天涯のバラ
39
 
 
 
彼は起きそうになる彼女を制し、朝の会話の件を、ぽつりぽつりと話した。『精子バンク』の登録を解除しない彼女の意図が、癪に障り過ぎたことだ。
会員のままでいるのはいい、しかし、せめてそのことを忘れていてほしいのだ。計画的に「五年は会員権がある」などと、彼女に意識されているのは我慢がならない。
「俺との仲が終わったら、またそこですぐ子供を作る気でいるのか?」
「あ…」
彼女は寝たままの姿勢で彼を見た。驚いた顔をしている。彼の意見は思いがけなかったのがわかった。
「ごめんなさい」
「謝るのはいい。それが君の考えなら、しょうがないよ。だが、そんな簡単に次善の策を用意されていると、堪らないんだ。君にとって、そんな仲なのか? 俺たちは…」
彼女の合理性は理解しているつもりだ。しかし、面白くないのだ。彼女はそんな彼を見つめながら、唇を噛んでいた。
涙声で、
「…って、帰っちゃうかも、しれないもの…」
「え」
彼女は顔を覆いながら、「…だって、速水さん、いつか、…奥さまのところに、帰っちゃうかもしれないでしょ? …そんなの、わからないじゃない…」
「え」
彼女は泣いている。「この先が怖いから」と。
彼はあまりの言葉に、茫然とハンドルに顔を伏せた。しかしすぐに起こし、彼女へ顔を向けた。「どうして?」。
「そんな訳があるか。知っているだろ、君は俺と妻に何があったか。そんな…」
「…知ってます。でも…奥さまは、わたしにないものを、いっぱい持っているから…、すごく違うから。だから…、怖いの」
そのため、「逃げ場」が欲しかったのだと言った。
彼には損得で自分の未来を安く投げ打った、前科があるのだ。彼女は気づかって言及しないが、妻の紫織が「わたしにないものを、いっぱい持っている」はそれを指すのだ。
自分の勘違いめいた思いと彼女の心の屈託とのギャップに、彼はため息をつく。可哀そうな目に遭わせたと思った。
(俺は、とことんのんきな馬鹿だ)
彼女の頬に触れ、髪をなぜた。こんな場で話していられる問題じゃない。風邪を引いたような彼女の身体も気になる。
「帰ろう。ここを出たら、身体を起こしていいから」
地階に上がれば、彼女は彼の指示で身体を起こした。恥ずかし気に車窓に顔を向けている。
そうしながら、「誤解しないで」と彼女は言う。
「今の関係に不満はないんです。これ以上、わたしは本気で何も望んでないし、…速水さんを縛ろうなんて考えていないから、安心して下さいね」
だから、その時期が来たら、さようならを言われても構わない、とつないだ。
「ただ、次を考えることを許してほしい。それだけです。いけませんか?」
彼女は、彼が妻と復縁することが「怖い」と、可憐に涙ぐんだその後で、すっきりと気持ちを整理したいつもの実際的な面を見せる。
彼女のこんな面は知っているのに、彼はやはり戸惑うのだ。
その返しに、彼は「帰ってから話そう」とのみで、言葉を切った。整然とした心の彼女とは違い、彼の思いもその中身も乱れているのだ。
帰宅し、向き合って彼女と話した。実に嫌な話題だが、彼女の先走って誤った未来図も破ってしまわないといけない。
「いつも、そんなことを考えているのか?」
そんなこととは、彼が妻とよりを戻す可能性を指す。口にし、彼は今朝自分がふと『精子バンク』のことに触れなければ、彼女の本音を知ることはなかったのだと気づく。今日の行き違いがなかったら、彼女は決して打ち明けることはなかっただろう、彼はそう思う。
彼女は俯きながら、ううん、と首を振った。「考えているんじゃないけど、…忘れません」
そして顔を上げ、責めているんじゃないと言う。
(いっそ責めてくれ)
黙って、普段の顔でこつこつと別れの準備をされる方が、よほど辛い。勝手な言い分で、言いはしなかったが、彼は長く吐息し、気持ちを吐き出した。
「わたしは愛人です」
「君をそんな風に見たことはない。ちびちゃん、俺は君ほど人を内側に入れたことがないんだ、わかってくれないか。こんな風に暮らすのも初めてだ。誰ともしていない。君だけなんだ。後にも先にも、他にはあり得ない」
「わかってます。速水さんにとって、わたしが特別なのは、よく知ってますよ。すごく長いつき合いだもの」
「じゃあ、俺の気持ちもわかるだろ。あの妻とやり直すことは絶対にない」
「…はい」
彼女が彼の言葉に、晴れ晴れと頷いてくれないのが悔しい。
口憚ることだが、妻との浅ましかった生活の何かを生々しく晒さないといけないのか、と暗い気持になる。それに、「これほど君とは違うんだ」と、その差を示して見せたところで、心根の優しい彼女が喜ぶとは思えなかった。
ふと、彼女が顔を上げ、「わたし前に、速水さんにびっくりしたことがあるんです」。
「ずっと前のことですよ。やっと速水さんが紫のバラを贈ってくれていたって、わかった頃…」
不意の昔話に、彼は彼女を見た。吸わない煙草を指先に弄んでいたが、それをテーブルに放した。
彼女は頬に手を当て、やや視線を下げている。
「速水さんって、バラもそうだけど、時々、似合わないなって思うことをしていたんですよ。星に詳しかったり、たい焼きが懐かしいと言ってみたり…。こんな人がおかしいなって感じたけど、でも、速水さんは楽しそうでした」
彼女の話がどこへ流れるのか読めず、彼は彼女を見つめた。
「あるとき、速水さん、今の奥さんと婚約をしたでしょ。その時、わたし本当は思ってたんです。ちっとも嬉しそうじゃないな、って。あんなに美人で素敵な人をお嫁さんに出来るのに、詰まらなさそうな顔して、無理してるのかなって、思いました」
「それは、好きでもない女性と結婚するのは面白くないだろう。君がいるのに…」
「あはは、そうでしたっけ」
空笑いのような返しだ。彼はあの頃の自分が、彼女の前では懸命に取り繕い、平気でいようと努めていたことを振り返った。夢に邁進する彼女に対し、それなら自分も役割を完璧にこなすべきだと、遮二無二なっていた…。
自分の脆い演技など、彼女には簡単に看破されていたのだ。物事を観察し、模倣、再現する訓練ばかりをしている役者なのだ。特に彼女はその勘がいい。人への洞察力に長けていて当たり前だった。
今より若い彼女の目に、自分は後手後手に失した、格好つけの滑稽な男に見えたのかもしれない。ちょっと情けなくなる。
「言わなかったけど、嫌なら止めればいいのに、って思ってました。止めないのは、わたしなんかが見るより、案外仲がいいのかなって…」
「君が言ってくれたら、きっと止めたよ」
彼女は首を振り、わたしにそんな権利はない、という。彼は思った。あの頃の彼に対して、婚約を止めろと言う権利を持ったのは、ただ一人彼女だったのに、と。
「でも、…速水さんは結婚しました。大変な事情があったのは聞きました。私情を挟めなかったんでしょ、嫌だとか、止めたいとか、そんなわがままは…。どんなに意志に反しても…」
彼は相槌を打たなかった。既に彼女の話の論旨が見えていた。
彼女はもう一度繰り返す。
「それで、やっぱり速水さんは結婚するんです」




           


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