのか?」
さすがに彼女は夕べと同じ服は着ていない。白いシャツにジーンズでグレーのゆったりとしたカーディガンを重ねている。
仕事着の着物やドレスも含め、お嬢さんらしい格好の彼女しか知らないから、ちょっとマニッシュな雰囲気は、彼の目に新鮮だった。可愛らしいと思った。
彼女は少しふくれて、ガーという鶏肉をご飯と一緒に口に頬張る。
彼女は咀嚼の後、伏し目になり、
「速水さん、もう会ってくれないと思った…」
「え」
「わたしの知ってる速水さんなら、きっとそうするだろうな、って…」
ちょっと言葉を失う。彼女は彼をよく理解している。




           


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