天涯のバラ
38
 
 
 
彼女と暮らし始め、一年が過ぎた。生活は順調で、その間、二人の間に取り立てた問題はない。噂にもならなければ、大きな喧嘩もなかった。
一つあるとすれば、ひと月ほど前の朝、彼が思い出して彼女に訊いたことがあり、それがきっかけのすれ違いだった。
ふと思い出し、彼女が以前会員になったアメリカの精子バンクはどうしたのか、訊いた。「忘れてた」、「あ、本当だ、どうしよう」などの、とぼけた返事が返ると、何となく思いながらの質問だった。
それに彼女は、「ああ」と頷いた。「そのままですよ」と言う。
「いいのか、何もしなくて?」
「はい。五年間は会員登録が有効なんです」
「は」
「だから、そのままにしてあります。…速水さんと、今後何があるかわからないから」
彼は彼女の返事を聞き、顔を背けた。ぱちりと目を瞬いて自分を見る、彼女の普通の表情を見ていたくなかった。
(「速水さんと、今後何があるかわからないから」だと)
別れを予想したようなそれに、すごく、すごく傷ついたのだ。彼はショックのあまり、何も言えずにそのまま家を出た。その足で、機械的に会社に向かった。
様子のおかしい彼を心配した彼女から、ケイタイに電話が来た。運転中を理由に、出なかった。社に着けば程なくして、今度は水城が彼女からの電話をつないできた。「俺は外出したと言ってくれ」
「よろしいのですか?」
秘書は目を見開き、万馬券を捨てると聞いたような顔をする。
「いいから、つなぐな、忙しいんだ。あの子の相手なんか出来ない」
彼女の電話を不機嫌に退け、仕事に没頭した。嫌なことから仕事に逃げるのは慣れている。逃げ続けていても、時間は経つ。いつしか夕刻になっている。普段は、事情がなければ七時過ぎには社を出ることにしていた。帰れば、彼女がいるからだ。
この日、その彼女が待つと思うと、気が重くなった。しかし、これ以上避けるのは無理でもある。
自分の方が思いは強いとはわかっていた。何しろ彼女が十三歳の頃からの恋だ。年季が違う。一端途切れても、また焼けっぼっくいに火は簡単に点き、燃え上がった。そして、実りがあった分、今の方が愛情は深く執着は強い、と自覚する。
彼女の彼を思ってくれているのは伝わる。愛されている実感もある。
なのに、なのに、だ。
(「速水さんと、今後何があるかわからないから」とは何だ。何かとは、何が起きると言うんだ)
すぐに訊き返せばよかった。「どういう意味だ?」でいい。しかし、心に刺さった杭のごとき彼女の言葉に、彼はうろたえて、つい背を向け逃げてしまったのだ。喧嘩になるのを避けたためもある。
これまでの性根は変わらず、彼は大人の彼女を、少女の頃のような物言いで叱りつけることもある。嫉妬が理由の大半だが、それに彼女は少しふくれても怒りもなく、大抵は彼に甘えるような仕草を見せてことを収め、優しくやり過ごしてくれている。
彼女の自分をなだめてしまう見事な手腕と懐に、気づきつつ、実のところ甘えているのは彼の方だった。
(認めたくないものだな。あのちびちゃんに、いつの間にか、精神年齢を抜かれている、などとは)
自分の今朝からの振る舞いの、本当の理由など、彼にはわかっていた。喧嘩になるのを避けた、というのは表向きの理由で、実は知りたくないだけなのだ。彼女が自分との関係に保険をかけるようなことをしていることを、これ以上聞かされたくないだけだった。
朝以来、何度か彼女から電話があったと、水城は言う。渋い顔で言う。彼のケイタイにも、幾度か入っている。メールも着ていた。
『どうしたんですか? 具合でも悪いのかと、心配しています。連絡を下さい』
返さなかった。
意地になったのかもしれない。心無い言葉で傷つけられたのは自分だと、愛する彼女を相手にぷんぷんにむくれていた。だが、どのみち話し合わない訳にはいかないのだ。
いつもの時間より、小一時間も遅くに部屋を出た。地下の駐車場へ降り、以前彼女の好みで買い替えた車に乗りこむ。そのときルームミラーで気づいた。
彼女がいたのだ。リアシートに横になり眠っていた。コートの下に花柄のスカートがのぞく。こんな寒い中、いつからいたのかと、驚きつつ思う。
振り返り、
「おい、ちびちゃん」
彼が声をかけた。呼び声に、彼女は目を覚ました。身を起こそうとして、ずるっとシートの下に落ちた。「わ」と言い、そのまま彼を見た。
「大丈夫か?」
「はい…」
彼女は落ちた妙な姿勢のまま、顔を覆った。泣いているようだった。
車内が冷えている。彼は慌ててヒータ−を強めた。一端車から出て、自分のコートを彼女の肩に更に羽織らせた。そうしてから肩を抱き、助手席へ座るよう促した。彼も運転席に戻った。指の背が触れた頬が冷たい。
「何でこんなところにいるんだ? 中に入ればいいだろう」
「ごめんなさい、スペアキーがあったから。だって、…速水さん、わたしに会ってくれないと思って…」
「馬鹿なことを言うな」
言いながら、馬鹿なのは自分だと思った。朝から無言で家を出て、電話にも出ず、メールも返さない…。彼女がそう思うのも当たり前だった。
「いつからいたんだ?」
「六時頃かな…」
彼が部屋を出たのが、八時頃だ。その時点でもう二時間も経っていた。くしゅん、と彼女がくしゃみをした。こんな場所で長くうたた寝していれば、風邪くらい引く。
思わず手が伸び、彼女を抱き寄せた。「寒くないか?」。
「無茶なことをして。風邪を引くくらいわかるだろう。気をつけなさい」
「初めは起きていたんだけど、つい寝ちゃった」
彼は冷えた彼女を温めてやり、随分前、まだ少女っ気の抜けない頃の彼女を、こんな風に同じく抱いて温めたことを思い出した。過去のそれも今も、自分の腕の中という、彼女の収まるべきところのように感じている。
彼に身を預けながら、彼女は泣いている。「速水さん、わたしのこと怒っているんでしょう?  何かした?」
「…うん、もういいよ。俺もいけなかった…」
そのとき、離れた人の姿が目に入った。この駐車場は一部社員と来客専用の場だ。これまで彼女とここにいたことは多くある。一緒にいて、人目に立つ場ではないが、注意は常にしてきた。
彼は彼女を放し、そのシートを倒し、コートを掛けてやり、寝ているように言った。ヘッドライトは消している、車内に誰かいるのは知られても、彼一人だと見えるはずだ。
「ねえ、教えて。わたし、きっと何かしたんでしょう?」
彼女に自覚がないのはわかっているのだ。しかし、無自覚に彼との破局後を考えられるのも非常に辛い。
(若い彼女が、俺の次に備える気に満々でいられるのは、嫌なんだ)
「おいしくなかった? 今日の朝ご飯…。ベーグルにサーモン合わせるの、嫌でした?」
「そうじゃない。おいしかったよ。君が俺に作ってくれるものは、みんな旨いよ。それに、そんなことで、怒る訳ないだろ。それじゃ、馬鹿な暴君じゃないか」
「…じゃあ、何ですか?」




           


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