天涯のバラ
29
 
 
 
彼は首を振った。迷いに迷い、悩んだ挙句の決断だった。結局、理性を断ち切ったのは、彼女の色香に溺れたおのれのエゴなのだ。
今朝彼は、思い焦がれた存在が、隣りで眠るのを見た。彼女に腕を回すのは自分なのに、逆に包み込まれるような大きな安らぎと満足を味わっていた。もう何も要らない、と心からそう思った。
あのときの胸に満ちた完全な充足こそが、絶対的な幸福なのだと、今思う。
(どうあきらめても、やはりほしい)
「自分が間違っているとわかってる。わかってるんだ。君の優しさに乗じていることも、承知してる。それでも…」
そこで彼の手を、彼女が取った。さっき彼が噛んでつけた指の傷に自分の手を重ねた。
「速水さん、忘れてますよ。真面目な速水さんを無理に誘ったのは、わたしです」
「だとしても、俺が悪い。そんな資格もないのに…」
「他の人は知らないけど、わたしたちのそれを決めるのは、速水さんじゃないと思う」
「え」
彼女は瞳を下げ、彼の指の跡を自分の指でなぞる。「噛んだでしょ?」
「え、あ、そうだな」
「こんな跡になるまで、どうしてですか?」
「君のことを考えていて、気づいたら、そんな風になってた。身を引こうと思いながら、そうしなければならない自分が悔しくて…」
「それで十分です」
「え」
「すっかり口説かれました」
彼女は箸で春巻きを割り、その半分を彼の口に持っていく。「あーん」。何となく、彼はそれを食べた。残りを自分も食べて、
「冷めちゃったけど、おいしい。そうでしょ?」
「そうだな」
にこにこしながら箸を進める彼女を見、彼はすっかりそのペースにはまっていると思った。彼の気持ちをほぐして導き、不毛な会話の流れを変えた。ふと、彼女の手のひらに載る、自分の心を思った。ふっと彼女の一息で、あちこちに転がり揺れるのだ。
女に惚れ込む、入れ込む、とはこういうことか、と他人事に実感する。不快さはない。
「口説かれついでに、もう一つ」
「ん」
彼女が皿の残りをかき込むように食べるのへ、「一緒に住まないか?」と、決心を打ち明けた。
「その方が、君を守れるように思うし、月に二度三度だけ外で会うのは、もう嫌だ。…できたら、今日から。どうだ?」
彼女は皿を置き、ナプキンで口を覆った。はっきりと顔を赤くした。ストレートな誘いに、照れているのだ。
「…あの、速水さん…、人と暮らすのって大変ですよ、合わないことも出て来るし…」
「よくわかってるつもりだよ」
「…そうですね。あ、ごめんなさい。変な意味じゃ…」
「変な意味でもいいよ」
でも、と彼女は彼へ顔を寄せる。「わたし、独り言を言うんです。芝居のことを考えていたりすると、特に…」
「知ってるよ」
「家事も得意じゃないし…」
「君にそれは求めない。俺だって不得意だ。お互い様じゃないか。人手を頼めばいい。今もそうしているし」
「…じゃあ、これは? 嫌なことがあると、すぐにお酒に逃げるんです」
「俺もそうだ」
彼女は目をさまよわせ、う〜んと言葉を探している。その彼女の頬を指で突き、
「なあ、ちびちゃん。君は俺と住むのが嫌なのか? そんなにあれこれ捻くり出して」
「そうじゃないけど…」
「なら、何だ?」
「限りなく、ハードルを下げようとしているんです。最初から駄目な女と思ってもらった方がやり易いんです。靴を並べても、見直してもらえるでしょ」
「何だ、君の交渉術か」
彼は笑った。彼女がどんなにあれこれ彼の前に「駄目な女」をさらしたとして、
(決して、あれ以下にはならない)
妻のことを思い、そんな言葉出かけたが、彼女が喜ぶ訳もない。不快がるだけだ。口にしなかった。その妻を含め、彼には、あれもできるこれもできると自分を売り込む人間は多かったが、その逆の過小評価を突きつけてくる者はまずいない。
