天涯のバラ
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「…だから、わたしじゃなく、チーフ顧問のドクター・ルイスの意見ですって。『膨大なデーターから精密かつ大胆に検出した、最新の生殖化学の次なる指針』だそうです」
「何が『精密かつ大胆に』だ、あり得るか。大胆な時点で精密じゃないだろ。馬鹿々々しい。俺が言ってるんだ、止めろ」
吐き捨てるように言った。
実は彼も気になって、ホームページを見たことがあるのだ。有名スターを始め、多くの会員数と実績を誇り、更に資本のバックは著名コンピューター企業なので驚いたものだった。
「だから、言いたくなかったのに」
彼女はぷくっと頬をふくらませた。
問い詰めておいて、叱りつけるのは、彼女に対し彼によくある悪癖だ。「悪かった。言い過ぎたよ」と詫び、
「…仮にだ。仮にだぞ、俺がそうだとして、どうしてそこで子種をもらわなくちゃいけない?」
「嫌ですか?」
(嫌だろ、普通)
心ではきっぱり言ったが、彼女へは頷くに留めた。
彼女は彼の様子を見て、小首を傾げた。「じゃあ、保留ですね」
「まだ保留なのか?」
「だって、高いお金を払って会員になったのに…。一度も試してないんですよ。もったいないじゃないですか。…もう、速水さんが変な約束させるから、体験しそびれちゃった。悔しいな、一度くらいしておきたかったのにな」
「…ちびちゃん」
それ以後は絶句し、言葉にならなかった。もったいなさと未知への興味のみで、身体に他人の精子を入れたがる彼女の嗜好に、彼は眩暈がした。また額に手を置く。
(俺の前で、他人の精子を惜しんで「悔しいな」か?)
「…君は変わった子だな」
「え」
彼女は白菜と鶏を蒸したものを彼へ取り分けてやりながら、不思議な顔をした。ちょっとしてから、ああ、と笑った。
「じゃあ、速水さんの方がもっと変わってますね」
彼にも、彼女の笑いの意味がわかる。その「変わった子」が長く好きで好きで、離れられないのだ。
「そうだな」
苦笑して認める。
「速水さん、おいしい?」
「ああ、おいしいよ。いつもありがとう」
彼女は嬉しげににっこりと笑った。その笑顔を見ながら、何の不足も不満もない、自分の今を思う。彼女がくれるあれこれは、既に生活の一部であり、彼の幸せを成している。
愛情、優しさ、気遣い…、彼へのそれらには献身さすらあるが、彼女は押しつけや自己犠牲を見せない。軽やかなやり様で、彼に日々たっぷりと彼女とあることの、当たり前の幸福を味あわせてくれていた。
(精子バンクか…)
彼は、ちょっと思う。
かけがえのないそんな彼女にせめて報いるには、折々の贈り物などではなく、その気の沿うように心の自由をやることなのかもしれない。一時は彼女がじっくり選んだ決意なのだ、それを形だけでも残す自由くらい許すのは、自分の男としての度量で優しさなのだろう。
(しかし)
わかってはいるが、彼女が何かのきっかけで「一度くらいしておきたかった」好奇心を満たすために、渡米の際にちょっと経験してみないとは限らない。それは絶対にまずい。非常にまずい。
(何しろ、あのちびちゃんだからな)
男の度量と優しさは、別で表現することにして、彼は、
「なあ、ちびちゃん、惜しいのは、まだ精子バンクの会員だからだ。止めてしまえば、そんな気持ちも消えるよ」
「嫌です」
彼女は彼を上目で見ながらぷうとふくれ、妙なこだわりを示した。それを見て、そんなに他所の精子が欲しいのかと、かちんとくる。精子なら、生が目の前にあるじゃないか。と腹立たしいのだ。
(覚えていろ、後で…)
と、心中淫らなことを企てる。話し合う際の彼女の悩ましく可愛い様子に、じれじれしていたのだ。
彼女は彼がもう言葉を継がず、しれっと箸を進めるのに、納得したとでも取ったようで、
「どうですか? この蒸し物。前にみんなと行ったときに、山岸理事長の奥さまの割烹で教わったんです」
「おいしいよ」
「また速水さんを連れて来てくれって、理事長がおっしゃっていました。そうだった、「つき合いや会合の流れに、筋のいい客を気軽に同伴してきて構わないんだ」って」
彼女を通じての、偉ぶった図々しい営業だ。「筋のいい客〜」には失笑が出た。ぽっと出の小店が客を選り好みする時点で、客には選ばれないだろう。
(潰れるんじゃないか、近いいうち)
とは言わなかった。ふうん、とのみ返した。
「速水さんって、やっぱり優しい」
「え」
彼女の言葉に目を上げた。理事長の割烹の悪口を、敢えて言わなかったことかと思った。彼女は、彼が「いつも、わたしの気持ちを汲んでくれる」と言った。
「我がままだって、許してくれるし…」
先の『ミラクル・ラボ』の件で、彼が言い分を引っ込めたのを、彼女は彼が折れてくれたのだと、取ったようだ。実は折れてなどいない。
「ごめんなさい。わたし、甘えてばっかりですね。ついもたれかかるみたいになっちゃって…」
甘えてもたれかかっているのは、自分だと感じていたが、告げなかった。
「いいじゃないか」
「速水さんって、やっぱり本当に大人の男の人だなって、思います」
本当に大人なのは彼女の方だと、日々痛感しているが、告げなかった。
「そうでもないよ」
ただ、それのみを口にした。




           


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