天涯のバラ
30
 
 
 
誰かと住むということは、生活が変わることだ。それは、がらりと大きな違いではなく、小さなものが幾つも幾つも目の前に現れて気づく。
自分のものの側に、彼女の歯ブラシを見つける、彼には用のないクリームのチューブがある。水を飲むのに冷蔵庫を開ければ、彼女が牛乳を買っていたことを知る。
部屋のあちこちに、彼女の痕跡が残り、それは消えないのだ。
彼女と住むのを決めた翌日、折を見て、秘書に打ち明けた。あの周到な水城が一瞬よろめいたのを、彼は見逃さなかった。
無性に気恥ずかしく、意味もなく彼は頭をかき、「そういうことだ」と結んだ。
秘書はたっぷり間を取って、「何をお求めですか?」
かなり驚いただろうに、そして、彼の行為への耳にいたい苦言も覚悟していた。なのに、秘書はそれらを省き、要点だけを問う。
「もちろん、公表で出来る関係ではない。彼女の名前を守ることを配慮してくれるとありがたい」
「何なりと。他には?」
「そうだな、君の忠告をあのとき聞いていればと、悔やむよ。結局、自分を偽れずに、この結果だ」
「とんでもない。…それで、今はお幸せなのでしょう?」
「そうだな…、その通りだよ。遅過ぎたが、取り返せたら、と思っている」
「それをお聞きして、安心しました」
そこで水城はふふっと微笑んだ。この秘書のこんな嬉し気な表情を見るのは、いつ以来だろう。ふと思った。あれは、きっと彼女が米国のレッドカーペットに登場したときか…。
「君は、文句はないのか? 俺に…。実質はないが、俺は妻もいるのに」
「わたしも歳を取りました。見る人や事情や状況で、正邪も変わるのだと、理解しております。清濁併せ呑むのも、社長秘書の心づもりですわ」
「ありがとう」
「…わたしは一年だと見ておりました。主人は、ご存じの通りの控え目なタイプですから、意見も慎重で。三年はかかるだろう、と。わたしのニアピンですわ」
秘書夫妻は、ひっそり彼と彼女の関係の進展を賭けて楽しんでいたらしい。シャンパンを奮発してもらいます、と秘書はにんまりだ。
「君たちは、俺を肴に楽しそうだな」
「ええ、当然ですわ。大事な夫婦共通の話題ですもの」
彼は声もなくあきれたが、聖が奮発させられるシャンパンを、自分が持ってやろうとふと思った。
その日の出先で、思い出して、シャンパンを買った。一本を手に取り、彼女への土産にしようと、もう一本買った。
 
晩春には、彼女は『紅天女』の夏季特別公演の稽古に入る。今回から演出が変わり、その監督の意図から、彼女は日舞を再開し、みっちり習い始めた。これは週に三日も通う、熱の入れ方だ。
他、ヨガと英会話のスクールにも行き、目立った仕事はないが、それら習い事で忙しくしている。
その夜は、彼女の手料理を食べた。
朝、彼女は彼の夜の予定を訊き、「遅くないのなら、わたしがご飯を作りますよ」とさらりと、恐ろしいことを言った。「君も忙しいし、面倒なことは無理しないでいいぞ」と、遠慮したい気持ちを、かなりソフトに包んで伝えておいた。
彼女の手料理など、本音では幼稚園児レベルだと思っていた。ああいうものは、基本的に向き不向きが、生まれながらに備わっていると、彼は信じる。特に、彼女は演劇の才へ傾きが激しい分、そちらのセンスは壊滅的だと踏んでいるのだ。
二人で暮らしはじめ、なるべく夜は帰宅するようにしている。時間つぶしに仕事をし、深夜まで会社に居残ることは止めた。しかし、その日だけは、用事が欲しくなった。
それでも、八時過ぎには恐る恐る帰った。定位置に車を停め、キーを取り出し、鍵を開ける。ドアの奥に彼女がいるのだと思うと、いつだって嬉しくなり、胸がときめいた。
魔女のように、鍋の異臭のする妙などろどろしたものをかき回す様が浮かんだが、前日と同じように振る舞った。
玄関から、廊下を抜けリビングに入る。ドアからもういい香りがしてた。
(ああ、止めたんだな)
と彼はほっとした。買って来たものを温め直しているのだ。
上着を脱ぎ、ソファーに放り、キッチンへ向かう。その時、彼女が彼に気づいた。笑顔を向け、「お帰りなさい」と言う。
「ただいま」
背後から抱きしめたいが、彼女は鍋つかみをし、天板を手にしている。何か載ったそれを、ステンレスの調理台に置いた。
彼も料理はしない。温め直すのにはオーブンを使うのか、と思った。「ミートローフを作ったの」
「ふうん」
(え)
見れば、彼女は焼いた天板の品をまな板に移し、包丁で薄く切っている。危なげのない手つきに、彼は驚いた。違うと思った。自分の知っている彼女とは違う、と。
しかし、実際のところ、彼女が料理するところなど見たこともない。「不器用だから」と言う彼女の言や周囲の評価で、何となくそうと決めつけていただけだ。
「これは、ご飯と食べると合うんです」
「え、ああ、そう」
うろたえる彼に、彼女は風呂を勧めた。自分のいない間に、爆発でも起こさないかと危ぶんだが、それもないだろう。彼はちょっと茫然と、彼女に従った。
風呂から出れば、ダイニングには仕度ができていた。気取った盛りつけでもないが、ありあわせの皿に、先ほどのミートローフや他の野菜料理がこぎれいに用意されている。
明日は彼が休みで、彼女は「そうだ、あのシャンパンを飲みましょうか?」と言う。
「…いいよ」
シャンパンは、以前の彼女への土産だ。彼が栓を開けてやる。小気味のいい音で開き、泡立つそれを、グラスに注いだ。彼女はその間、料理を取り分けてくれた。
「あ、…ありがとう」
口にするまでは、危ぶんでいた。見た目はまともでも、
(中身が、アレなのでは…)
しかし、いい匂いのするごく小さな肉片を口に入れた途端、彼は芯から驚いた。旨いのだ。以前にどこかで食べたのと遜色ないほどの味だった。
細かな野菜が混じる、手作り感のあるそれは、口の中でほろっと崩れ、実に旨い。
「お、おいしいよ」
「よかった。そんな、小鳥みたいに食べないで下さい」
「…え。ああ」
彼はそこで、彼女へ詫びた。料理が上手いと全然思わなかったと言う。「そんなイメージがなかった。悪かった」
「そうですよね」
彼女は、向こうの食事が合わず、自炊するようにしたと言った。知人の紹介で日本人の女性料理家を紹介してもらい、「簡単で美味しく、健康的なもの」を的に絞り、習ったという。「役者仲間との持ち寄りパーティーなんかでよく作りました。結構手抜きなのに、好評だったんです。ちょっと和風にアレンジしたものを先生に教わったから、ヘルシーな感じがするみたい」
そう言い、カラフルな野菜が混ざったものを取り分けてくれる。こっちは甘酸っぱい。マリネのようだ。
「あ、このミートローフね、ソースと一緒にご飯に乗せてもおいしいですよ」
言われるまま試してみるが、確かに旨い。頷くと、彼女は嬉しそうに笑う。




           


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