店を出て、角のコーヒーショップでコーヒーを買った。彼女はカフェオレだ。また後部座席に乗ろうとするので、助手席に座るように言い、前に来させた。
コーヒーを飲みながら、彼女のマンションへ向かう。当座必要なものを取りに行くのだ。彼女は、一緒に住むことを同意はしたが、気後れしているようだ。いきなりの展開に戸惑うのは、彼にもわかる。
「しばらくつき合ってから、は駄目なんですか?」
「お互いに忙しいんだ。時間は無駄にしたくない」
彼女の部屋から彼のマンションまで、同じ区内で直線距離だと知れている。が、道は混むし、その送り迎えに時間を取られるのは面倒だった。
彼女はタクシーを使うと言うが、会った後で別れて彼女を見送ることが、彼には許し辛い。別れて一人にされるのが、寂しいのだ。
「君には実感がないだろうが、三十を過ぎたら時間の流れが違うんだ。三十五を過ぎたら更に加速する。君の一秒は、俺の二秒なんだ」
「何ですか? 急に」
「それだけ俺には時間が貴重だって、言いたいんだよ」
「ふうん、おじさん自慢するから、びっくりしちゃった」
「自慢してない。それに…」
二人で外で会い、彼女を送る回が頻繁であれば、写真を撮られ記事になる危険も増える。彼女の住まいは他の芸能人も多く住むのだ。今はスキャンダルに遠い彼女も、そうでない誰かの巻き添えを食うことは、今後十分あり得る。
そのようなことを説明した。比して、彼のマンションは大使館員や外資の役員など、住む層が違い、芸能記者の守備範囲外だろう。彼は買って五年になるが、不審な人間を見かけたこともない。
二人の関係を持ち続けるのなら、何よりも彼女の安全と名誉を守りたいのだ。
彼女は彼の説得に、カフェオレのカップに口をつけながら、「はい」と頷いた。
「…上手くいくのかな。また失敗したら、速水さんとの間が変になっちゃう気がして…」
ちょっと怖い、のだと彼女は言う。
また、か。と彼は彼女の言葉に引っかかり、喉の奥で笑った。
(あの、一生売れないお笑い芸人と一緒にするな)
例の男に、偉ぶらない親しみ易い彼女は、魅力的だったのだろう。気前よく、少なくない資金もぽんと出してくれる。しかし、おのずと格の違いが目についてきたはずだ。
人には格があるのだ。天性のものもあろうが、それは気構えや経験による余裕が作り上げる、ある種のオーラだ。彼女には濃くそれがあり、あの男にはきっとまだない。
手近な周囲の男が「北島マヤとつり合わない」ことに、彼女だってうっすら気づいているはずだ。だから、ぼやくのだ。
同じ、観客を相手に舞台に立つ仕事をする者なら、尚のこと彼女との差に気づき易い。よほど優れた相手か、その真逆でもでない限り、差が劣等感になり、苦しくなるに決まっている。
(自分は違う)
と、格差から遠く、彼はのんきに思う。
「これまで通りでいいじゃないか、気負わなくていいよ」
「うん…」
彼女の返事は頼りないが、彼にだって先はわからない。二人の時間を積み上げていくしかないのだと、感じるだけだ。ただ、彼には漠然とした自信があり、それがなぜか揺らがない。
こんなにも遠回りをして辿り着いた、一つの答えなのだ。真実に違いない、と。
 
彼女の部屋に寄り、旅行トランクに詰めた荷物を積んだ後で、彼のマンションへ向かう。
彼女が「歯ブラシを忘れた」と言い、途中コンビニに寄った。時刻は十一時に近い。歯ブラシと避妊具を買って、そのまま帰った。




           


パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪


ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