天涯のバラ
34
 
 
 
帰宅は七時ごろになった。つい寝入ってほぼ運転させてしまい、彼は申し訳なくなった。彼女は平気な様子だ。彼の車の運転が新鮮で楽しかったらしい。
途中どこかで食事を済ませようと言えば、「二人して、こんな格好で?」と笑った。確かに、ゴルフウエアを二人で着て街で過ごすのは、かなり浮くだろう。だが、着替えて出直すのも面倒だった。
「わたし、簡単なものでよければ作りますよ」
「え、いいのか?」
「はい。でも簡単なものしか出来ないから、期待はなしですよ」
彼女の手料理なら、何でもいい。彼はそれで全然構わないと請け合った。言葉通り、帰れば彼女は手早くグラタンとサーモンのマリネを仕立ててくれる。相変わらず旨く、それパンを合わせて食べた。
夕食の後には彼が誘い、二人で風呂に入る。シャワーを浴びていると、彼女があくびをした。さすがに疲れただろうと、可哀そうになる。
「寝たらいいよ、上がったら」
これで我慢しようと、彼は素肌の彼女を抱きしめる。接待ゴルフも何もかも、彼女のいる今日の全てがありがたかった。一人では、こんな豊かな心持ちは味わえない。
もう一度彼女があくびをした。それからううん、と首を振る。
「ね、速水さんの髪洗ってあげます。わたし、今日、接待でよそ見ばかりしていたから」
「え」
「俺はいい、俺に接待なんかしなくていい」
「だって、ごめんなさい。面白くなかったでしょう? 朝からわたしの用事につき合わせて…」
俯いて、ちょっともじもじとする様は、昔と変わらない。彼はそう思い、可愛らしくて胸が痛くなる。
「そんなことない。久しぶりにいい場所でゴルフもできたし、楽しかった。×山さんも喜んでいたじゃないか、よかったよ。それに…」
思いがけず、鷹宮家の内紛の一端を知ることもできた。あれはあの場にいたからこその僥倖だ。彼女様様である、と思う。それは口にせず、
「君と、あのホステスの女の子、面白かったよ。何だ、君たちのあの掛け合いの上手さは、初対面とは思えなかったぞ」
「ああ、お姉さん。いい人でよかったです。助かりました」
彼女らが身の上話をしていたこと耳にしたことは、言わなかった。好意を持ち合った女同士のふとした打ち明け話なのだ。
彼女は簡単にある層の人々を味方につけてしまう。まずそれには自分も入る、と数に入れた。そして聖や水城、亜弓もそうだし、その母親も同じくだ。彼が伴い、連れ回したパーティーでもそういう人々が多かった…。今日の接待のホステスも彼女を好きになっただろう。
気さくな人柄、演技とそのギャップ、素顔の素朴さ…、彼女には多く魅力はある。しかし、人を魅了する、理由はあるようでないのだ。
その反面、彼女を決して容れない者もある。彼の妻の紫織がその代表格だろうか。表には出さなかったが、彼女を嫌い抜いていたのは、言葉の端々で知れた。
(紫織は、俺を問題にしていたが、それは方便だ)
育ちや出自、持つ持たないは関係ない。何もかもが相容れない、まさに相性なのだ、と彼は実感している。
それから、ふざけるように身体を洗い合い、バスタブに入った。彼女を膝に乗せ、後ろから抱くと、心地の良さにうっとりとなった。
眠そうに眼を閉じ、彼女が愛らしく彼の胸に頬を寄せる。「こら、寝るなよ」と声をかけるが、たとえ眠っても、抱えてベッドに連れて行ってあげようと思う。
「…気持ちよくって。速水さんとこうしているの、本当に幸せ。何にも要らない」
彼女の声は密に胸に響く。
彼は愛おしさに、彼女の頭に唇を当てた。彼女の腕をなぜながら、誰にもしたことのない、昔語りをしたくなった。聞かせるべきは、彼女しかいないのだ。
「俺だって思うよ。…まだ試演の前の頃だな、月影さんに、『紅天女』の絡みで、「魂の片割れ」の話を聞いたことがあった。人間は、二人で一人になるよう造られていて、その半分を探し求めるのが人生の命題なのだとか…」
「…知ってます」
「そうだな、君は『紅天女』で個人指導を受けていたから、よく知っているだろう。俺は、その話を聞いたとき、すぐに君が浮かんだ。それからずっと変わらず思って来た。…色々あったが、引き合って、結局こんな風に君といられるのは、やっぱりそうなのかもしれない、と俺は自分勝手に納得してるんだ」
言い終え、適当な相槌が返ると思った。しかし、何も返らない。若くもない男のロマンチックが過ぎた話に、彼女が引いたのかと思った。
または眠ったのか、と顔をのぞき込むと、彼女が静かに泣いていた。指を噛み、嗚咽さえ堪え、涙を流している。
「ちびちゃん?」
彼は彼女の身体の向きを変え、その頬を両手で挟んだ。「どうした?」
彼女は首を振り、涙を指で拭った。拭い続ける。
「ごめんなさい、びっくりさせて。…違うんです」
「何が違うんだ?」
「…ごめんなさい、『紅天女』の話は…、たまに辛いときがあって…」
確かに、彼女は試演のときから『紅天女』のアプローチで、かなり苦労をしたと言っていた。「自分自身と引き換えにして」女神の阿古夜を受け入れたのだ、と。それは彼女の普段に似ず、まるで吐き出すような強い告白で、驚いたのを彼はよく覚えている。
その『紅天女』の試演から、彼女は人生を大きく変えていく。はっきりとあの舞台から、彼の手を離れ、女優として高く上昇を始めるのだ。きっと、おのれの全てを賭けて挑んだだろう彼女に、非常な覚悟もあったはずだ。振り返るだけで、当時の痛烈な緊張が鮮やかに甦るのかもしれない。
「悪かった、思い出させて」
彼は彼女を抱きしめた。
「ううん、そうじゃないの…」
彼女は彼に身を委ね、「懐かしい気がしたの。すごく、懐かしくなったの…」。
「あの日から、随分経っちゃったんですね…」
彼の言葉に、そんな思いが強まったのだと言った。




           


パロディー置き場へどうぞ♪


お読み下さり、ありがとうございます。
ご感想おありでしたら、よろしければ メッセージ残して下さると、大変嬉しいです♪


ぽちっと押して下さると、とっても喜んでます♪