天涯のバラ
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ちょっとした報告を受け、判断を迫られ手間取った。電話を終えると側の朝倉が、じき夕食だと告げる。
居間に戻れば、打ち解けたようで、何か話しながら彼女が義父に転がった杖を渡してやっている。戻った彼を見、
「わたし、お着物出したままなんです。直してきます」
彼女は部屋を出て行く。
膝の手術後、義父は大分いいようで、長距離でない限りは足で歩く。少し手を貸しながら部屋の外へ促す。
「マヤと何か話しましたか?」
「お前の女なんだろう?」
「…そうです。お義父さんが、彼女と縁があったとは驚きました」
義父が密かに彼女へ接触したのは、先に彼女が言ったような、無名の『紅天女』候補への興味だろう。彼女は、義父と深い因縁ある月影千草の弟子でもある。
「もう随分前の話だ。わしはあの頃の感触で、この子は『紅天女』は無理だろうと思った。今一つ…、姫川亜弓のような気迫が感じられなかった。…それが、何があったのか、化けたものだ」
「そうですね」
義父とほぼと同じ感慨を、実は彼も持つ。切望していたが、彼女に『紅天女』は獲れないと、おぼろに感じていたのだ。確かに、彼女の身には演技の技量ではない、何かが不足していた。それは義父の言う『紅天女』に迫る、気迫や気構えだったのかもしれない。
しかし、彼女はあっさり彼らの予想を裏切って見せた。観客を、得も言われぬ高揚感と夢に誘う女神を、見事に演じ切ったのだ。
姫川亜弓の絵から抜け出したようなそれとは違い、彼女のものは、女性が本来持つ神秘性を高めたもののように感じられた。女性がある折りに見せる、身近な神々しい強さや美しさを抽出して集めたのかのような魅力を、リアルに観客の前に振りまいて見せた。
(当たり前にある神性、と言えばいいのか)
試演ののち、記事がこぞって彼女の演技を評し、「恋に落ちる舞台」、「観客をいざなう天女様」などと書いた。観る者が男であれば、一真を通して阿古夜との恋を疑似体験し、女であれば、阿古夜の目から、一真を愛する心持ちを味わった…。
彼も当時の熱は、容易に思い出すことができる。長い間、一真役の桜小路が、妬ましく疎ましかったくらいだ。
今年からは演出家も替え、舞台が変わると聞いた。相手の一真役も、桜小路ではない。
「相手がお前なら…」
義父の言う意味を取りかねた。『紅天女』の相手役、一真を指したのかと一瞬思ったのだ。ふと、あの舞台から注ぐ彼女視線が、まっすぐに自分へ向けられる様を思い描いた。彼女にとっての真の「一真」は、自分であるのでは、とぼんやりと思う。
「あの子はずっと日陰の身だな。どんなにそれらしくても、所詮は愛人だ」
義父の言葉が痛かった。そのことは、彼女が納得し、彼はそれに強く押され、甘える形で今に至っている。指摘されれば、反論の余地はない。
「息抜きの出来る女を作れ、とおっしゃったのは、お義父さんですよ」
ふて腐れた声が出た。
「あんなすごいので息抜きするは予想外だ。玄人の女を探すと思った。…まあ、妻の地位だの世間体など言っても、中身のない馬鹿々々しさが骨身にしみたお前には、下らないか」
紫織との破綻した結婚生活のことを指している。義父が縁談を持ち込み強引に彼に勧めたことに、恨みなどはない。どこかで方向転換は効いたはずの、それを逸した自分にも、大きな過ちはあると痛感しているからだ。
しかし、こんな風に彼女をダシに揶揄られると、むかっ腹が立つ。返す声が尖った。
「下らなくはないでしょう」
義父はちょっと笑い、「大都グループの代表が、何て顔しるんだ、子供みたいに」。
「わしじゃない、あの子が言ったんだ」
「え」
彼が外した間に、彼女と彼との関係について話したのだと言った。
「あの嫁とは離婚が効かないことを言った上で、お前とつき合うのなら、日陰の身になるがいいのか、と訊いた。玄人の女のように割り切れるのか、とな」
それに彼女は、「速水さんの奥さんになりたいとなどとは思わない」と答えたという。「自分は育ちも悪く、まず相応しくない」。
「普通の家庭を知らないから、そうなるべきという指標がない。実質があれば、気にならないのだと言っていた。それに、お前を独占しているのは自分だけだから、と。わしが玄人の女を望むのなら、玄人のつもりで見てくれ、覚悟はあるから、だと」
絶句しながら、頬が熱くなった。
義父を前に、そんなことを気強く述べてくれる彼女の心が嬉しかった。彼女の腕が身体に回り、暖かくなるような錯覚が走る。
「朴念仁が、すっかりキンタマをあの子に握られたな」
相変わらずの毒舌だが、事実はそのようなものだ。何も言わず、苦笑するに留めた。
「お前の親を三十年ほどやって来たが、女を見せてもらったのは初めてだ」
「…女性とちゃんとつき合うのは、僕だって初めてですよ」
結婚前もそれ以後も、彼も男で、悪友のつてで、金で関係を持った女はある。ある時期から、抱く相手は一人のマヤに酷似する容姿の者になった。組み敷いている間、まるで彼女にそうするような夢を見られたのだ。
その倒錯にややはまり、数度続けてその女性と関係を持った。しかし、情事の後にふと強い虚しさに襲われたのを機に、会うことはなくなった…。
彼女にはとても打ち明けられない、彼の中の黒い秘密だ。
「…あの手が好みか、まったく意外だった。鷹宮の人形みたいな娘じゃ満足できないはずだ。わしの見込み違いで、斬られ損だな、悪かった。ははは」
「悪いと思っていないでしょう」
「そうだな」
義父を朝倉に任せ、彼は彼女を探しに行った。彼女は亡き母の部屋で座り、選んだ着物を箪笥にしまっていた。膝もとに残したものを借りると決めたという。
ちらりと見れば、黄緑の地に白と青の小花が散っている柄だ。主演女優で若い彼女に少し地味では、と思った。しかし、元々四十前の母に義父が買った着物なのだ。娘らしい品がある訳がないのだ。
「いいのか? 急げば、新しいものを買えるぞ」
「これがいいんです」
欲がなく、控え目な彼女らしい。女性らしい品には興味が薄く、また彼の妻の座も望まないという。彼女は一体何を欲しがるのだろう、と彼は思う。自分を独占しているからいいのだと告げたのなら、彼女に自分の全部をやろうと思う。
アイボリーのワンピース姿の彼女を眺める。その小さなたたずまいに、つきんと胸を刺すように、彼女への愛しさがこみ上げてくるのがわかった。彼には折々こういうことがあって、腕を引いて抱き寄せた。
「義父から聞いたよ」
「え」
「ありがとう」
彼女は照れて、少し抗った。「駄目、また見られちゃうから…」
「いいじゃないか、俺の家だ」
「お母さんのお部屋でしょ?」
「喜んでるよ、大人になったと」
ちょっと無理に口づけて、囁いた。「食事が済んだら、早く帰ろう」
彼女が抱きたくなった。昔、その偽物を抱いたが、何もかもはっきり違うことを、今の彼はよく知っているから。




           


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