天涯のバラ
40
 
 
 
彼の本意とはどれほどかけ離れていても、周囲の状況が許さなければ、彼は彼女と別れ、妻との生活を選ぶのだと、彼女は言いたいのだ。
(あんな妻とやり直すなら、今こそ何もかも捨ててやる)
心中、吐き捨てたが、言葉にはしなかった。彼女が耳にしたくないと思うからだ。
向かい合って座っていたが、彼女はそこで立ち上がり、彼の隣りに掛けた。その膝に手を置き、顔をのぞく。
「…ごめんなさい。意地悪なことを言いました。速水さんが、わたしを特別にしてくれているのはわかるんです。大事にされているって、すごく思います…。でも、」
彼女が俯いた。しゅんと鼻をすするから、ちょっと泣いたようだ。
「人って、変わらないから…。好みとか、何かの基準とか…、根っこの部分は、変わらないでしょ」
「君は、ひどいな」
顔を上げた彼女へ、彼は、「一度判断を誤ったら、お終いなのか? 仕切り直すことを許してはくれないのか? それが最後で、もうチャンスはなしか?」
彼女は彼を見た。
また、あの瞳だ、と彼は思う。こちらの心を見通すような、鋭いくせに優しい彼女の視線だ。すっかり奥まで射貫かれた気分になる。
「…速水さんは、今のわたしの全部だから」
失うのが怖いのだ、と彼女は呟いた。「ごめんなさい。覚悟もあるし、わかってるつもりなのに…」
「俺にも君が全てだ。君を失えば、何もない、空っぽだ」
彼女が訴える彼への不安は、愛情に基づいたもので、彼が好む愛らしさがあり、ひどくいじらしい。可愛いと、離せなくなる。膝の手を取り握る。引き寄せてきつく抱いた。
彼の腕の中で、彼女は少し身じろぎした。強い抱擁から逃れるように身体を引く。
「…でも、選ぶときが来たら、速水さんのいいように、して下さいね。自由に考えて。わたしは強いから、平気です…。だから『精子バンク』はそのときのために、許して下さい」
「そのとき、なんか来ない。解除したっていいだろう」
「…うん……」
「いつか、俺の子を産んでくれるんじゃないのか?」
「…いいの? 速水さん、それでも…、いいの?」
強く願っていたはずの望みすら、こんな風に彼の許しを請おうとする。覚悟ある彼女が、妻ある自分との先をためらい悩むのは、当然だ。
(それほどに、俺は罪深いのだ)
「どんな責任も必ず取る。いつか、君の準備ができたとき、俺の子を産んでほしい。二人で親になって、育てよう」
「…うん」
彼は彼女の小さな顎をつまむように指で上げ、やや強引に口づけた。気分が高まって深く舌を這わせ、再び強く抱きしめる。どれほど何を重ねても、言葉では彼女は納得しないのだと悟る。
これからも続く二人の日々の中にある、意味や重さに、彼女が時間をかけ判断していくものなのだ。
彼に出来るのは、迷いのない愛情と変わらない意志を示し続けることだけなのだろう。
ふと思いつき、彼女に知らせるつもりのなかったことを、彼は口にしていた。
「これは、聞いたら忘れてほしい」
少し唇を離して、彼が言う。「ある問題があって、妻の実家は少し面倒なことになる」
鷹宮グループの物流部門のトラブルが、問題化しかけているのだ。事の発端は先年自殺したその理事の残した手記だった。労災認定を良しとしない鷹宮に対し、遺族が人権派弁護士を立て戦う姿勢を見せたのだ。そこで、暴力団との強い癒着を綴った手記の存在が露わになった。
彼はその情報を某所から得ていて、調査もさせていた。既にある距離を更に置き、静観を決め込むことで、義父とも意見は一致している。
そんな騒動に、あの家の娘である紫織とよりを戻すなど、損得で考えてもあり得なかった。詳細は省いたが、ある程度を彼女に伝えた。
「え」
「だから、妻とは戻らない。形だけの関係は続くだろうが…」
彼女はやや呆けたようにし、彼をちらりと見た。
「君が喜ぶとは思ってないよ。ただ、少し、安心してくれないか。俺が君を手放すことはないんだ」
「…はい」
彼女が彼の胸にもたれ、どこかぼんやりとしている。しばらくそうしていて、「どうしてだろう…」。そうつぶやくのが聞こえた。
「ちびちゃん?」
「…と思ったことなんか、ないのに…」
「え」
彼は言葉の意味がわからず、彼女の顔をのぞき込む。「何を言ってるんだ?」
「え」
程なく、彼女は目を瞬いて笑った。「ううん」と首を振る。
「お腹空いたでしょ。鯛めしの用意してあるんです」。何気ない声を出した。彼の腕を逃れて立ち上がる。
「おいしいですよ。向こうのホームパーティーでもよく作って、好評だったんです」
さらりと涙の気配を脱いで、彼女はもういつもの顔をしていた。キッチンに向かうその背に、彼は、さっき何をつぶやいていたのか、重ねて問おうとした。
しかし、気が削がれ、問いの代わりに煙草を口にくわえ火を点けた。女優の彼女には世界の違う話で、驚いただけなのだろう。
しばらくののち、彼が整った食卓を前に彼女に訊いたのは、全く別のことだった。今回のすれ違いの元となった、彼女が申し込んだ精子バンク『ミラクル・ラボ』の件だ。
「会員権が抹消するのを待たなくても、契約の解除くらいできるだろう?」
彼女は彼のグラスにビールを注いで、自分のグラスにも満たす。ごくごくと飲んだ後で、
「解除はしません」
「どうして? 俺が嫌だと言ってもか?」
「だって…」
彼女はもじもじと下を向く。
彼だって、出来る限りの誠意を示しているつもりだ。その反応も薄く、彼女が逃げ腰なのは面白くない。答えを急かした。
「…かもしれないでしょ?」
「何が?」
彼女は『ミラクル・ラボ』の冊子にあった、と前置きした。「わたしの意見じゃないですよ。チーフ顧問のドクター・ルイスのお話しですよ」
「は」
彼女は声を落とし、「『昨今、不妊の要因としては、男性側の問題点が新たに大きくなり云々…』だそうですよ」
彼はテーブルに肘をつき、額に手を置いた。
「俺が不能だって言いたいのか?」




           


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