天涯のバラ
35
 
 
 
風呂上がりには、彼女がねだり、ワインを飲んだ。いつかのように、テラスの前に座り、ガラス越しに夜空を見ながら飲んだ。
彼に寄り添い、寛いだ風でいる彼女を見て、彼は訊いた。
「『紅天女』のことが、少し重荷になってるんじゃないか?」
彼が見る女優の彼女は、常にそれを肩に負っている。何気ない振る舞いにも、彼女が強く意識しながら動くのが感じられるのだ。それは正しい行いだ。人は彼女を通して、『紅天女』をイメージ付けるのだから。
それだけではなく、かつての月影千草のように、彼女の次の世代へ舞台を継いでいく責務もあった。自身が演じ尽せばいいというだけの話ではない。
「え」
彼女は彼を見た。ちょっと笑い、「面倒なことは全部、会社にしてもらってますよ。わたしは阿古夜を演じるだけです」
「そうでもないだろう、君じゃなきゃ成り立たないこともある。将来的な運営のことで不安になったりしていないか? 今後のことで悩みがあれば、俺が相談に乗る。何でも投げてくれていい」
「ありがとうございます。…そんなにくたびれて見えます?」
「そうじゃない。でも、頑張り過ぎてるんじゃないかと思うときはある」
「頑張らせてるのが、速水さんのとこなのに」
「そうなのか?」
「冗談ですよ」
「ちびちゃん、俺は本気で言ってるんだ」
彼女はやや首をすくめて、ワインを飲む。「はい、大丈夫です、社長」
「二人のときに、社長は止めてくれ」
「はい速水社長」
彼は彼女の頬をちょっとつねった。こうして二人でいれば、気負った様子もなく、普段の彼女だ。「とにかく、何でも言えよ」と言っておくに留めた。
彼女はへへと笑ってから、間を置き、
「「魂の片割れ」、すごく大事な意味でしたよね。…わたしなんかでいいんですか?」
「君は、まだそんなことを言っているのか?」
彼は彼女の肩を抱き、ぎゅっと自分の側へ引き寄せた。「君しかいない。君じゃないと駄目なんだ」
「…うん、わたしも。速水さんしかいません。速水さんじゃないと、駄目」
雰囲気に甘えるようでなく、しっかりとした彼女の声が言う。ぴたりと気持ちが重なるのが、彼にはよくわかった。
(本当に「魂の片割れ」はあるのかもしれない)
それはただの異性の相性の符合ではなく、合致することで初めて、交わった二人の人生が始まり動き出すのではないか…。そんな想像は彼に楽しく、心を弾ませる。
「これからはずっと一緒だ。二人で考えて、何でも決めよう。そうやって、二人で過ごしていこう」
「うん」
「遠回りしたものだ…」
彼女を抱き寄せたままの述懐は、独り言のようだ。返事など期待しないそれに、彼女が「え」と彼を見る。
「ずっと前に、君とこうなれたらと思い続けたことがある。ちびちゃんにバラを贈りながら、あきらめつつ、そんなことを願ってた。やっぱり叶わないんだが…」
腕にいっぱいしがらみを抱えたまま、彼女を求めていた。全て投げうつことができたならば、あの頃の彼女は振り向いてくれただろうか…。
しかし、その保証もなく、責任を捨て去れない自分の臆病な堅実さを回顧し、嗤うことはない。彼女が一人の男として自分を見てくれたことは、きっとなかった。無茶な賭けをする前に、既に自分は負けていたのだから、と彼は思う。
ひどく遅れて願いは叶う。
抱えたしがらみは形を変え、背の傷跡になった。心には重石ではあるが、両手は空いた。そんなとき、彼女が現れたのだ。
「…俺が、あの頃、血迷って君に思いをぶつけても、ちびちゃんには迷惑なだけで、大事な『紅天女』の障りになっただろう。俺にも、君を支える準備が多分できていなかった。遠回りでよかったんだ」
「…血迷った速水さんが見たい」
「今じゃないか」
実体はなくとも、妻帯者だ。そんな自分が未来のある彼女に手を出すなど、過去の彼にはあり得なかった。
彼女はくすっと笑う。
「…速水さんは、その頃のわたしの方が好きですか?」
「え」
「そうなのかな、ってちょっと思って…」
彼の声が、昔を懐かしむように聞こえたのだろうか。そうじゃない、と口にしかけ、代わりに、過去の彼女に焦がれてきたのは、きっと過去の自分なのだろうと言った。
当時の彼女は、妻ある身の男を決して受け入れなどしない。紫のバラの恩は免罪符にはならないのだ。
結婚を機に、彼は彼女への生々しい思いを封印した。強いあきらめに、自然に萎れたのかもしれない。しかし消えず、大きな憧れの対象としてそっくり胸に残っていく。
彼の憧れを、再び恋に変えたのは、過去にはなかった彼女の隙なのではないかと思った。再会し、以前は嫌でも味わった彼への強い拒否感を、彼女からは感じなかったのだ。だから彼に心を許した、というのではなく、少女らしい潔癖さから来ていたものが、女性として成長し、薄らいだのだろう、と彼は解釈する。
そのつもりはなくとも、結局、新たに知ったその隙に乗じて、うまうまと接近したことになるのかもしれない。
以前とは違い、手を差し出せば、その手に彼女は自分の手を重ねてくれる。誘えば、嫌な顔もせず応じてくれた。それが楽しくて、ひどく気持ちが跳ねた。彼女のまなざしや仕草、声…、全てにすっかり心を奪われて、また容易く夢中になった。
あのとき、彼女の元カレの存在に、あれほど過敏になり憤りを感じたのは、きっと正しさからの腹立ちだけではない。彼女の魅力から受けるものに、性的に抑圧されてきたのだろう、とも思うのだ。
(男の嫉妬の根っこは、そんなものかもしれない)
「わたしは、今の速水さんが好き」
「ありがとう。…君は素晴らしく成長したが、俺は歳を取っただけだぞ。それに、既婚者にもなった。君には相応しくない、季節外れの中古品だ」
「今の速水さんの方がずっと素敵ですよ」
彼女は彼にもたれ、
「…それに、前の速水さんはこうして抱いてくれないもの」
「寄ったら、二メートルは逃げたくせに」
「二メートル追いかけなかったくせに」
「俺を変態にしたいのか?」
「へへへ」
笑った後で、彼女はちらりと彼を見た。
「今のわたしを見て下さい。遠回りした、今の速水さんを好きな」
きっと彼女だけだろう、と彼は思った。過去も含め、許し、受け入れてくれるのは。
遠回りをしたと、彼女に告げた。自分のことを語ったに過ぎないが、ふと思うのだ。
彼と同じだけときを経、めぐり合って、彼女は彼を選んでくれた。彼女だって幾多の経験という必然の遠回りをして、その帰結に彼へ辿り着いたのかもしれない。彼が贈った紫のバラから始まった、それは二人の運命なのかもしれない…。
(だとしたら…)
自分に都合のよ過ぎる甘い解釈で、口にするのはためらわれた。
だが、急にほしくなって彼女を膝に抱き上げた。グラスのワインが少しこぼれた。「あ」という彼女の唇を、そのままキスで塞いだ。




           


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