天涯のバラ
36
 
 
 
その日彼は、彼女を伴い速水の邸に向かった。ゴルフの日から十日経ち、聖に依頼した鷹宮関連の報告の詳細が手に入っていた。それを義父の耳に入れるためと、亡き母の着物を彼女にやるためだった。
近く『紅天女』の制作発表がある。彼がよければ、彼女はその際に着たいという。反対の理由がない。
母の遺品がそのままの部屋に連れ、箪笥を示した。引出しの一つを開けると、たとうに包まれたものが、ぎっしり入っている。手を入れ粗く見れば、状態は良さそうだ。
「何で、そんな高い所のを開けるんですか?」
彼は適当に、背の高い箪笥の最上段を開けていて、小柄な彼女は届かず見えないのだ。下を開ければいいじゃないか、と思うが、彼女らしく遠慮しているんだろう。
「抱えてやろうか?」
「嫌です。下のを開けて下さい」
彼は彼女を抱き上げて、「ほら」と一番上の引き出しを見せた。「止めて」と抗ったが、のぞければ品に興味が出て、見入っている。無防備な様子に悪戯っ気が出て、つい脇をくすぐった。彼女は身をよじって笑う。
「速水さんの意地悪。大嫌い」
そのとき、声がした。「失礼します」。彼女を下ろして彼が振り返ると、開け放した襖の向こうで、彼が幼い頃から義父に付いて邸にいる朝倉が、妙な顔をしていた。
「…若、ご夕食はどういたしましょう」
「どうする、ちびちゃん。食べていくか?」
「…速水さんに合わせます」
とむっつりと答えた。
「じゃあ、食べていくから、頼むよ」
朝倉が去り、彼は彼女がふくれているのが可愛くて笑った。愉快だった。
「わたし、絶対に変な子だって思われましたよ。速水さんのせいなのに。自分だけ涼しい顔して、ずるい」
彼女は彼の腕をつねる。
「悪かった。じゃあ、俺はもう邪魔しないから、好きに見ていたらいい。後で来るよ」
義父の所へ行ってくる、と彼女を置いて部屋を離れた。途中、電話を一本してから、義父のもとへ向かう。邸の内部は和洋折衷で、亡母の部屋を含め、数間和風の間取りになっている。
義父がいるのは奥向きの居間で、ここも元は和室だが、義父の脚を考慮し、椅子を置くなどし、まぜこぜな内装になっていた。
彼が現れれば、長椅子の義父は手にしていた杖を放り、彼へ顔を向けた。
「朝倉が面白いことを言って来たぞ。家内の部屋で、お前が若い女を抱えてふざけていたと」
表現はあられもないが、事実だ。
うっかりしていたが、この邸で謹厳な印象の強い彼に、先ほどの彼女へのちょっかいは、意外過ぎる振る舞いのはずだ。朝倉が面食らって義父に注進するのも当然だった。
「あいつは年で、ぼけたのか?」
「爺が気を悪くします。本当ですよ」
彼は、彼女へ母の形見の着物をやろうと、見せてやっていたのだと説明した。
義父は唸るような声を出したが、それ以上は何も問わない。しかし、内心は仰天しているのだろう。ちょっとだけおかしかった。
彼はそこで、義父の前に座り、聖からの報告を述べた。
「一昨日に続いて今日も御前会議だそうです。親族の役付きは、今頃鷹宮邸に集められているとか」
「どうやって知った? 今の時期、なかなか守りも堅いだろう」
「はい。それで却って、直接役員の一人に当たりました」
彼は、親族役員の一人からひどく嫌われている。それを口実に、名のみの役員を以前辞してきた。今回、聖の報告を受け、思いついてその男に電話をかけてみたのだ。「鷹宮会長直々の招集の噂を耳にしたが、その予定が伝わらない。都合をつけるので教えてほしい…」との旨を伝えた。
優越感を露わに「ごく身内の、グループトップレベルのものだから、君はお呼びでない」と告げられた。「姻族と親族の違いをわきまえろ」と怒鳴りつけ、大層立腹だった。
三年ほど前までは、親族の集まる定例会議には呼ばれていた。それも欠席が続き、いつしか声がかからなくなった。今では余程の用でもなければ、鷹宮邸には年賀に顔を出すのみだ。
「それで確証を得たので、後は聖にそれとなく探らせました」
「ははは。お前の、嘘くさい堅物面は、毛並みのいい連中には受けが悪いんだろう。わかる気はする。美しいグッピーの群れに沢蟹を入れたようなものか」
返事に詰まる。せめて、同じ魚類で例えてほしいものだ。しかし、自分が異種なのは、しばらくその中で生きてきて、よく彼にもわかっている。それなりに、身を処していくことは可能だが、その労の意味がない。
義父とはその後の、意見をすり合わせ、話が終わった。そろそろ彼女の元へ戻ろうと、腰を上げた。
「ああ、夕食は彼女もご一緒しますが、よろしいでしょう? 『紅天女』を連れてきました」
「ほう」
義父がちょっと目を見張る。そのとき、ノックの音がした。聞き慣れたものでなく、彼はドアへ振り返った。「入って」
その声の後、ドアが開き、思いがけず彼女がおずおずと現れた。
「どうした?」
側に行くと、「会長さんに着物のお礼を言いたくて。訊いたら、こちらだって」
「…だ、そうですよ、お義父さん」
例によって、アイボリーのワンピースを着た彼女の背を押し、義父の前に促した。「え」。小さな声が聞こえた。なぜか、その背が強ばっているように感じる。彼女は傍らの彼を見上げた。
「マヤさん、お久しぶり」
義父のよそ向きの穏やかな声に、今度は彼が驚いた。この二人に、彼の知らぬ何かがあるようなのだ。
ちょっとの間を空け、驚きを払ったのか、彼女が義父へぺこりとお辞儀した。
「その節は、たくさんご馳走になりました。ありがとうございました」
「え」
彼女は次いで、彼へ向き、「会長さんには、試演の前から何度もご馳走していただいていたんです。まさか、速水さんのお父さんだなんて思わなかったけど…」
びっくりした、とちょっと笑った。「『紅天女』候補だもの、興味ありますよね。大都の会長さんなら。亜弓さんとは違って、わたしは無名の女優だったし」
「え」
義父は彼の驚く様子に楽しげに笑った。「そういう訳だ。わしもこの子とは古い仲なんだ」
「今日は、速水さんが、奥さまのお着物を貸して下さるって言うから、お邪魔しました。今度舞台の発表に着させていただこうと思って」
「好きにしたらいい。真澄から聞いとるか知らんが、わしがそう勧めたんだ。思う女がいたらやればいい、と。死んだ家内もその方が喜ぶだろうから」
そこで、再びノックの音だ。今度は朝倉で、彼に電話がかかっていると言う。社の者らしい。ケイタイの電源を切っていたから、邸に掛けたのだろう。
義父のみならいいが、彼女の耳を憚って、外で取ると義父に断り、部屋を出た。
背後では、二人は割りに和やかに話している様子だった。




           


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